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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO284) ”母、マリア・マサエを偲ぶ会”In横浜(2018・7・7) ( 2018/07/31 )

 
 マリア・マサエばあちゃんの写真

 
 会場の慶福楼

 
 幹事の三枝秀平くんの挨拶

 
 会場風景その2

 
 長老組を囲んでの集合写真

 
 最年少組を囲んでの集合写真

 私の父は今から68年程も前に、60歳で他界している為に、父の印象は私達も、もうかなり薄れかけているのですが、母は父の亡き後も88歳まで実に元気で長く生きてくれましたので、母の印象は亡くなって27年が過ぎた今でも、私達兄弟は勿論の事、多くの孫たちまでもが、母(ばあちゃん)の事はまだかなり良く覚えているらしいのです。

 母が元気で長く生きてくれたお陰で、私達7人の兄妹(男6人・女1人)は母を中心に、それぞれの人生を懸命に生きて、今では22人の孫が生まれ、更には33人のひ孫もこの世に誕生し、それぞれの連れ合いを含めると、総勢70名程の一族に拡がっている事を知るにつけ、今更ながら、人生の不思議に思いを深くさせられているところです。

 母の27回忌を迎えるに当たり、私の妹から、『この際、今度は孫達を中心にした“偲ぶ会”をしてはどうだろうか?』との提案があり、18番目の孫に当たる、沖縄在住、三枝秀平君が、その先頭に立って総指揮に当ってくれたお陰で、この度、初めての“マリア・マサエを偲ぶ会”が実現した事に深い感銘を受けました。

 集合の日時は2018年7月7日(母の27回の命日)、集合場所は、今家族が一番多く住んでいる横浜中華街「慶福楼」と決まり、横浜・東京・沖縄・新潟・大阪から大勢が駆けつけてくれました。その中の最年長者達は横浜在住の小野太郎さん(87歳)、横浜在住の奥田悟さん(85歳)、沖縄在住の私奥田清志(82歳)・妹の三枝祥子(70歳)、最年少者は沖縄のひ孫、當銘音羽ちゃん(2歳)、希望君(4歳)までの総勢52名がこの“偲ぶ会”に集まってくれたのですから、感無量の27回忌となりました。

 一つだけ残念であった事は、私達の原点である故郷の“土佐の高知”からは、今回は誰も出席出来なかった事が心残りでした。最も嬉しかったことは、“偲ぶ会”に集まった孫達が、「これからは集まれる人が集まって、毎年何処かでやろう」との意見が出たとの事で、これにはさぞかし、天国の両親も喜んでくれているに違いありません。

 22人の孫の中には早くから2人が遠くアメリカに人生の拠点を移し、それぞれの人生を歩んでくれております。15番目の孫の“日和”(ひより)さんの旦那さんは、今若者の間で大人気のギタリスト、マーティン・アダム・フリードマンさんです。
 22人の孫や33人のひ孫達が、これからどんな世界に羽ばたいて行くのであろうかと思うと、私は何としても100歳までは生きて、孫・ひ孫達の行く末を見届けて、天国の両親に報告したいものだと自分に言い聞かせているところです。

 “マリア・マサエを偲ぶ会”を実現させてくれた三枝秀平君と、そしてその会に集まって下さった全員の方々にも、心から有難うと申し上げます。
 尚この日は“偲ぶ会”が終わった後も、大勢の方々が父・母が眠る横浜市の保土ヶ谷霊園をお尋ねくださり、両親のお墓参りをして下さいました。
                 2018年7月30日の記

* 母親のマサエの名前の前にマリアという名前がついているのは、母は晩年、沖縄に住むようになってから、私の妹の影響もあってか、クリスチャンの洗礼を受け、最後はマリア・マサエとして天国に旅立ちました。マリア・マサエさんは、沖縄が大好きで、『私は亡くなる時は、沖縄から天国のお父さんのもとに行きたい』と申しておりました。
                         


奥田のコラム(NO283) 立川志の輔・第109回沖縄独演会の記 ( 2018/07/26 )

 
 志の輔落語の会第109回

 
 本日の演目

 
 志の輔落語の記事(琉球新報社)

 
 楽屋訪問

 
 楽屋訪問・北山亭めんそーれさんともご一緒に

 
 

 2018年7月15日に、落語の立川志の輔さんの独演会がありました。今回の独演会には、琉球新報新本社ビル落成記念というタイトルが付けられておりましたが、私達夫婦は立川志の輔さんとは29年間の長いご縁が続いていて、今回もまた、何はさておいてもの参加をさせていただきました。志の輔さんのお話の中に、まさかと思える数々の事が語られましたので、そのいくつかを紹介し、志の輔さんと沖縄のご縁の深さを紹介しようと思います。

 立川志の輔さんが初めて沖縄に来られたのは、今から29年も前の1989年6月の事であったとの事です。その当時、沖縄国際通りの地下に、“沖縄ジャンジャン”という小劇場があって、志の輔さんはその時は、3年前に故人となられた永六輔さんに連れられて、その“ジャンジャン”に出演されたのが、沖縄への第一歩だったとの事です。

(ちょっと余談になりますが)、今から29年前の沖縄初公演の翌日、永六輔さんからのお薦めで、ぐるりと沖縄観光をされた時、あまりの沖縄の海の美しさに魅せられ、すっかり沖縄の虜になってしまったそうです。 そして、その時の沖縄観光の案内を任されたのが、何と私の家内と、その当時小学校6年生であった末息子の“淳平”であったとの話を、今回の公演の初っぱなに公言されたのには、私達はまさかのびっくり仰天でありました。
その後の志の輔さんは、ご自分に生まれた息子さんに“ジュンペイ”君という同じ発音の名前を付けて下さっておられるのですから、志の輔さんとのご縁の深さを、私達は生涯忘れてはならないと思っているのです。

 さて29年間に、志の輔さんは殆んど沖縄全島を回られ、今回の琉球新報本社ビル落成記念公演が何と、沖縄109回目の公演というのですから、この数字にも驚かされてるのです。更に驚かされる嬉しい事は、29年前の沖縄は、まだ殆んどの人が落語の事、志の輔さんの事も知らなかった筈なのに、29年後の今では、志の輔さんの沖縄公演が新聞で発表されると、一夜にして入場券が完売されるのだそうですから、本当に凄い事だと思います。
 今回の琉球新報公演も、即座に606席(入場料¥4000円)が完売されたとの事ですから、29年前を知る志の輔ファンの一人として、これ程嬉しい事はありません。ひとえに立川志の輔さんのお人柄と、血の滲むような努力を積み重ねてこられた実力の賜物と申し上げる他はありません。

 今回の独演会の“出し物”は、第1部が新作の「バールのようなもの」、第2部が古典の「井戸の茶碗」でありましたが、志の輔さんの話術の凄さに、私は息をするのも忘れるぐらい、志の輔落語の世界にのめり込まされておりました。
 公演当日の様子については翌日の琉球新報に大きく記事が出ておりますので、そのままコラムに掲載させていただきました。

 公演終了後に楽屋を訪問し、次回(2018年11月3日)の沖縄国立劇場での第110回記念公演での再会をお約束し、お別れをいたしました。
今や日本一の人気落語家と評される立川志の輔さんとの29年間のご縁に感謝し、そのきっかけをつくって下さった(故)永六輔さんには更なる感謝の合掌を捧げて、今回のコラムとさせていただきます。有難うございます。
                 2018年7月25日の記


奥田のコラム(NO282) 82歳の不思議な誕生日 ( 2018/06/29 )

 
 80歳の頃の母、マサエばあちゃん

 
 ピカソの絵 花束

 
 ピカソの絵 鳩

 
 絵の裏にかかれていた文字

 
 82歳の誕生日にお祝いに来てくれた二人の孫

 
 82歳の誕生日を祝ってくれた弟夫婦と私達

 2018年6月26日は私の82歳の誕生日でした。82歳の思い出に、何かのメモリ−を残したいと思いつつ、ふと思いついた事は、ずっと昔から気に入っていて、部屋の壁に掛けてあった2枚の絵(印刷画)が、すっかり色あせてきていたので、この絵とはまた別に、これもまたずっと昔から気に入っていて本棚にしまってあったピカソのスケッチ画(印刷画)と交換しようと思いたち、すぐその足でリュウボウ百貨店の7階にある額屋さんを訪ね、絵の入れ替えをお願いしたのです。

 すると、その時持参した2枚のうちの1枚の絵(額)の裏に、私の字で書かれた一枚の紙が貼られている事に気づき、私はすっかり忘れていたまさかの過去の大発見をする事となり、暫くはちょっとした感動の中に浸っておりました。その額の裏に書かれていた言葉は
“おばあちゃんのご無事を心よりお祈りしております。1986年6月11日。沖縄の一同より”でありました。

 1986年といえば、今から33年も昔の事です。その当時の事を一生懸命思い出してみると、その当時の母の年齢は82歳であった事が判りました。これはまさに今の私の年齢と同じです。母はその年に大腸ガンが見つかり、家族は密かに大騒ぎをしていたのですが、沖縄の主治医を交えて出した結論は、手術によるガンの摘出でありました。母はその結論にいささかの動揺を見せる事なく、手術に立ち向かってくれました。

 母の手術は主治医の紹介で、国立東京駒込病院で行われましたが、この時の執刀医のお名前が、私達の名字と同じ奥田先生であった事にも母は相当の安心感を持っていたようです。手術後暫くは母はその病院で入院生活を送っておりましたが、上記の絵はその時、沖縄から母の病室に届けられた物であったと推察しているところです。

 入院中の母は、“自分は早く沖縄に帰り、死ぬ時は大好きな沖縄から天国に行きたい”と申し出るようになり、航空会社に相談して3席の座席を確保していただき、担架に乗せられたまま、無事沖縄に帰る事が出来ました。沖縄に帰ってからの母は殆んど寝たきりの人生でしたが、それでも常時しっかりと意識のある6年の歳月を生き抜いて、88歳の人生を全うしてくれました。

 私の82歳の誕生日に、上記の“一枚の絵”から、これ程の思い出を蘇らせてもらえた事は、私にとってこれ以上の82歳の思い出があるとは思われません。本当に嬉しい、感謝、感激の82歳の誕生日でありました。

 これからの私は、額に収められた新しい“ピカソの花”を見るたびに母を思い出し、母への感謝を忘れる事なく、更なる励ましをもらいながら、少しでも人様のお役に立てる人生を目指さなければならないと思っている次第です。
これまでの人生総てに感謝です。感動です。有難うございます。合掌します。

         2018年6月28日の記
 (今日は長男の孫“拓夢”の15歳誕生日です)

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