21世紀養生塾沖縄
1
  HOME トップページへ戻る
1
  お知らせ・イベント情報
1
  奥田のコラム
1
  21世紀養生塾沖縄とは
養生塾沖縄の概要
奥田代表の活動基幹
帯津塾頭 楊名時先生
1
 
気功教室・太極拳教室
健康倶楽部「天遊会」
帯津良一塾頭の講演会
1
  入会案内・お問合わせ窓口


太極拳・気功教室
健康倶楽部 天遊会
帯津良一塾頭 講演会
奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO308) かけがえのない恩師3人の旅立ち その3 ( 2021/10/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

(3)柳家小三治さんの訃報

 古典落語の名手として、人間国宝の地位まで昇りつめておられた、あの柳家小三治さんの訃報(81歳)を知ったのは、10月11日のTVと10月12日の新聞でした。
あまりの突然の訃報に、どうする事も出来ず、翌日奥様宛に弔電を送るほかはありませんでした。

 小三治さんを紹介して下さったのは、(故)永六輔さんで、もう30数年も前の事かと記憶しております。その当時、沖縄の国際通りの地下に、“沖縄ジャンジャン”という小劇場があって、永六輔さんを囲む6〜7人の俳句の会で、ご来沖されたメンバーの一人が柳家小三治さんでした。
 この会はジャンジャンでの公演を終えられた翌日は、その当時、首里金城町にあった私の家(首里の森ギャラリー)を訪ねて下さり、そこでも溢れるばかりの賑やかな俳句と歌の会が催うされていたのです。その頃の小三治さんは、新進気鋭の落語家という印象でした。
その頃の私は、まだ殆ど落語のことは知らず、マラソンに夢中の日々を過ごしていて、来る日も来る日も、朝に、昼に、夕に、只々走るばかりの人生でしたが、何故か小三治さんはそんな私を気に入って下さり、私が海外マラソンを完走する度に、まさかの葉書きを送って下さるのでした。私は小三治さんにほめられる事が嬉しくて、一生懸命マラソンを走っていたような感もしておりました。
             〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 柳家小三治さんは、沖縄の夏のマンゴーと、冬のタンカンが大好きでした。ある日、小三治さんのお弟子さんがNHKの落語大賞を受賞された時に、マンゴーをお送りして、“一部をその大賞を受賞されたお弟子さんにもおすそ分けして下さい”との手紙を添えたら、返ってきた返事には何と、“自分はそのような立派な弟子を持った覚えはないので、送られてきたマンゴーは誰にもあげないで、全部自分ひとりで食べます”と書かれてありました。ちょっと変わり者の、本当に面白い人でした。

 小三治さんの事でもう一つの深い印象は、永六輔さん達の俳句の会の途中で、突然“一人でドライブをしたくなったので、車を貸して下さい”と言って出掛けたのです。1時間ほど経って、“今、万座ビーチホテル迄来ているので、これから帰ります”との電話が入りました。一時間ほどで帰えってくるものと思っていたら、何と30分も経たないうちに帰って来たので、まさかのびっくり仰天です。どう考えても1時間ぐらいかけて行った先から、その半分の時間で返ってくる為には、時速150〜160キロのスピードを出さなければ辻褄が合わないのです。若かりし頃の柳家小三治さんの想い出話です。
 小三治さんの落語で私が一番大好きなのは、“卵かけごはん”です。

           〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 今年の2月の末から3月始めの頃、沖縄のタンカンを送って、暫く経ってから、突然私の家に電話が入り、何も言葉は出さずに、ただすすり泣きだけが聞こえてくるのです。“どちらさんですか”と何回か尋ねるうちに“小三治、小三治、小三治です”と小さな声が伝わって来たのを最後に電話は終わったのですが、今から思うにはよほど体調が悪かったにもかかわらず、タンカンのお礼を伝えようとしてくれたに違いありません。本当に本当に残念でなりませんが、小三治さんとはあの時のあの電話が最後となってしまいました。
(まだ81歳の若さでした。)
 小三治さん、残念でなりませんが本当に有難うございました。私も85歳になりましたが、私は100歳までは生きると宣言して生きておりますので、あと15年経ったらそちらでまたご縁をつないで下さいね。永六輔さんにもくれぐれおよろしくお伝え下さい。   合掌です。
                 2021年10月31日の記


奥田のコラム(NO307)かけがえのない恩師3人の旅立ち その2 ( 2021/10/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

(2)Hank Johnson 先生とのお別れ

 Hank Johnson(ハンク・ジョンソン)先生とは、著名なアメリカのゴルフの先生の事です。
今から30年程前の事ですが、沖縄の南部にあるパームヒルズ・カントリークラブがオープンした時の記念事業で、このHank 先生がアメリカからご来沖された時に、私は初めてHank先生にお目にかかりました。

 その頃の私は、とにかくゴルフ大好き人間で、まだ小学生だった末息子を連れて、いつもゴルフ練習場に通っていたのですが、この末息子のゴルフがあまりに面白くて、この子の周りにはいつも大勢の大人達が集まって来るのです。小さな身体なのに、ゴルフのクラブを振ると、身体はふらふらとよろめくのに、ボールだけはしっかりと前に飛んでいくのです。
 私はその姿を眺めているうちに、もしかしてこの息子は、ゴルフの道を歩ませたら成功するのでは・・と思い、当時パームヒルズ・カントリークラブの高倉社長に、Hank 先生に会わせてもらえないだろうか?と相談すると、すぐにOKが出て、会わせていただいたのです。

 Hank先生がおっしゃるには、小学生ではまだ何も解らないので、せめて中学を卒業する前に、アメリカに来て、自分を訪ねてくれれば、どれだけの可能性があるかは、テストを受ければ解りますよ・・・とのご返事でした。

 息子と私のゴルフ熱は高まる一方で、中学生になるやいなや、すぐさまHank 先生を訪ね、厳格なテストを受けることとなりました。テストの結果を誰よりも喜んでくれたのはHank先生でした。私達が結果を待ち受けていたホテルのロビーに、Hank先生は手をたたきながらExcerento!!と言いながら入ってきてくれたのでした。先生はこの時から息子を正式な弟子として受け入れてくださったのです。

 息子は英語を殆ど解らないまま、聖書と音楽と、美術と体育のみを専攻させてくれる中学校に入学を許可されることとなり、高校1年の6月に沖縄の高校を退学し、9月からのアメリカ留学に旅立ったのでした。息子は日本人がまだ誰も入学したことのない学校に入り、クラスメイトも協力してくれて、立派にハイスクールにも進学でき、スカラシップで大学まで卒業することが出来ました。その間、学生ゴルフ大会でも優秀な成績を出し、学業も励んだそうです。(学校の成績が悪いと、ゴルフのコンペにも出させてもらえない為) 本人の努力に親の私達も感無量でした。
 余談ですが、息子は沖縄ではあまり歌を歌っているのを聞いたことがなかったのですが、なぜかアメリカ全土の高校生合唱コンクール(天使にラブソングの映画にあるような)に出演し、何とニューヨークのカーネギーホールにも出る事が出来ました。母親はびっくり仰天で、すぐさま一人ニューヨークまで応援に飛び立ったぐらいです。

           〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 大きな問題は、アメリカでプロゴルファーになる為には、相当額のお金が必要という事が解り、父親の力ではどうにもならず、本人もその事に気付き、プロゴルファーになる事をあきらめ、彼はレッスンプロへの道を目指し、USPGA(アメリカプロゴルフ協会)公認のレッスンプロの資格も入手し、今はオハイオ州のゴルフ場の支配人とレッスンプロの道を両立させて幸せな人生を送っているようです。
 息子はアメリカ女性と結婚し、2人の娘に恵まれ、今はその娘達がゴルフ大好き人間になっているとの事です。私はこの2人のアメリカ娘と一緒にゴルフが出来る事を、これからの人生の最大の喜びにしたいと期待しているのです。

           〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 今年の9月9日、アメリカの息子から電話が入り、その電話はHank先生が亡くなられたとの知らせでした。Hank先生には私達夫婦も何度も会っていましたので、本当につらく悲しい日が続きましたが、悲しんでばかりではHank先生に申し訳ないかも・・と思うようになり、今はしっかりと前を向いております。

 Hank先生のお陰で、息子はゴルフを通して何とか一人前の大人に成長させていただけたと思っております。私達夫婦もHank 先生を通して、アメリカからの沢山の学びをいただけたと思っております。願わくばアメリカの息子達が、何らかの形でアメリカに恩返しの出来る人生を歩んで欲しいと願うばかりです。
 Hank先生、本当に本当に・本当に有難うございました。心からの感謝とお礼を申し上げてお悔やみの言葉とさせていただきます。
 
              2021年10月30日の記
              


奥田のコラム(NO306)かけがえのない恩師3人の旅立ち その1 ( 2021/10/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 立秋の足音が深まりゆく今年の9月から10月にかけて、私にとってはかけがえのないご縁をいただいていた3人の恩師が、この世を去っていかれました。その3人との生前のご縁を思い出しながら、心からの感謝を捧げ、お別れの言葉に替えさせていただこうと思います。

            (1)山田 幸子さんとのお別れ

 山田幸子さんとは、知る人ぞ知る埼玉県にある帯津三敬病院の看護婦長さんの事です。帯津三敬病院名誉院長の帯津良一先生のお話によれば、彼女は今から40年程前に、中西統合医療によるガン治療を旗印にした帯津三敬病院がスタートした時から、看護婦長として病院の大黒柱を支えておられた方で、「彼女がいなかったら、今日のホリスティック医学の道は開けていなかった」とまで断言しておられます。
 それまで不治の病と恐れられていたガン患者さん達が、どれほどこのホリスティック医療のお陰でその生命を救われたであろうかと思うにつけ、ホリスティック医療の先陣を切り拓かれた山田婦長さんには、きっと大勢の人達が感謝の手を合わせておられるに違いありません。本当に本当に感謝です。本当に本当に有難うございました。
 
             〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 私事になりますが21世紀を迎えるに当たって、私は帯津三敬病院の帯津先生が立ち上げられた「21世紀養生塾」の沖縄支部をつくらせていただき、今日まで帯津先生のお力添えを頂きながら、“健康・長寿”をテーマに、健康づくりのお手伝いをさせていただいております。
 山田婦長さんには、いつも陰ながら「沖縄養生塾(天遊会)」の応援をしていただいておりました。写真の掛け軸の“書”は、帯津先生が新しくなる帯津三敬病院に健康道場をつくられた時に書かれた2枚の書のうちの1枚です。山田婦長さんが独断でその1枚を「沖縄養生塾」の為に送って下さったものです。

 「直心是道場」とは、「人間は素直な心になってその場に立てば、そこがいかなる場所であろうとも、その場所こそはまさに道場そのものになる」という意味だそうです。
 以前私は小さな道場を持っていて、そこにこの掛軸をかけていたのですが、今は市営住宅に居を移しましたので、それらしい道場もないのですが、この書を床の間に掛け、すべての場所(朝夕のお風呂、トイレ、寝室等々)を道場と思って、健康づくりに励んでいる次第です。

 山田婦長さんの残された偉大なる業跡と、生前のご縁に深く深く感謝し、心からのお礼を申し上げて、お悔やみの言葉とさせていただきます。
 帯津先生は“必ず来世はある”とおっしゃっておられます。私もそう思って日々を過ごしておりますので、山田婦長さんには、是非とも来世も、よろしくご縁をいただけますようにお願いをいたします。  合掌
                     2021年10月29日の記


奥田のコラム(NO305) 私は85歳になりました ( 2021/06/30 )

 
 85歳記念写真(夫婦で)

 
 85歳記念写真(二人の孫と一緒に)

 
 孫の「のぞみ」からプレゼントされた絵

 
 孫の「音羽」からプレゼントされた絵

 
 

 
 

 2021年6月26日は、私の85歳の誕生日でありました。遥かな昔、85歳の日がやって来るなどとは、頭の片隅にも思いつかない出来事でしたが、時の流れは、それが50年、100年先の事であっても、必ずそれなりの日がやって来る事を、しみじみと思い知らされた一日でありました。

 85歳になっての感想は何かと聞かれれば、その答えは
@ 85の自分は、足腰に幾分の苦戦はしているものの、それ以外ではかなり元気な方ではないかと思い、その元気ぶりに深く感謝している事。
A この先、何歳まで生きられるのであろうか、そして残されたこれからの人生を、如何に生きるべきであろうか?についての覚悟を、しっかりと決めておかねばならない、と思った事でありました。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
 この先何歳まで生きられるであろうかについては、私は今年(2021年)のお正月のコラム(NO299)に、“元気な100歳を生きる”、と公言いたしておりますので、何としても100歳までは自分の全責任において、必ずや生きねばならないと覚悟しているのです。

 100歳までは生きてみたいと思うのには2つの大きな理由があるのです。

その理由の一つは
@ 今年5歳になる孫(女の子)と、7歳になる孫(男の子)が、あまりに可愛くて、あまりに面白くて、あまりに豊かな個性の持ち主故に、どうしてもこの二人の孫の成人の姿を見届けたいと思う事です。
A 二つ目の理由は
 私の太極拳人生によるものであります。私が太極拳とのご縁を頂いたのは、今から25年前の60歳の時でした。60歳の時、ふとした事から、私の大恩師とも言える帯津良一先生のご紹介で、太極拳の神様とも思える(故)楊名時先生とのご縁をいただき、楊名時先生の太極拳に魅せられ、以来今日まで25年間、太極拳人生に没入の日々を過ごしているのです。

 第1級の太極拳老師になる為には40年間の修業が必要との事です。私は後まだ15年の練功を積まなければ、太極拳老師の域には到達できないのです。私の太極拳は幾分私流になっているのかも知れませんが、それでも私はそれなりに生涯をかけて、100歳の太極拳を舞える日が来る事を夢に見ているのです。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
 私は“天職”という言葉に魅力を感じます。天職とは天なる神様に導かれた仕事という事ではないでしょうか。今から10数年も前の事ですが、或る知人から、あの帯津先生の本の中に、“沖縄にも天職に生きる人がいると書かれているよ”、との報告を受け、その本に目を通してみると、何とその天職についている沖縄の人と言うのは、この私である事を知り、仰天の思いをした事があるのです。
 当時太極拳に没入していた私の姿が、帯津先生の目には天職の様に映ってくださったのかも知れません。以来、私は太極拳こそは私の天職と思うようになり、大いに心をときめかせ、今日まで太極拳人生を楽しんでいる次第です。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜・〜・〜・〜
       <85歳からの私の心掛け>
@ 残された人生、出来るだけ人様にご迷惑をかけない人生でありたい。
A 残された人生、いささかなりとも人様のお役に立てる人生でありたい。
B 残された人生、”今日よりも一歩前進の明日”であり続けたい。
C 残された人生、天国の両親が喜んでくれるであろう人生でありたい。
D 残された人生、いつ何があっても、いささかの後悔もない納得の人生でありたい。。
              2021年6月30日の記


奥田のコラム(NO304) アトランタ聖火ランナーの追記 ( 2021/05/20 )

 
 アトランタ・オリンピック聖火ランナー日本代表(1996年4月28日、日本出発)

 
 ラスベガス街道を走った仲間(MGMホテルロビーにて)

 
 ラスベガス街道での聖火の受け渡し

 
 伴走者と走る聖火の道

 
 応援のためラスベガスに駆けつけてくれた妹と家内

 
 聖火ランナー日本代表記念誌

 前述のコラム(NO303)に、1996年のアトランタオリンピック 聖火ランナーの事を書かせていただきましたが、数人の方から、もっと詳しい事が聞きたいとのご要望をいただきました。ご要望の要点は、@ 聖火ランナーに応募した文章、A 聖火を持って走った場所とその時の感想、B 聖火ランナーにかかった費用はいくらぐらいであったか、の3点です。

 私の手元に、「アトランタオリンピック・聖火ランナー日本国記念誌」が残されております。
その記念誌には、聖火ランナーに選出された全ての人達の応募文と走った時の感想文が記されており、私の文章もその中に含まれておりますので、今回のコラム(NO304)に記載させていただきます。

(1)聖火ランナー応募文「聖火ランナー、私の夢」
 オリンピック!!、それはこの地球上に咲く世界で一番美しい五輪の花、世界で一番大きな平和の花、そして世界で一番美しい競演の花であると思います。私は今年60歳で、沖縄地球を走る回のメンバー。私達はニューヨーク、ロンドン、ベルリン、メルボルン、モントリオール等を走り、今年はいよいよ念願のボストン・マラソンに挑戦です。世界各地のマラソンを通して、スポーツこそは世界共通の平和と友好の証である事を実感するのです。

 オリンピックの聖火ランナー!!、それは私達市民ランナーにとっては永遠の憧れ、そして最高の夢物語です。52歳から走り始めた私のジョギングは、今やっと、地球半周の2万キロに辿り着きました。アトランタの地に、聖火ランナーの夢を描きながら、これからまた、地球一周4万キロのゴールを目指して、コツコツと地球の走り旅を続けてみたいと思っているのです。

(2)聖火ランナーを走り終えた感想文「聖火の道」

      聖火の道は 赤く燃え     
      心ふるえた 神の道
      聖火の道は 優しくて
      涙あふれた 愛の道
        ああ アトランタ アトランタ
        ああ アトランタ アトランタ
      心震えた  神の道
      涙あふれた 愛の道
 
      聖火の道は 輝いて
      夢と希望に 光る道
      聖火の道は 平和へと
      世界を一つに 結ぶ道
        ああ アトランタ アトランタ
        ああ アトランタ アトランタ
      夢と希望に 光る道
      世界を一つに 結ぶ道

(3)聖火ランナーにかかった費用等について
 アトランタオリンピック聖火ランナーの全ての費用は、アトランタに総本社のあるコカ・コーラ(株)社さんがスポンサーになって下さったと聞いております。聖火ランナーの数は、アメリカから8.000人、アメリカ以外の国々から約2.000人の合計10.000人であったそうです。
 日本からは36名+数名との事でしたが、私達は1996年4月28日の日本出発から5月3日の帰国までの数日間、まさに夢のような”聖火ランナーの旅”をさせていただきました。
 私達のグループ(写真)は、この間、ネバダ州のラスベガス街道を一人が1.000mずつ走らせていただきました。炎天下35℃の1kmでありましたが、私は今でもその時の1kmはまさしく“神の道”であったと思っております。人生最高の体験をさせていただいた聖火ランナーに生涯の感謝と感動を忘れることはありません。

              2021年5月19日の記

- Topics Board -
前ページページ移動次ページ

 


 

 

このページのトップに戻る