21世紀養生塾沖縄
1
  HOME トップページへ戻る
1
  お知らせ・イベント情報
1
  奥田のコラム
1
  21世紀養生塾沖縄とは
養生塾沖縄の概要
奥田代表の活動基幹
帯津塾頭 楊名時先生
1
 
気功教室・太極拳教室
健康倶楽部「天遊会」
帯津良一塾頭の講演会
1
  入会案内・お問合わせ窓口


太極拳・気功教室
健康倶楽部 天遊会
帯津良一塾頭 講演会
奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO306)かけがえのない恩師3人の旅立ち その1 ( 2021/10/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 立秋の足音が深まりゆく今年の9月から10月にかけて、私にとってはかけがえのないご縁をいただいていた3人の恩師が、この世を去っていかれました。その3人との生前のご縁を思い出しながら、心からの感謝を捧げ、お別れの言葉に替えさせていただこうと思います。

            (1)山田 幸子さんとのお別れ

 山田幸子さんとは、知る人ぞ知る埼玉県にある帯津三敬病院の看護婦長さんの事です。帯津三敬病院名誉院長の帯津良一先生のお話によれば、彼女は今から40年程前に、中西統合医療によるガン治療を旗印にした帯津三敬病院がスタートした時から、看護婦長として病院の大黒柱を支えておられた方で、「彼女がいなかったら、今日のホリスティック医学の道は開けていなかった」とまで断言しておられます。
 それまで不治の病と恐れられていたガン患者さん達が、どれほどこのホリスティック医療のお陰でその生命を救われたであろうかと思うにつけ、ホリスティック医療の先陣を切り拓かれた山田婦長さんには、きっと大勢の人達が感謝の手を合わせておられるに違いありません。本当に本当に感謝です。本当に本当に有難うございました。
 
             〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 私事になりますが21世紀を迎えるに当たって、私は帯津三敬病院の帯津先生が立ち上げられた「21世紀養生塾」の沖縄支部をつくらせていただき、今日まで帯津先生のお力添えを頂きながら、“健康・長寿”をテーマに、健康づくりのお手伝いをさせていただいております。
 山田婦長さんには、いつも陰ながら「沖縄養生塾(天遊会)」の応援をしていただいておりました。写真の掛け軸の“書”は、帯津先生が新しくなる帯津三敬病院に健康道場をつくられた時に書かれた2枚の書のうちの1枚です。山田婦長さんが独断でその1枚を「沖縄養生塾」の為に送って下さったものです。

 「直心是道場」とは、「人間は素直な心になってその場に立てば、そこがいかなる場所であろうとも、その場所こそはまさに道場そのものになる」という意味だそうです。
 以前私は小さな道場を持っていて、そこにこの掛軸をかけていたのですが、今は市営住宅に居を移しましたので、それらしい道場もないのですが、この書を床の間に掛け、すべての場所(朝夕のお風呂、トイレ、寝室等々)を道場と思って、健康づくりに励んでいる次第です。

 山田婦長さんの残された偉大なる業跡と、生前のご縁に深く深く感謝し、心からのお礼を申し上げて、お悔やみの言葉とさせていただきます。
 帯津先生は“必ず来世はある”とおっしゃっておられます。私もそう思って日々を過ごしておりますので、山田婦長さんには、是非とも来世も、よろしくご縁をいただけますようにお願いをいたします。  合掌
                     2021年10月29日の記


奥田のコラム(NO305) 私は85歳になりました ( 2021/06/30 )

 
 85歳記念写真(夫婦で)

 
 85歳記念写真(二人の孫と一緒に)

 
 孫の「のぞみ」からプレゼントされた絵

 
 孫の「音羽」からプレゼントされた絵

 
 

 
 

 2021年6月26日は、私の85歳の誕生日でありました。遥かな昔、85歳の日がやって来るなどとは、頭の片隅にも思いつかない出来事でしたが、時の流れは、それが50年、100年先の事であっても、必ずそれなりの日がやって来る事を、しみじみと思い知らされた一日でありました。

 85歳になっての感想は何かと聞かれれば、その答えは
@ 85の自分は、足腰に幾分の苦戦はしているものの、それ以外ではかなり元気な方ではないかと思い、その元気ぶりに深く感謝している事。
A この先、何歳まで生きられるのであろうか、そして残されたこれからの人生を、如何に生きるべきであろうか?についての覚悟を、しっかりと決めておかねばならない、と思った事でありました。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
 この先何歳まで生きられるであろうかについては、私は今年(2021年)のお正月のコラム(NO299)に、“元気な100歳を生きる”、と公言いたしておりますので、何としても100歳までは自分の全責任において、必ずや生きねばならないと覚悟しているのです。

 100歳までは生きてみたいと思うのには2つの大きな理由があるのです。

その理由の一つは
@ 今年5歳になる孫(女の子)と、7歳になる孫(男の子)が、あまりに可愛くて、あまりに面白くて、あまりに豊かな個性の持ち主故に、どうしてもこの二人の孫の成人の姿を見届けたいと思う事です。
A 二つ目の理由は
 私の太極拳人生によるものであります。私が太極拳とのご縁を頂いたのは、今から25年前の60歳の時でした。60歳の時、ふとした事から、私の大恩師とも言える帯津良一先生のご紹介で、太極拳の神様とも思える(故)楊名時先生とのご縁をいただき、楊名時先生の太極拳に魅せられ、以来今日まで25年間、太極拳人生に没入の日々を過ごしているのです。

 第1級の太極拳老師になる為には40年間の修業が必要との事です。私は後まだ15年の練功を積まなければ、太極拳老師の域には到達できないのです。私の太極拳は幾分私流になっているのかも知れませんが、それでも私はそれなりに生涯をかけて、100歳の太極拳を舞える日が来る事を夢に見ているのです。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
 私は“天職”という言葉に魅力を感じます。天職とは天なる神様に導かれた仕事という事ではないでしょうか。今から10数年も前の事ですが、或る知人から、あの帯津先生の本の中に、“沖縄にも天職に生きる人がいると書かれているよ”、との報告を受け、その本に目を通してみると、何とその天職についている沖縄の人と言うのは、この私である事を知り、仰天の思いをした事があるのです。
 当時太極拳に没入していた私の姿が、帯津先生の目には天職の様に映ってくださったのかも知れません。以来、私は太極拳こそは私の天職と思うようになり、大いに心をときめかせ、今日まで太極拳人生を楽しんでいる次第です。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・ 〜・〜・〜・〜・〜
       <85歳からの私の心掛け>
@ 残された人生、出来るだけ人様にご迷惑をかけない人生でありたい。
A 残された人生、いささかなりとも人様のお役に立てる人生でありたい。
B 残された人生、”今日よりも一歩前進の明日”であり続けたい。
C 残された人生、天国の両親が喜んでくれるであろう人生でありたい。
D 残された人生、いつ何があっても、いささかの後悔もない納得の人生でありたい。。
              2021年6月30日の記


奥田のコラム(NO304) アトランタ聖火ランナーの追記 ( 2021/05/20 )

 
 アトランタ・オリンピック聖火ランナー日本代表(1996年4月28日、日本出発)

 
 ラスベガス街道を走った仲間(MGMホテルロビーにて)

 
 ラスベガス街道での聖火の受け渡し

 
 伴走者と走る聖火の道

 
 応援のためラスベガスに駆けつけてくれた妹と家内

 
 聖火ランナー日本代表記念誌

 前述のコラム(NO303)に、1996年のアトランタオリンピック 聖火ランナーの事を書かせていただきましたが、数人の方から、もっと詳しい事が聞きたいとのご要望をいただきました。ご要望の要点は、@ 聖火ランナーに応募した文章、A 聖火を持って走った場所とその時の感想、B 聖火ランナーにかかった費用はいくらぐらいであったか、の3点です。

 私の手元に、「アトランタオリンピック・聖火ランナー日本国記念誌」が残されております。
その記念誌には、聖火ランナーに選出された全ての人達の応募文と走った時の感想文が記されており、私の文章もその中に含まれておりますので、今回のコラム(NO304)に記載させていただきます。

(1)聖火ランナー応募文「聖火ランナー、私の夢」
 オリンピック!!、それはこの地球上に咲く世界で一番美しい五輪の花、世界で一番大きな平和の花、そして世界で一番美しい競演の花であると思います。私は今年60歳で、沖縄地球を走る回のメンバー。私達はニューヨーク、ロンドン、ベルリン、メルボルン、モントリオール等を走り、今年はいよいよ念願のボストン・マラソンに挑戦です。世界各地のマラソンを通して、スポーツこそは世界共通の平和と友好の証である事を実感するのです。

 オリンピックの聖火ランナー!!、それは私達市民ランナーにとっては永遠の憧れ、そして最高の夢物語です。52歳から走り始めた私のジョギングは、今やっと、地球半周の2万キロに辿り着きました。アトランタの地に、聖火ランナーの夢を描きながら、これからまた、地球一周4万キロのゴールを目指して、コツコツと地球の走り旅を続けてみたいと思っているのです。

(2)聖火ランナーを走り終えた感想文「聖火の道」

      聖火の道は 赤く燃え     
      心ふるえた 神の道
      聖火の道は 優しくて
      涙あふれた 愛の道
        ああ アトランタ アトランタ
        ああ アトランタ アトランタ
      心震えた  神の道
      涙あふれた 愛の道
 
      聖火の道は 輝いて
      夢と希望に 光る道
      聖火の道は 平和へと
      世界を一つに 結ぶ道
        ああ アトランタ アトランタ
        ああ アトランタ アトランタ
      夢と希望に 光る道
      世界を一つに 結ぶ道

(3)聖火ランナーにかかった費用等について
 アトランタオリンピック聖火ランナーの全ての費用は、アトランタに総本社のあるコカ・コーラ(株)社さんがスポンサーになって下さったと聞いております。聖火ランナーの数は、アメリカから8.000人、アメリカ以外の国々から約2.000人の合計10.000人であったそうです。
 日本からは36名+数名との事でしたが、私達は1996年4月28日の日本出発から5月3日の帰国までの数日間、まさに夢のような”聖火ランナーの旅”をさせていただきました。
 私達のグループ(写真)は、この間、ネバダ州のラスベガス街道を一人が1.000mずつ走らせていただきました。炎天下35℃の1kmでありましたが、私は今でもその時の1kmはまさしく“神の道”であったと思っております。人生最高の体験をさせていただいた聖火ランナーに生涯の感謝と感動を忘れることはありません。

              2021年5月19日の記


奥田のコラム(NO303) 聖火ランナーの想い出と100歳人生への夢 ( 2021/05/07 )

 
 1996年聖火ランナーとしてラスベガス街道を走る

 
 憧れのロンドンマラソン中間地点

 
 メルボルンマラソン無事完走

 
 ベルリンの壁崩壊後、記念大会

 
 ボストン・マラソン100回記念大会完走記念

 
 ラスベガスの聖火ランナー完走記念で

 話が遥かな昔に逆戻りする事になりますが、お許しください。実は私は今から25年前(1996年)のアトランタオリンピック聖火ランナー日本代表(36名)の一人に選出されておりました。
その当時の私の年齢は60歳でありましたが、どうして60歳の高齢者が聖火ランナーに選ばれたのかについては、後述させていただきます。

 今から35年程前、50歳を迎える直前のある日、私は突然那覇マラソンを走らねばならない立場に置かれ、マラソンの事は何一つ知識のないまま、第1回目のナハマラソンのスタートラインに立たされてしまいました。当然の事ながら、悪戦苦闘、フルマラソン42・195キロの約半分、20キロの地点で、もうどうにもならずリタイアー。私の目の前を軽々と走って行く人達が、みんな神様のような気がして、思わず心のなかで手を合わせた時の事が、今でも忘れられません。

 マラソンはもう懲り懲り!!と思っていた50歳を過ぎた、或る日の或るホテルの新年会で、今度は或る人から“ロンドンマラソンを走りませんか!!”、とのお誘いを受けたのでした。丁寧にお断りしたつもりでしたが、“ロンドンを走る”という夢のような言葉の魔力に、私の頭脳は完全に侵されてしまい、気がついてみたら、ロンドン行きにサインをしていたのでした。
 その日から私の日常は、朝に昼に夕に、月星の輝く夜は夜中まで、ロンドンの空を空想しながら走り続ける日々が続いていたのでした。

 ロンドンマラソンはまるで夢の中の完走でしたが、完走直後からの私は、殆ど夢遊病者の様で、やっとの事でホテルに辿り着いた記憶が残っております。ロンドンマラソンの感動は、生涯忘れる事は無いと思いますが、その後の私はメルボルン、ベルリン、ボストン等を走り、私の人生目標は、いつしか“生涯をかけて、地球一周の4万キロを走りきる”、に変わって行く事となっておりました。

 1996年のアトランタオリンピック聖火ランナーの募集を知った時の私は、60歳になっておりました。聖火ランナーなど、まるで雲の上の出来事とばかり思っていたのに、妹の強い勧めもあって、私はその募集に応募して、殆ど忘れかけておりました。何週間か経った或る日の事、聖火ランナー選考委員の方から電話がかかってきて、“只今、選考会で貴方が聖火ランナーの第1号に選出されました”、と申されたのです。あまりの驚きに、私はその瞬間、目の前が真っ暗くなり、しばし亡然とその場に立ちすくんでおりました。
 選考委員のお話によれば、アトランタオリンピック聖火ランナーの選考ポイントは、“人生にかける夢”であった事を後日知らされたのでした。どうやら、60歳から地球一周走を目指していた私の夢は、アトランタ聖火ランナーの選考条件にドンピシャ!!だったのかも知れません。

 私は75歳まで走り続けておりました。75歳の誕生日に地球一周4万キロ+1万キロ=5万キロを走り終えて、走る世界に一線を引き、その後はウォーキングに変わりました。
 今は週2〜3回の軽いウォーキングと、週2回のスイミングと、65歳の頃からご縁を頂いている太極拳の世界に没入の日々を過ごしております。

 間もなく85歳になりますが、これから先の人生目標は“元気な100歳人生を生きる事”と心得ております。大勢の太極拳仲間達と、まだ小さな2人の孫(5歳の女の子と7歳の男の子)と、お母さん(家内の事)のお陰で毎日が幸せ一杯の日々であります。

 後期高齢者を迎えた頃からの私の座右の銘は、サムエル・ウルマンの“年を重ねただけで人生は老いない。理想(夢)を失う時、初めて老いる”であります。
                     2021年5月6日の記
 



奥田のコラム(NO302) 東京2020オリンピック TOUCHリレー In沖縄 ( 2021/05/06 )

 
 沖縄聖火リレー

 
 サバニで繋いだ座間味村の聖火

 
 アトランタオリンピック・スポンサーだったコカコーラ(株)の聖火ランナー達

 
 

 
 

 
 

 2021年4月25日に福島県をスタートした東京五輪の聖火は、鹿児島から海を渡って沖縄に到着。そして5月の1日、2日と沖縄県の各地を静かに巡ってくれました。
 本来であれば聖火の道には、大勢の人たちが集まって来てくれる筈なのに、新型コロナウイルス感染予防のために、予定していた計画とは大きく異る内容になってしまった事は残念でなりません。

 離島の宮古島市では、聖火リレーそのものが中止となり、沖縄本島の縦断走計画も、公道でのリレーが取り止めとなり、実際にリレーが実現されたのは、石垣市以外は本島北部の名護市役所周辺と、本島南部の糸満市平和記念公園内での観客厳重制限の中での、一人100メートルづつのリレーであったそうです。
 離島の座間味村での海上サバニ走は、他県では見られないユニークな光景で、何かしらの笑顔があったのはささやかなやすらぎでありました。

 沖縄県の聖火リレーを繋いだ人の数は、総勢178人。最高齢者は男性が91歳、女性が85歳、最小年齢者は、男性も女性も共に13歳との事です。178名の県勢ランナー達は、それぞれに熱き思いを胸に秘めての100メートル走(歩)であったに違いませんが、貴重な聖火ランナーの体験を、これからの人生の宝物として生かしていただきたいと熱望いたします。

 昨今のニュースを見ていると、このコロナ禍の中での東京五輪は、中止すべきとの意見が大きく盛り上がっているとの事ですが、たとえ中止になったとしても、聖火ランナーであった事の事実には、いささかの変わりは無いと思います。聖火ランナーの誇りを胸に、これからの未来に強い信念を持って、走り続けていかれる事を、心より希望しています。


                     2021年5月5日の記

- Topics Board -
前ページページ移動次ページ

 


 

 

このページのトップに戻る