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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO213) アメリカ16日間の旅(その二) ( 2014/10/29 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 アメリカ旅の二つ目の目的は、15歳から20歳になるまでの5年間、息子が大変お世話になったアラバマ州、バーミングハム市に住む3人の恩人を訪ね、改めてのお礼と感謝の気持ちを伝える事でした。
 3人の恩人についてはコラムNO211にも書きましたが、あの時から既に20年の時が流れております。お世話になった方々もほぼ私と同じ年代になっていて、思い描いていたような大感激の再会と言う形ではなく、心に沁みる静かな再会でした。

(1)息子のゴルフ人生の大恩人であるHank Jhonson先生は、突然の交通事故で、ご自宅で静養中でした。Hank先生ご夫妻は息子と私達の訪問を大変楽しみにして下さり、食事の予約までして下さっていたのだそうです。とても残念でしたが仕方のない事です。せめてHank先生を囲んでの記念写真をとも思いましたが、車椅子のHank 先生をカメラに収める気持ちにはなれず、玄関先で奥様のシボーさんと一緒の写真を撮らせていただき、Hank先生の一日も早い回復と、心からの感謝をお伝えしてのお別れとなりました。

(2)息子の学校人生の恩人であるBen Clementsさんは、私と同じ年でとても私とは気の合う人でした。Benさんとは毎年のクリスマスカードの交換をしておりましたので、サプライズ再会を確信していたのに、何故かどうしても連絡が取れず、消息が解らないままの旅となってしまいました。残念でなりませんが、せめてもの感謝の気持ちを伝える為に、お世話になった学校(Briawood Christian shool)を訪ね、Benさんと学校に両手を合わせ、お礼と感謝の気持ちに替えさせていただきました。

(3)アラバマ・バーミングハム市に一人で下宿生活をしていた15歳の息子を、ただ沖縄からの留学生と言う事だけで、ご自宅に引き取って下さり、5年近くも生活の面倒を見て下さった沖縄出身のSekiko&Edoさんご夫婦は、私達が沖縄を出発する前から私達の訪問を楽しみにして下さり、ご自宅に泊まって語り合う計画でしたのに、何故かここでもSekiko さんの突然の事故(自宅の庭で転倒)で、その計画も実現する事にはなりませんでした。
 私達は2日に渡ってSekiko さんを訪ね、感激の再会は出来ましたが、そのままお別れするのが残念すぎて、私は¨必ずもう一度来ます¨、との言葉を告げて家を出ました。玄関前でご主人のEdoさんを囲んでの記念写真を撮り、アラバマ、バーミングハムを後にしたのでした。

 バーミングハムから息子の家のあるインディアナ州に戻る為には、アラバマ州―テネシー州―ケンタッキー州―オハイオ州を通過しなければなりません。片道4車線のハイウェーを120キロのスピードで飛ばしても、約10時間のドライブです。
 息子が大事をとってくれて、往復路共に一泊づつのホテル休憩を計画の中に入れてくれたお蔭で、とても楽しいアメリカ南部縦断・4泊5日のドライブとなりました。2台の車の1台の車は息子の運転で、息子夫婦とアメリカ孫2人と私、もう一台は娘の旦那の運転で、娘夫婦と沖縄孫と家内が分乗しました。

* このアラバマの旅では思い出に残る嬉しいハプニングに出会いました。

その@:息子の計らいで、ケンタッキー州にあるあのフライドチキン発祥の第1号店に立ち寄り、本場本家のケンタッキーフライドチキンが食べられた事です。
 考案者のカーネル・サンダースさんは、小さなホテルの経営者だったのだそうですが、お客様へのサービスのつもりでホテルのそばにフライドチキンの小さな店を造ったのがそもそもの始まりだったそうです。その第1号店には、フライドチキンの歴史を示す小さな展示館が併設されておりました。

そのA:ゴルフのHank 先生のお陰で、アラバマ州屈指の名門コースと言われるGreystone Golf Country Clubでゴルフを楽しむことが出来ました。ゴルフ大好き人間の私達にとっては、これ以上の喜びはありません。
プレー同伴者は息子の淳平と、娘夫婦の有香と昭如と、私の4人でした。
             ( 2014・10・28日の記)
写真上:ハンク先生の家の玄関前で
写真中:ブライアウッド・ハイスクールの校門前で
写真下:セキコさんの家の前で


奥田のコラム(NO212) アメリカ16日間の旅(その一) ( 2014/10/27 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 私達老夫婦(私78歳と妻68歳)は、10月2日から17日迄の16日間、アメリカ、インディアナ州に住む末息子の家族を訪ねる旅に出ておりました。今回の旅は、二つの目的を心に秘めての旅でした。

 第一の目的は、NO211のコラムにも書きましたが、15歳で単身アメリカに渡り、既に20年を越えるアメリカ生活を過ごしている末息子の生活振りを再確認しておきたかった事と、アメリカ嫁との間に生まれた二人の孫(6歳と2歳の女の子)に会いたい一心の旅でありました。

 アメリカは国内だけで4時間もの時差がある大国です。息子の住むインディアナ州と日本とでは10時間の時差があり、昼と夜が殆ど真逆の状況下にあるのです。
 沖縄から成田空港経由で目的地のオハイオ州、シンシナティ空港に着くまでには飛行機に乗っている時間だけでも16〜7時間。成田―シカゴ空港での乗り継ぎを含めるとまるまる24時間以上の時間がかかる長旅となるのです。

 目的のシンシナティ―空港に着いたのは夕方の5時頃でした。空港には息子夫婦と二人のアメリカ孫、それに私達夫婦よりも一足先にアメリカ入りをしていた娘夫婦と1歳2か月になる沖縄孫の合計7人が出迎えていて、遥か彼方から私達の姿を見つけて、必死に手を振ってくれている孫達の姿を目にした瞬間には、長旅の疲れも一瞬どこかに吹っ飛んでおりました。家に着いたのはやや暗くなりかけた夕方でしたので、その日は持参したお土産をオープンして、私は早々の眠りにつかせてもらいました。

 翌日の夜はアメリカ嫁のご両親、ご家族、親せき、友人・知人達が大勢集まって下さり、総勢20名位の賑やかな歓迎パーティーを開いてくれたのですが、残念ながら私はパーティーが終わったと言う、夜の10時の2時間前には時差ぼけの疲れに耐えられず、別室のベットの中でダウンしておりました。

 さて、息子夫婦はインディアナ州の静かな郊外に家を構え、夫婦共稼ぎながら6歳と2歳の子供を立派に育てておりました。6歳の小学校と2歳の保育園の両方を見学させてもらう事が出来ましたが、日本では考えられない広い空間で、実に伸び伸びとした教育がなされている風景が目に留まり、一種の感動を覚える程でありました。

 一年生のANIKA(6歳)には、3年前にも沖縄で会っておりましたが、すっかり成長して、おしゃれで、物静かな美人に育っておりました。2番目のMARIKA(2歳)は、可愛い盛りですが、信じられない程の甘えん坊で、一日中マミー、マミーの連発にはいささか手を焼いてしまいました。アメリカの親たちは子供を全く叱らないのには恐れ入りました。私の子育て時代とはまるで違っていて、今更ながら我が身を反省した部分も少なくありませんでした。

 息子夫婦の家は日本ではとても考えられない空間に、広い庭と20人位の訪問者にも十分対応できる広い空間の部屋があり、どうやらこれがアメリカの平均的な家の大きさの様です。
 2週間のアメリカ生活で一番驚いたことは、アメリカ生活には¨もったいない¨という文化は存在しないのかも知れないと言う事です。食事は殆どチン・チン生活(レンジかオーブン料理)で、料理に使うスプーン、フオーク、ナイフやお皿、カップ類は全て一回限りの使い捨て、料理も残ったものは殆どそのまま、まとめて袋の中に捨てられてしまうのです。(この時は特別人数が多かったと言う事もあって、食器洗いの手間を省いたのかも知れません)。

 息子の家の中に、2〜3のまさかの嬉しい発見もありました。
* 玄関を入ってすぐの床下に、何故か私が昔生んでいた家の表札がシーサーの焼き物と一対になってそれとなく置かれてありました。表札の字は間違いなく私が書いたものです。シーサーは息子が小学生の頃、夏休みの工作で作った作品です。この二つの物が、いつ、どうしてその場所に運ばれてそこにあるのか、そのいきさつを私は知りませんでした。

* 息子が単身留学した時、息子への守り神のつもりで息子に渡した二つの書がリビングに飾られておりました。
 一つは私が敬愛してやまない、当時は新進気鋭の書家であられた石飛博光さんに書いてもらった『夢を拓く』という書の額。そしてもう一つは、15歳の息子をいよいよアメリカに一人残してアメリカを離れるとき、万感胸に迫る思いで一枚の便箋に書き残しておいた¨淳平君に贈る言葉¨という私の言葉です。便箋に書かれていた文章は次の様なものでした。『若者は大志を抱き、夢に向かって挑戦しよう。己を信じ、未来を信じ、強く、楽しく、美しく、我が道を行け堂々と』。書いた日付は1993年8月16日となっておりました。
                                        (2014・10・26日の記)

写真上:アメリカ孫と沖縄孫のショット
写真中:アメリカ家族と沖縄家族の大集合
写真下:リビングに飾られている記念の書


奥田のコラム(NO211) アメリカ孫を訪ねる旅 ( 2014/09/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 琉球新報、9月28日のティータイムというコラム欄に、「アメリカ孫」という投稿記事が載っていて、私は大いに共感させていただきました。
 実は私にも2人のアメリカ孫がいて(コラムNO203、205にも記載)、来る10月2日から17日迄、家内と一緒にその孫に会いに行ってくるのです。
上の孫ANIKA(6歳)には、すでに2〜3回は会っているのですが、下の孫MARIKA(2歳)に会うのは今回が初めてです。

 今の世の中、スカイプという便利な文明のお陰で、この二人の孫には月に1〜2度の割合で映像では会っているのですが、息子(アメリカ孫の父)の話によれば、二人の孫が覚えている日本語は@ジージとバーバ、Aおはようとおやすみ、Bありがとうとこんにちわ、Cいただきますとごちそうさま位との事で、はたしてどこまで孫との意思疎通が出来るであろうかと、私は大いなる不安とときめきに明け暮れている昨今であります。

 今回のアメリカ旅のもう一つの楽しみは、沖縄在住の娘夫婦と一緒に1歳と2か月になる沖縄孫の希望(のぞみ)が同行する事です。アメリカ孫と沖縄孫がどんな初対面をして、どんな展開になっていくのであろうか、実に興味深いものがあるのです。
 願わくば今回の旅を機に、それぞれの孫達がワールドワイドな素晴らしい人間関係を築いていって欲しいものと願うばかりです。

 さて、今回のアメリカ旅は、¨孫¨とは別に、私達夫婦にはもう一つの大事な目的を心に秘めた感謝の旅でもあるのです。その感謝の旅というのは、私の末息子(アメリカ孫の父親)が今から21年も前に、15歳で単身アメリカゴルフ留学を目指した時に、大変お世話になった3組のご夫婦に再会し、改めてのお礼を申し伝えたい旅なのです。

 一組目のご夫婦は、Hank Johnsonご夫妻です。Hankさんは、ゴルフの好きな方であれば誰もが知っているであろう往年の名ゴルファー、トム・カイト選手やフレッド・カプルス選手のコーチをつとめられた有名なティーチング・プロの先生です。
 当時15歳であった末息子がゴルフ留学をしたい一心で、或る人の紹介でアメリカにこのHank 先生を訪ねた際、息子を快く引き受けて下さり、自分の息子のように可愛がって下さった息子のゴルフ人生の先生です。Hank先生のお陰で息子は今ではアメリカ女性と結婚し、二人の子供にも恵まれ、日本人としては数少ないUSPGAの正会員の資格も取得し、世界中のゴルフ場をフリーパスで利用できる好運人生を授かっているようです。

 二組目のご夫婦はBen Clementsさんご夫婦です。Benさんは、息子が単身留学をした際の身元引受人を引き受けて下さった方です。まるで英語力の無かった息子を、家族同様に可愛がって下さり、息子のゴルフを応援しながら勉強の応援もして下さり、息子を名門校と言われるブライアーウッド・クリスチャン・ハイスクールに入学させて下さった教育の恩人です。

 息子はこの学校では、ゴルフ部と音楽部に籍を置き、ゴルフ部ではゴルフの才能を大いに発揮し、特待生の待遇で学費を免除されての卒業でした。また音楽部では、たった一人の東洋人であったが故の個性が認められ、ニューヨークのあのカネギーホールにも合唱団の一員として出演すると言う好運にも恵まれました。

 三組目のご夫婦は、Edo &Sekikoご夫婦です。Sekiko さんは沖縄のご出身です。息子が沖縄からの留学生である事を知ったその翌日から、息子を自宅に引き取り(それまではアパート住まいでした)、学校を卒業するまでの5年間、一切の生活の面倒を見て下さった実生活の大恩人です。
 ご主人のEdo さんは、昔沖縄に将校として勤務され、Sekikoさんと結婚された大の沖縄ファンです。ご自分の机の前に息子の写真を飾ってくれて、我が子の様に可愛がってくれたEdoさんの姿を思い浮かべる度に、私の目には涙が溢れるのです。

*私は上記の三組のご夫婦を通して、アメリカには深く感謝をしております。今沖縄は辺野古の海の基地問題で大きく揺れ動いております。私の知る限りでは、アメリカの大多数の国民は辺野古の事など何一つ知らされてはおりません。辺野古の問題は日本政府とアメリカ政府の政治問題以外の何物でもないような気がいたします。アメリカの国民が辺野古の現実を知ったなら、大多数の人達は間違いなく、美しい自然の海を後世に残す事に両手を挙げて賛成してくれるに違いありません。
 私は日米両国が真の親善国として後世に禍根を残さない関係が続く事を願って止みません。
                                               (2014・9・30日の記)
写真上:アメリカ孫のANIKA(6歳)
写真中:アメリカ孫のMARIKA(2歳)
写真下:沖縄孫の希望(1歳のパスポート写真)


奥田のコラム(NO210) 錦織圭選手に心からの拍手喝采を!! ( 2014/09/11 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2014年9月に入ってからの数日間、私はテニスの錦織圭選手に夢中の日々を過ごしておりました。私ばかりか、日本中のテニスファンが、私以上の興奮度で錦織選手の活躍ぶりを見つめていたのかも知れません。

 今年の全米オープンテニス最大の話題の一つは、錦織選手の目を見張るばかりの活躍振りではなかったかと思われます。
 開幕前の記者会見では、右足親指の怪我で、『一回戦を戦い抜けるかどうかが心配』と発言していたのに、いざふたを開けてみると、一回戦では米国のオデニクス選手に6−2、6−4、6−2、とストレート勝をして一気に不安を払しょく。2回戦ではスペインのアンドュハール選手に6−4、6−1、と2セットを獲ったところで相手が棄権。3回戦ではアルゼンチンのマイエル選手を6−4,6−2、6−3と一蹴し、完全なる復調振りを印象づけたのでした。

 錦織選手が一躍世界の注目を集める様になったのは、第4回戦からであったと思われます。4回戦の相手は錦織選手よりも格上で、シードNO5に位置するカナダのラオッチ選手。ラオッチ選手とは4時間19分の大熱戦を闘い、4−6、7−6、6−7、7−5、6−4の末に勝利し、遂に準々決勝に駒を進める事となりました。

 5回戦(準々決勝)の相手は、シードNO3で、全豪オープンの覇者でもあるスイスのワリンスカ選手。この対戦も4時間を超える大接戦。3−6、7−5、7−6、6−7、6−4で制し、日本中を興奮の渦の中に巻き込んでしまったのでした。

 6回戦(準決勝)の相手は、世界の4大大会に7勝、そしてシードNO1の地位にいたセルビアのジョコビッチ選手です。世界NO1の相手を何と6−4、1−6、7−6、6−3の3勝一敗で圧勝したのですから、この瞬間から錦織選手は一躍世界の錦織になったのです。

 そして遂に決勝戦です。日本選手が4大大会で決勝戦に残るのは、歴史上初めての快挙だとの事です。
決勝の相手は過去の対戦でも勝利しているクロアチアのチリッチ選手ですから、世界中の殆どの予想は錦織選手の勝利だったのです。
 素人の私も90%以上の錦織選手優勝を予測をしていたのですが、わずかに10%の不安は、チリッチ選手が世界ランキング11位ながらも、4大大会17回勝利者で世界の王者と呼ばれたフェデラー選手を3勝0敗のストレートで破っての決勝進出でしたので、その勢いが心配の種でした。
 心配の種は残念ながら的中し、結果は3−6、3−6、3−6の準優勝という事になったのでした。

 最終戦に敗れたとはいえ、錦織選手の大活躍振りは、日本の歴史に燦然と残るものです。日本中に歓喜と尽きせぬ夢と希望と勇気を与えてくれたのです。

 私はこれまでも錦織選手の大ファンでしたが、これからは更なる大ファンにさせてもらって、せめてユニクロのTシャツを身につけて、ほんの少しでも錦織選手の身近に居たいものであります。

 私は錦織選手のテニスには、スピード、強さの他にも、芸術的とも思える彼独特の美しさがあると感じます。そして一歩コートを離れると、優しさと品格が漂う好青年であります。
 彼こそは名実ともに、日本が世界に誇れる自慢のプレイヤーであると私の目には映ります。
 全米オープンテニスの活躍に拍手喝采を贈ります。錦織選手の更なる世界への飛躍を確信し、もう一度心からの拍手喝采を贈らせていただきます。
                (2014・9・10日の記)
追伸
(1)順々決勝の相手であったスイスのワリンスカ選手へ:
 あなたは錦織選手の絶妙のバックボレーで自分のセットを落としたにもかかわらず、錦織選手のプレーに心からの拍手を示してくれました。私はあなたのスポーツマンシップに感服します。

(2)錦織選手が中学からアメリカに単身テニス留学をするにあたって、ホームシックをも乗り越えられる強い選手になりなさいとの願いをこめて、携帯電話を渡さなかったと聞くご両親に頭が下がります。

(3)錦織選手の才能を確信し、彼のアメリカ留学に多額の個人的援助を惜しまなかったと聞く、元ソニー副社長の盛田正明さんに頭が下がります。

写真上・中・下:いずれも全米オープンでの錦織選手の雄姿
写真提供:共同通信社


奥田のコラム(NO209) 帯津良一著「まあるく生きる」−これが元気の秘訣ですー ( 2014/08/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 知る人ぞ知る著名な帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長・日本ホリスティック医学協会会長)は1936年のお生まれですから今年で78歳になられます。実は私も先生と同い年で、帯津先生は私の人生の恩師でもありますので、帯津先生の生き様や、あの信じられない程の¨元気さ¨には特別の関心を持たないではいられません。

 帯津先生の最新書『まあるく生きる』(海竜社出版)の中には、帯津先生の一日の様子が詳しく紹介されておりますので、ちょっと紹介してみようと思います。それにしてもあまりの超人振りに本当にびっくりしてしまいます。

(1) 帯津先生の起床は毎日2時30分。3時には迎えのタクシーに乗車して、3時30分には病院に入られるそうです。何故そんなに早く出勤されるのか、その答えは実に単純明解なのです。
帯津先生が一日の中で最も楽しみにしていて、常に¨最後の晩餐¨と心得ておられる夕方6時30分からの晩酌タイムまでに、一日の全ての仕事を終える為には、逆算するとどうしてもそうならざるを得ないのだそうです。

(2) 病院に入った3時30分から5時30分までの約2時間は、前日までに届いている手紙の返事や、全国津々浦々から届くホメオパシーのレメディーに関する返事、そして原稿書きや校正もこの時間の一部に充てておられるそうです。
 5時30分になると病院内の気功道場に立ち、一人で静かに太極拳を舞われます。この時の太極拳はまさに一期一会の太極拳と心得、上手下手などは一切眼中になく、只ひたすら無心になり、あるがままに虚空と一体になれるひとときの様です。
 太極拳を終えた後、自動販売機で買って飲む¨プルプルみかんジュレ¨は格別の美味しさだそうです。

(3) 太極拳の後は長年にわたってとっている朝日新聞と、大好きな日刊スポーツの星占いに目を通して、一段落したところでその日の仕事の段取りにかかり、朝食は病院内のレストランでコーヒーと緑茶をいただき、本来の病院の仕事に取り掛かるのです。

(4) 帯津先生は川越市にある帯津三敬病院の他にも、週1〜2日は池袋にある帯津三敬クリニックにも行かれ、診察の他にも、週一回の太極拳と、ご自身の体験から生み出された新呼吸法「時空」の実技指導にも当てておられます。

(5) 土曜・日曜は殆ど講演依頼で全国を飛び歩いておられます。年間の講演回数はおよそ100回位になるそうです。講演依頼の無いたまの日曜日は、大好きな神田の本屋さんに行き、新しい本との出会いに、ときめきの時間を過ごされておられるようです。

(6) 病院内の夕食を終えた後は家に帰り、9時にはお風呂に入り(烏の行水)、その後は昔の名画のDVDを30分ほど見て10時には眠りにつかれて一日が終わるのです。
就寝時間は4時間程ですが、熟睡するので4時間の睡眠で充分との事です。

* 以上が帯津先生のおおまかな一日の様子ですが、こんなハードなスケジュールを、当たり前のようにこなしておられる帯津先生の元気の秘訣は、どうやらその日その日を精一杯、¨全力で生きる事¨に尽きるのではないかと思われます。

* 帯津先生は78歳になった今でも、やりたい事ややるべき事が両手からこぼれる程あって、老後を楽しむ気持ちなどさらさら無いのだそうです。
 帯津先生の理想の人生は、夏目漱石の小説『野分』の中に記された一文、「理想の大道を行き尽して、途上に斃るる刹那に、わが過去を一瞥のうちに縮め得て、始めて合点が行くのである」だそうです。
 私は帯津先生と出会えた事を何にも優る人生の宝物として、心から感謝しております。

* 帯津先生の最新書は上記の『まあるく生きる』の他にも、『人生に必要なものは実は驚くほど少ない』(集英社)と、『いい人をやめると病気にならない』(SB新書)があります。いずれもご一読をお勧めしたい本です。
               (2014・8・31日の記)

写真上:「まあるく生きる」(海竜社)
写真中:「人生に必要なものはじつは驚くほど少ない」(集英社)
写真下:「いい人をやめると病気にならない」(SB新書)

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