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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO191) やなせたかし 「明日をひらく言葉」 ( 2013/11/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 昨日の事です。なにげなく本屋さんに立ち寄り、ふと目にとまり、何のためらいもなく私の手の中に納まっていたのが上記の本でした。
 やなせたかしさんは、日頃から敬愛してやまない郷土(高知県)の大先輩ですが、今あらためて思う事は、人の縁と言うものは、その対象が人であっても物であっても、今日のような本であっても、何かしらの不思議を感じないではいられません。
 ふとした出会いがすぐに忘れる事もあれば、今日のこの本のように、間違いなくこれからの私の人生に大きな励ましを与えてくれる、座右の書になってくれそうな出会いもあるのですね。
 この本のごく一部でしかありませんがご紹介しようと思います。

 人生の歩み方(やなせたかし)

* 私はイケメンでなくて本当に良かった。人並み以上の容姿に生まれついていたら、この性格では、仕事なんかそっちのけで羽目を外し、人生の軌道を大きく外してしまった可能性が大である。それを抑制する為に、神様が容姿風貌を制限されたのだと大いに感謝しなくてはいけません。

* 私の人生が開花したのは69歳の時でした。遅咲きも遅咲き、「大器晩成」とおだてられますが、いやいや「小器晩成」の典型だ。大器でも小器でもいい、なんとかなるさと辛抱して、とにかく生きていれば人生は捨てたものではない。やがて道は拓けてくる。それが私の実感だ。

* 仕事は人と人との繋がりで来るものだ。いろんな事をやっていく中で、めぐり合う人が新しいチャンスや可能性を連れてきてくれる。チャンスを捕まえるか捕まえないかが人生の分岐点となるのです。
 チャンスは誰にでも平等にある。「どうせ俺はダメだ」と言っている人は、チャンスをつかもうとはしていないのではありませんか。何事も足元から一歩一歩と進むうちに、必ずいい結果に向かっていくのです。

* ¨運は自分で拓くもの¨、¨運は自分が呼び込むもの¨。つまり、運は天が定めたものではなく自分で動かすものなのです。「継続は力なり」と同時に、「継続は運」なのです。
 今の仕事に不満を持っていたら、天職には出会わない。自分で工夫して誰かに喜んでもらえたら、それが天職だと思えるようになっていくのです。

* 私は悔しさをバネに遂にスター(星)になれました。僕のファンがいてくれ、この人が発見した小惑星を「Yanase星」と、「Anpanman星」と命名して下さったのだ。ノーベル賞をもらうより嬉しかった。

* 長い人生を生きてきたが、星の命に比べたら、百歳まで生きたって、瞬間に消え去っていくのと変わらない。人間は宇宙的に言えば、ごく短い時間しか生きれないのだ。
つかの間の人生なら、なるべく楽しく暮らした方がいい。人は何が一番楽しいんだろう。私の答えは「よろこばせごっこ」だった。私は人を喜ばせるのが一番嬉しい。

* 人間が生きる事を感じるのは悲しい事の方が多いのです。家内は乳がんを患い余命3ヵ月の宣告を受けましたが、余命宣告よりも5ヶ年永らえました。この5年間は命の尊さを実感する充実の日々でした。
 最後の入院となった日、カミさんの体を拭いてあげたら、「ああ、天国にいるみたい」と僕を見て笑ったカミさんの顔が今も脳裏から離れません。

* 悲しい時、絶望しそうになったら、握り拳をつくってみてください。そしてその握り拳で涙を拭くのです。そうすれば、もう一度生きようと立ち直ろうとする自分が涙の中から生まれてくるのです。

* 一歩一歩平凡に生きていく事は、人生の記憶には残りにくい。だが、その平凡な事を何十年も続けていくと、いつの日か、遠大な目標を果たされるのです。小さな事をおろそかにしては、目標や希望には到底手が届かない。長い人生を生きてきて僕は心からそう思う。

* 東北が天災に襲われ、信じられないような大きな被害を受けた時、全ての言葉はむなしく、一体何をすればいいのか呆然とするばかりでした。ところが大震災から3日後、あるラジオ番組に「アンパンマンのマーチを流してください」とのリクエストがあり、早速放送したところ、子供たちがラジオに併せて大コーラスを始め、大人たちも涙をこぼして感動したそうです。それからは、ラジオは連日この歌を流したと言う。僕が作った歌や、僕が生み出したアンパンマンが、こんな時に少しでも役に立ったとすれば本当に嬉しい。

* 人間80歳を過ぎると人生のマニアルもなければ、お手本になる人生もそうそうない。「老人は老人らしく」しなくてもいいのだ。「いい年」だからこそ、やりたいことをどんどんやっていこう。恥をかいてでもとにかくやれば何かしら得るものがある。
 今までも過去を振り返った事は殆どない。いつも楽しい現在と未来だけを見ていた。
未来こそ重要なのだ。未来に乾杯!!


 以上はやなせたかし「明日をひらく言葉」に記されている文章の一部です。
やなせたかしさんは、今年10月13日に94歳で奥様の所に旅立たれました。

           ( 2013・11・30日の記 )
写真上:PHP文庫から出版された最新書
写真下:ポプラ新書から出版された最新書


奥田のコラム(NO190) 三浦雄一郎沖縄講演会『夢&生き甲斐』 ( 2013/11/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2013年5月30日に80歳と224日という高齢ながら、3度目の世界最高峰エベレスト(8843m)登頂を成功させた三浦雄一郎さんのお話を聞くチャンスが、11月3日にありました。70分ほどのお話でしたが、ほかの誰にも語れない三浦ワールドにすっかり魅せられたひと時でした。
 今日のコラムは、その時のプログラムの余白に書いていた自分のメモを見ながら、印象に残っている事をお伝えしようと思います。(講演内容の一部でしかない事をお詫びいたします)。

  <講演内容>
 ・ エベレスト山頂は8000mを超える世界です。人間の身体は5000mの高さで裸になると5分で死に、8000mを超えると瞬時に爆発する程の過酷な世界です。

 ・ 人間の身体は20歳を100%の体力とすれば、それ以後は毎年1%づつ体力が落ちていき、70歳では約半分位になると考えられます。エベレスト山頂にあっては、20歳の人でも70〜90歳位の体力に落ちてしまうので、80歳でのヒマラヤ登頂は想像をはるかに超える危険な行為と言えるでしょう。

 ・ 三浦雄一郎さんは、お父さん(故三浦敬三さん)の影響もあって、子供のころからスキーと登山に夢中になっていて、学校の成績はいつも最下位のところをさまよっていたそうです。大学もその当時、最も競争率の低かった北海道大学の獣医学科に入り、卒業後も同大学の仕事に従事しておりました。

 ・ 50歳の頃までは元気一杯の人生でしたが、50歳を過ぎた頃からは、¨飲めや食えやの大騒ぎ人生¨となり、体の異常に気付いた時には、余命3ヵ月の宣告を受ける体になっておりました。
 当時のお父さんは、モンブラン滑走者として脚光を浴びていて、その父に申し訳ない一心と、余りにふがいない自分への猛反省から、意を決して体質改善に取り組む事となりました。取り組んだ体質改善方法とは、両足首と背中に重りをつけて歩く事でした。この行為がその後の人生を大きく蘇らせてくれる事になりました。

 ・ 65歳から山登りを再開させ、最初の試みは北海道の藻岩山(531m)でした。半年後には富士山を登り、夢はヒマラヤへと膨らんでいきました。ヒマラヤを選んだのは、父親がモンブランだったので¨俺はヒマラヤだ¨という単純な発想でした。

 ・ 三浦雄一郎さんの最初のエベレスト登頂は70歳の時、2回目は75歳、そして3回目が今回の80歳です。ここに至るまでの人生は苦難の連続で、度重なる骨折と3回の心臓手術、その度に再起不能と宣告されながらも、手術の度にお医者さんが驚くばかりの回復力でした。その要因となったのが全身に負荷を加えたゆっくり歩きでした。年齢は70〜80歳になっていても骨や筋肉の細胞は20〜30代の若さが保たれていたのです。

・ 80歳で3回目のエベレストに挑戦した時も、直前の3ヵ月前には3回目の心臓手術をしたばかりでした。人間の身体には信じられない程の回復力が潜んでいる事を改めて知りました。

 ・ 食事で気に掛けていた事は@ 肉、魚(鮭の頭丸ごと)にんにく、しょうが、シイタケ類、野菜のごちゃ混ぜ鍋と、A 納豆、山芋、オクラ、海藻類などの¨ねばねば¨食品を食べる事でした。

   <三浦雄一郎さんからの健康提言>

 ・ 人間の体には不思議な能力が備わっていて、年齢を重ねても、心掛け次第では元気になる細胞は何度でも蘇り、若さを保つ事が出来るのです。体を動かす事が大事です。

 ・ 両足首に女性は1s、男性なら1.5s位の重りをつけて、一日20分位ゆっくりと歩く事を勧めます。階段の昇り降りは歩きの何倍もの効果があると思われます。ゆっくりが大事です。 両足に負荷を加えたゆっくり歩きは、体力がつくばかりか、血糖値を下げたり血圧の正常化にも役立ちます。

・ 人間は出来ない理由を探すよりは、出来る事を見つけて行動に移すことが大事です。

・ 中途半端な人生を送っていると死が怖くなります。死に直面すると死を乗り越えようとする不思議な力が湧くものです。死ぬ程やりたいと思える事に出会い、それをやり続ける事が一番幸せな人生かも知れません。

 ・ 大自然の素晴らしさに気付く事です。私達は動物としてこの世に生かされている事に気付く事です。人間以外の動物は誰にも迷惑をかけずに、自分自身で自然に帰って行きます。人間も動物である人生を全うしたいものです。

 ・ 守りの健康は後退です。攻めの人生は前進します。私(三浦さん)は夢に向かってドキドキ、わくわくの人生こそが人生の生き甲斐と思って生きております。

   〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 * このコラムを書いている最中に玄関のチャイムがピンポ〜ンと鳴りました。家内が大きな声で『お父さん、北海道が送られてきましたヨー』と叫びました。
 そういえば毎年この時期になると段ボール一杯の¨大地の恵み¨が届くのです。送り主は旭川出身の書道家・石飛博光さんです。石飛先生とは30年来のお付き合いで、孫達を除けば、私がこの世で最も会いたい5人の中に入る人物です。
石飛先生、今年も有難う!!

* 先月(10月)には私の大好きな¨利平栗¨が送られて来ました。栗の送り主は3〜4年前から有難いご縁をいただいている名古屋の大城孝志さんご夫婦です。
大城さんにも心から有難う!!です。      
                 ( 2013・11・13の記)
写真上:三浦雄一郎沖縄講演会
写真中:北海道から届いた大地の恵み
写真下:名古屋から届いた利平栗


奥田のコラム(NO189) 東北楽天イーグルス、日本一の快挙!! ( 2013/11/10 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 10月は相次ぐ台風の襲来で、日本中に暗雲が立ち込めていた感がありましたが、11月に入った直後(11月3日)に、あの東北楽天イーグルスが巨像、読売ジャイアンツを接戦の末に破り(4勝3敗)、遂に日本一に登りつめた瞬間は、楽天ファンならずとも日本中の野球ファンが、まさかの感動と歓喜に身を震わせたのではないでしょうか。
 巨人ファンには申し訳ないのですが、もしかして今年に限っては、日本中の大多数の野球ファンは、東北楽天イーグルスの日本一を応援していたに違いありません。

 私はプロ野球に関しては、イチロー選手以外の事は、何が起きてもほとんど気にならない人間でしたが、いつの間にか東北楽天イーグルスがリーグ優勝し、クライマックスシリーズにも勝ち残り、対巨人戦との日本シリーズ戦に突入した頃には、すっかり東北楽天イーグルスのファンになりきって、一戦一戦の試合に夢中になって応援の叫び声をあげておりました。

 東北楽天イーグルスの日本一を応援し続けた人達の心中には、等しく一戦一戦に東日本大震災からの復興と言う願いが秘められていたに違いありません。私もその一人でした。
 私はずっと昔から、何故か東北の民謡が大好きで、東北民謡を通して、東北の中に素朴にして美しい日本の故郷の様なものを感じ続けておりました。
 東北楽天イーグルスの本拠地でもある仙台には、数々の想い出もあり、今でもまだ素晴らしい友人、知人との交流もあるのです。そんな事もあって、私はこの度の楽天イーグルスの奇跡とも思える日本一を心から喜ぶ者であります。

 さて、東北楽天イーグルスが日本一になる経過の中で、特に私の印象に残っている点を挙げて、永く記憶に留めておきたいと思います。

(1) 日本一となった東北楽天イーグルスの監督には、私は余り好感を持ってはおりませんでした。理由はベンチの采配振りが、選手の失策にバカヤローの罵声を飛ばすばかりが目に止まっていたからです。
 監督が日本シリーズ中で発した言葉は、『永遠の宿敵を倒して、俺は宙に舞いたい』でありました。弱者応援主義者の私としては、この前半の言葉は胸に響くものがありましたが、後半の所は『選手全員を宙に舞わせてやりたい』と言ってもらえたら、どんなにか監督株が上がっていたのに・・・といささか残念でした。
 それでも最後のお立ち台では『子供たちや東北の人達に希望と勇気を与えた選手達を褒めてやってくださーい』と叫んでくれたのにはホットするものがありました。

(2) 何といっても東北楽天イーグルスを日本一に導いた最大の貢献者は、田中将大投手(25歳)ではないでしょうか。かつてリーグ20連勝の記録を成し遂げ¨神様、仏様、稲尾様¨とまで言われたその伝説の記録をはるかに超える、リーグ24連勝と併せて30連勝を成し遂げた田中マー君こそは、すでに日本プロ野球の宝とも言える存在なのかも知れません。
 田中投手の魅力は、どんな場合でも、おごらず、いばらず、ひたむきで謙虚な人柄にあると私は思います。彼は必ずや日本を越えて世界に大きく羽ばたく大投手になるに違いありません。

(3) 東北楽天イーグルスの捕手兼キャプテンである嶋選手にも日に日に魅力が湧いてきました。いつも冷静で、落ち着いていて、チーム全体に気配りの出来る名キャプテンです。彼の心の中には¨東日本復興¨の一念が刻まれているに違いありません。彼が若くして今年の侍ジャパンの主将に選ばれた理由も良く理解できるというものです。

(4) ピッチャーでいえば、若干20歳のルーキー則本投手にも私は尽きせぬ魅力を感じます。日本シリーズでMVP(最優秀選手)に輝いた美馬投手には、東北楽天イーグルスの底力を感じます。

(5) 野手兼バッターで印象深いのは小柄ながら3番打者の銀次選手(25歳)です。私は彼には親戚の息子のような親近感を覚えてしまいます。野球音痴の私の家内でさえもが、銀次選手がバッターボックスに入ると黄色い声を発するのですから、楽天チームは他球団にない全員野球の魅力が溢れているのです。

(6)東北楽天イーグルスの最大の財産は、何といっても楽天を日本一に導いた楽天ファンであると思います。これからも選手と楽天ファンが心を一つにして、一戦一戦の勝利を東日本の復興に結び付けてくれる事を願わずにはいられません。
 最後に、楽天チームを誕生させて下さったオーナーとその関係者の方々にも感謝いたします。

*日本シリーズの最終日に、元巨人軍V9監督であった川上哲治さんの訃報が伝えられました(94歳)。私達が子供の頃は、野球と川上は同義語でありました。心よりご冥福をお祈りいたします。
                    (2013・11・9日の記)
写真上:東北楽天イーグルス日本一の瞬間
写真中:日本一を勝ち取った田中投手の雄姿
写真下:MVPを獲得した美馬投手
(琉球新報社より)


奥田のコラム(NO188) アンパンマン先生(やなせたかしさん)・94歳の訃報 ( 2013/10/18 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2013年10月16日の新聞で、やなせたかしさんが10月13日に亡くなられた事を知りました。やなせたかしさんは誰もが知るアンパンマン漫画の生みの親です。
 私はアンパンマン漫画の事はそれ程詳しくはないのですが、柳瀬さんが郷土(高知県)の大先輩であるのと、彼の生きざまを知るようになってから、強くこの人物に惹かれ、関心を持ち、密かに彼の健康長寿を願いつつ、私自身も彼から多くの健康人生の学びをいただいておりました。

 やなせたかしさんの事はコラム(NO177)にも書かせていただいておりますが、彼が、アンパンマン漫画を世に出された一番のきっかけとなったのは、貧しい幼少の頃、一人のおじさんからもらったアンパンの美味しさと、その時の喜びの感動が原点にあるのだそうです。

 アンパンマン漫画が世に出て、一世を風靡するようになったのは、やなせさんが70歳になった頃からだそうです。しかしその頃のやなせさんは、病気の百貨店と言われる程の病気を患い、更には頼みの綱であった奥様に先立たれ、それでもアンパンマン漫画を絶やしてはならないとの一心から、一大決意をして健康人生に立ち向かっておられたのだそうです。やなせさんにとって94歳の人生は、完全燃焼、100%納得の人生であったに違いありません。

*10月17日の琉球新報「金口木舌」に、私の知らなかったやなせたかしさんの深遠人生の一端が記されておりますので、今日のコラムに紹介させていただき、併せてやなせたかしさんのご冥福を心よりお祈りいたします。
                      (2013・10・18の記)

「金口木舌」 2013年10月17日  琉球新報

 弟は、赤ちゃんから7歳ぐらいまで真ん丸な顔をしていた。どこかアンパンマンに似ているー とやなせたかしさんは書いた。2歳下の弟、千尋さんは21歳で、人間魚雷と言われた海軍特攻隊特殊潜航艇「回天」でフィリピン沖に沈んだ。

◆ 七つぼたんは桜にイカリと歌われ、もてはやされたが、千尋さんは兄には吐き捨てるようにいったそうだ。「短剣吊った猿芝居」だと。やなせさん自身も招集されて中国大陸で飢えに苦しんだ。

◆ おなかがすいた子には自分の顔をちぎって食べさせる。ばいきんまんには得意のアンパンチを食らわせるが、致命的な痛めつけ方はしない。弱きを助ける優しい自己犠牲のヒーローだ。

◆ 「声高に語る正義はうそくさい」「聖戦と思っていたら実は違った。ひもじい人を助けるのがどこへ行っても正義の味方」。アンパンマンはやなせさんの平和への願いから生まれた。

◆ やなせさんの夢にたびたび出てきた弟は、南の孤島のジャングルで20人の子を持つ王様になっている。日本に帰ろうと促すと「兄ちゃん。僕はここがいい。ここは自然に生きていられる。短剣吊った猿芝居をしなくていい」と言う。

◆ 震災の地でもアンパンマンの絵本と歌は子供たちを勇気づけた。今頃アニメのモデルとなった千尋さんと語り合っていよう。勇ましい言葉の陰で寛容さを失ったこの世に眉をひそめながら。

写真上・下:琉球新報社の記事より


奥田のコラム(NO187) 2040年、沖縄県長寿日本一奪回宣言! ( 2013/10/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 月に2回の割合で書き綴っている私のコラムですが、ついうっかりして、今回はすでに一ヶ月が過ぎている事に気付き、大慌てをして机に向かっている私です。

 この一ヶ月の間に、何が一番印象に残った出来事であろうかと振り返ってみると、一番良かったと思える事は、プロ野球の東北楽天イーグルスがシリーズ初優勝した事です。日本中の多くの人達が、東北楽天イーグルスの優勝に期待を寄せながら、¨東北の元気¨を応援していたに違いありません。私もその一人です。沖縄県・久米島は、楽天の冬のキャンプ地でもありましたので、願わくばクライマックスシリーズにも勝ち残り、日本一の座に昇りつめてくれる事を期待して止みません。

 良かったと思えるもう一つの出来事は、沖縄県石垣島に新空港が完成し、航空料金が以前の半分ぐらいになった事です。ただ、少し心配になっている事は、観光客の急増で石垣島の風景が一変しつつある事です。

 次にこの一ヶ月で私が一番残念だった事は(極めて個人的な事ですが)、大相撲の把瑠都関が引退した事です。私は昔から大相撲が大好きで、40〜50年前の栃錦、若乃花時代の相撲には、魂を奪われる程の興奮を覚えたものでした。それ以来の大相撲には次第に魅力が薄れ、昨今の相撲界には殆ど魅力を感じておりません。そんな中で、只一人把瑠都関にだけは何かしら妙に惹かれるものが有って、密かに応援していただけに残念でなりません。
     〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 さて本題に入りますが、この一ヶ月の間に生じた私の最大の関心事は、沖縄県が、2040年までに長寿日本一の奪回宣言をして、やっと本気でその第一歩を踏み出したと思える事です。かつての沖縄は、男女ともに日本一の長寿県を誇っていたのに、2000年を境に、女性が3位、男性は一気に26位に転落し、その後も30位まで後退し続けているのです。

 私は1971年にご縁を得て来沖し、以来ウチナンチュー(沖縄県人)の一人として、2000年以後の沖縄の長寿回復に深い関心を持ち続けていたのですが、行政の健康長寿県回復への取り組みにはいささか失望しておりました。沖縄県は長寿復活運動のリーダーを医療関係者にゆだねていた感があり、その行動内容には大きな疑問と失望を覚えるばかりでした。

 病院という所は一部を除けば、健康長寿を育む処では無く、もしかして病人を増やし続ける危険性を併せて持ち合わせている所かも知れません。多くの老人達は、沢山の薬を出してくれるお医者さんを良い先生と信じ込んで、せっせと病院通いに励んでいる様に思えてなりません。

 私の住まいの近くにある総合病院では、早朝から患者さんの車で溢れ、片道二車線の道路が、一車線になってしまう程の状況が続いています。どこの病院も同じかも知れませんが、このようなすさまじい病院通いの状況が続く限り、沖縄が日本一の長寿県に返り咲く事はあり得ないのではと言う不安があります。
 そういえば、数年前ニューヨークに行った折に聞かされたのですが、ニューヨークでも病院の数が増えれば増える程、病人の数が増えるのだそうです。どうやらこの辺に健康づくりの本物の答えが見えて来る様に思えるのですが・・・。

 本気になって長寿県日本一に取り組む行政のあるべき姿は、病気にならない健康づくりの提案であろうと考えます。沖縄にはまだまだ元気いっぱいの長寿者が大勢生きておられるのですから、何よりもこれらの生き証人に学ぶ事が大事ではないでしょうか。

 自らを健康長寿者の見本としてその先陣を歩んでおられるアメリカのアンドレー・ワイル博士によれば、『沖縄は長寿王国が期待できる魅惑の島』と評して下さっているおりますが、この言葉の持つ意味は、沖縄の医療も含めて¨大自然、人情、文化等々が一体となった魅惑の健康王国¨と言う事であろうと私は理解しております。

 この度の¨沖縄県長寿日本一宣言¨を最大の好機ととらえ、県民一人一人が長寿者に学び、更なる創意工夫と知恵を結集させて、必ずや名実ともに日本一に返り咲かねばならないと願う者であります。
                    (2013・10・14日の記)
写真上:長寿県日本一奪回の新聞記事(琉球新報社より)
写真中:東北楽天イーグルス・シリーズ初優勝の瞬間
写真下:把瑠都引退会見の様子(琉球新報社より)

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