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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO166)−日本健康太極拳協会・国内交流ミッション沖縄大会(その一) ( 2012/12/23 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日本最大の太極拳組織であるNPO法人「日本健康太極拳協会」様から、私達の「21世紀養生塾沖縄」(気功と太極拳による健康づくりの会)との交流会をやりませんか・・・との、まさかのお申し出をいただいたのは今年の6月15日の事です。

 日本を代表する由緒ある協会と、沖縄の片隅で、しかもちょっと型破りの健康づくりを楽しんでいる私達の小さなグループが同じ土俵の上に立っての交流会など有り得る筈がない・・・・・と、私はまるで他人事のような思いでいたのですが、その後の何回かのやり取りと、遂には9月10日、協会の事務局長さんがわざわざご来沖して下さり、交流会の主旨をお伺いするにつけ、この交流会は実現させねばならない運命の流れの中にあると思えるようになり、私はとうとう¨運を天に任せる思い¨でこのご提案をお受けさせていただく事に心を決めたのでした。

 日本健康太極拳協会(旧名・楊名時健康太極拳協会)の創始者は、60年程も前に中国山西省から留学生として来日され、以来、中国語の先生として日本の教壇に立たれる傍ら、日本中に楊式健康太極拳を拡められた楊名時先生です。
 楊名時先生は沖縄にも深いご縁のあった方だそうです。若かりし頃は空手の勉強もされていて、沖縄剛柔流の祖であられた八木名徳先生とは親しい交流があったのだそうです。

 交流会のもう一つの理由は、今から9年前の出来事に遡るのです。その当時、私は健康について深く考えねばならない暗中模索の日々が続いておりました。私が辿り着いた光明の先は帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長・日本ホリスティック医学協会会長)の健康哲学でした。

 帯津先生は、21世紀の健康の在り方は、西洋医学も東洋医学も民間療法も、全部が良いものを融合させ合うホリスティック医学であって、病気を治すのを病院だけに頼ってはいつまでたっても患者は増える事はあっても減る事はない。大事な事は、誰もが自分の健康は自分で守る心掛けと、それなりの努力が必要ですとおっしゃるのです。
 そして、民間に伝わる健康法の大きな柱の一つが気功・太極拳、そして呼吸法にあると提言され、ご自分の病院に道場をつくられ、患者さんはもとより一般の人達にも公開されております。楊名時太極拳がその道場の中心的存在である事は申すまでもありません。

 私は帯津先生の提唱される「21世紀養生塾」の沖縄支部を2003年11月30日に発足させましたが、その設立記念講演会には、帯津先生とご一緒に、何と楊名時先生もご来沖して下さり、太極拳の真髄を披露して下さったのです。楊名時先生の太極拳には魂を揺さぶられた感動が今でも私の体の中に息づいております。

 楊名時先生は7年前(2005年)に故人となられましたが、現在はご子息の楊進先生と楊慧先生が協会の理事長と副理事長の要職につかれて、日本健康太極拳協会の発展に尽くされておられます。この度の沖縄交流会は、故楊名時先生の¨天¨からのご要望によるもののような気がしてなりません。

 沖縄交流会の内容は下記の通りでした。

日時:平成24年12月17日(月)16:30~18:00
会場:ラグナガーデンホテル 2階 羽衣の間
 <交流表演会>
@ 太極学院 楊進先生他5名による太極武術
A 21世紀養生塾沖縄20名による(1)養生気功「内養功」  (2)沖縄古典音楽「四つ竹」による太極拳
B 沖縄伝統空手道、剛柔流、上地流、少林寺による空手
C 日本健康太極拳協会、楊進・楊慧先生他55名の師範による楊名時太極拳
                     (2012,12,22の記)

写真上:楊進理事長による太極剣舞
写真中:21世紀養生塾生による「四つ竹」
写真下:日本健康太極拳師範による太極拳演舞


奥田のコラム(NO165) -中村勘三郎さんの急逝を悼みますー ( 2012/12/09 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 中村勘三郎さん死去!!。突然のこのニュースには本当にびっくりで、暫くは言葉がありませんでした。。
第1報を知ったのは12月5日の朝、仕事に向かう車の中でした。享年57歳という若さには無念を覚えずにはいられません。
 私は歌舞伎の世界に特別の思い入れがある訳ではありませんが、中村勘三郎さんだけには忘れがたい想い出があるのです。

 今からもう44〜5年前にもなる昔の事ですが,1968年から1976年まで8年間、私はご縁をいただいて、東京東銀座にあった「歌舞伎座」の中に¨海彦¨という小さなお店を出させていただいておりました。
 そのお店では、私の出身地,土佐の高知の名産品である¨珊瑚¨や¨鰹の塩辛¨などを販売していたのですが、そうなったいきさつについてはコラムのNO86,87に詳しく書かせていただいております。

 さて、歌舞伎座の中にあったお店は、殆んどが一階のロビーの一角に並んでおりました。
そのロビーの店先に歌舞伎役者さんが姿を見せる事などめったになかったのですが、何故か一人、ひんぱんにロビーに出没して、あちらこちらのお店にも立ち寄り、まさかの予期せぬ質問を投げかけ、店員さんを大いに困らせていた小さな大役者がいたのです。その人物こそは若き日の中村勘三郎(当時の勘九郎)さんだったのです。

 その後の私は、東京から沖縄に仕事の場を移し、いつしか40数年もの時が流れてしまいましたが,勘九郎さんのその後の躍進ぶりには目を見張るものがありました。
平成の中村座を立ち上げた後のニューヨーク公演や、四国の讃岐歌舞伎の復活などはその最たるものでしょうが、歌舞伎界の革命児の名を欲しいままに生きた生涯であったと思います。

 今から思えば、勘九郎さんをあれだけ飛躍させた最大の要因は、子供の頃の溢れるほどの好奇心と、はじけるような行動力と、ずば抜けた才能(想像力)にあったのではないかと、私は今になってそう思うのです。

 新聞、TV報道から知る知識でしかありませんが、彼の交友関係の広さと深さには驚かされるものがあります。
彼が語った言葉の中に、「類は人を呼び、その類人達が僕にエネルギーをくれるのです」という言葉があるそうですが、彼は人生の全ての出会いを成長への糧として育んでいたに違いありません。

 勘三郎さんの座右の銘は¨型破り¨だったそうです。彼が目指した役者人生は¨伝統に培われた型破り人生¨であったのかも知れません。誠にあっぱれな型破り人生であったと、私は彼の生き方に感銘を覚えます。

 57歳という早すぎる死は残念、無念の一言に尽きる感もありますが、人の死はすべからく天なる神のなされる事と考える以外に、私には辿り着ける言葉が見つかりません。ただ静かにご冥福をお祈りして合掌するばかりです。                          
                    ( 2012・12・8日の記)
写真上:勘三郎さんの写真
写真下:旧歌舞伎座の写真


奥田のコラム(NO164)− 秋の味覚に感謝の日々!!ー ( 2012/11/21 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 11月中旬ともなれば、北国では冬の足音が急を告げる時期のようですが、さすがに南の島の沖縄では、まだ冬の気配はどこにもなく、それでも秋の深まりだけは日に日に増すばかりの感がしております。
 沖縄では採れない、リンゴや柿や梨や葡萄やみかん類がスーパーの店頭にずらりと並び、秋魚を代表する秋刀魚(さんま)も冷凍ものでは味わえない新生魚の本物の味覚が、私を虜にしてくれております。

 本当に有難い事に、この時期になると、県外の友人知人から、たくさんの秋の味覚が送られてきて、私はこの上もない幸せに浸れる日々が続くのです。

 幸せな秋のいただき物その@は:11月初旬に名古屋の知人から栗と椎の実が送られてきました。私は土佐の高知の小さな半農半漁の村に育ち、加えてねずみ年に生まれたせいか、とにかく栗と椎の実には目が無いのです。(コラムNO72、NO94に記載)。

 最近知るようになったのですが、栗の実にもピンからキリまでがあるようです。残念ながら沖縄のスーパーに並ぶ栗は、どうやら最下位に近いものしか置かれていないのでは・・・という気がしております。
 私の知る限りでは、ピンの部類に位置する栗は、岐阜県中津川の¨利平栗¨です。長野県の¨小布施栗¨や熊本にも美味しい栗があるようですが、今回名古屋から送られてきた栗は、その¨利平栗¨と¨小布施栗¨の両方なのですから、私の喜びは天にも昇るものであります。

 残念ながら椎の実は、今年は台風の影響で殆ど全滅に近い状況との事です。
それでも名古屋の知人の奥様が、わざわざ実家の近くの金華山にいって、拾って下さった心のこもった椎の実を、送っていただき美味しくいただく事が出来ました。

 栗の季節になると、私には必ず蘇ってくる特別な想い出があります。その想い出とは、5年前の10月に訪れたニューヨークのタイムス・スクエアの街角で売られていた¨焼き栗¨です。一つ一つの栗が、とてつもなく大きくて、その味は例え様の無い天下一品の美味しさで、私はその栗の事を¨天国の栗¨と名付けているのです。
 ニューヨークには3日間の滞在でしたが、3日ともその焼き栗を買って食べる事が、私のニューヨークでの一番の喜びでもありました。
 私は必ずもう一度ニューヨークを訪れ、あの焼き栗を存分に食べつくしてみたいと念じております。そしてあの栗が一体どこで採れるものかをどうしても知りたいのです。

 幸せな秋のいただき物そのAは:群馬県と東京の知人から大量の柿が届きました。
 つい先日、名古屋・岐阜の旅を終えたばかりですが、岐阜県を故郷に持つ友人から聞いた話では、岐阜県人は柿は買って食べるものではないのだそうです。岐阜県人にとっては,柿はそれほど身近にある果物と言う事のようです。
 群馬県からの柿の送り主は家内の友人ですが、その柿は岐阜県産の¨富有柿¨でした。しかも段ボールの中には3段もの柿が積み重ねられていて、おすそわけするのも大変な量でした。さすがに岐阜県は柿の王国なのかも知れません。味も満点でした。

 次に東京の知人から送られてきた柿は、どうやら有名デパートの果物売り場が特別のお客様の為に用意している柿らしく、一個一個の柿が袋詰めされておりました。
食してみると何とも言えない格調高い味で、感銘を受けました。この柿には和歌山特産¨紀の川柿¨という名前がついておりました。

 幸せな秋のいただき物そのBは:北海道からで、¨北海道特産秋の味覚¨と書かれた段ボール箱が届きました。北海道からの送り主は、もう30年来の親しい関係にある著名な書家からで、この書家からは毎年春にはアスパラが、秋には秋の北海道の味覚(じゃがいも・玉ねぎ・かぼちゃ)がドーンと届くのですから、秋の味覚にやや乏しい沖縄に住んでいても、友人知人のお陰で、上記のような絶品の秋の味覚に浸ることが出来るのですから本当に有難いのです。

 大自然の絶妙の秋の味覚に感謝です。友人知人のご厚意に感謝です。こんな幸せを満喫させていただける唯今の人生に感謝の手を合わせるばかりの私達(家内も)であります。本当に有難うございます。感謝の合掌です。

                  (2012・11・21日の記)
*追伸
 このコラムを書き終えた直後に、またまた宅急便が届きました。送り主は何とまあ、先日栗と椎の実を送ってくださったばかりの名古屋の大城さんご夫婦からのものでした。中には岐阜県産の、間違いなく最上級の¨富有柿¨がはいっておりました。
 柿はきれいな包装紙に丁寧に包まれていて、ちょっと食べるのがもったいない雰囲気が漂うばかりです。
 柿が大好きであった母親にお供えしてから、ゆっくりと心を込めていただく事にしようと思います。

写真上:岐阜県中津川の¨利平栗¨と長野県¨小布施栗¨
写真中:和歌山県の¨紀の川柿¨と岐阜県の¨富有柿¨
写真下:北海道特産「秋の味覚」


奥田のコラム(NO163) −名古屋・飛騨高山・富山県氷見港の旅 ( 2012/11/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

11月の 初旬、3泊4日をかけて上記の旅に出かけました。最近はどこに行くにしても家内と一緒です。どうやら、否応なしに年齢による二人三脚の旅にならざるを得ないのです。

 名古屋の旅の第一の目的は、名古屋に私達の気功・太極拳による健康づくりの会(21世紀養生塾沖縄)の名古屋支部をつくりたいと申し出て下さる方がいて、昨年に続き(コラムNO127に記載)、今年も更なる地固めを兼ねた研修会にお招きいただいたのでした。

 研修会場には11名の方々が集まって下さり、今回は午後5時から8時までの3時間という長丁場でしたが、誰一人として音をあげる事も無く、目的のスケジュールをやり遂げた名古屋の熱意に、私は大いなる希望の光を見る思いでした。、
 夜8時半からの二次会は、名古屋名物、焼き鳥手羽先の「山ちゃん」に席を移しての親睦会でしたが、まるで10年来の友人の会のような賑わいとなり、気がついてみたら、時計は夜の11時となっておりました。名古屋の人達の夜は底抜けに明るいのです。

 名古屋訪問の第2の目的は、私の健康人生の恩師である楊名時先生と帯津良一先生の記念碑が、名古屋知多半島の中程にある「美浜公園」に建てられていると聞いていたので、その碑を拝見する事でした。その碑は桜並木の中にありました。
 碑は3ッあって、一つは楊名時先生の「同心協力」、二つ目は臨済宗妙心寺官長であられる河野太通さんの「心息動」、そして三つ目は帯津良一先生の「青雲の志」でした。

 この碑を建てられたのは、名古屋に楊名時太極拳門下生を3,000人も育成された土田庄比知さんという方との事ですが、碑を建てた人にも建てられた3人の偉人にも私は思わず感謝の手を合わさずにはいられませんでした。

 名古屋訪問の目的を終えた私達夫婦は、名古屋にお誘いくださった大城孝志・奈緒美ご夫妻のお言葉に甘えて、翌日は岐阜県飛騨白川郷と飛騨高山の朝市を目指して車を走らせました。車の運転はすべて大城さんご夫婦がしてくださり、私達夫婦は、紅葉に染まった夢のような外の景色に唯々どっぷりと浸ってさえおれば良かったのです。
 飛騨高山は山の紅葉ばかりか、街道の両サイドに立つ街路樹も総て紅葉に染まるのですから、本当に感動するばかりです。

 飛騨白川郷の手前に、「天然ウナギと、今でしか味わえない子持ち鮎の店があるので、ちょっと早い昼食をそこでとりませんか?」との大城さんのお誘いに私達は大賛同して、少しコースをはずれてその店に寄り道をしたのです。
 その店は長良川に沿った郡上八幡という歴史的にも有名なところでしたが、私はそこで、ふと50年程前のある出来事を思い出しておりました。

 どこかのコラムに書いたような気がするのですが、50年程前、私は東京の大学の英文科に籍を置きながら、夢中になって取り組んでいたのは日本民謡の勉強でした。
 その頃、あるレコード会社から「日本民謡によるダンス音楽集」というレコードが出る事になり、何故か私はその中で岐阜県の『郡上節』を唄っていた事を思い出したのです。まさにこの日の昼食をとった場所が、その『郡上節』の発祥の地であったのですから、私は50年ぶりの胸の高まりを抑えるのに懸命でした。

 〜郡上のなー 八幡出ていく時は、雨も降らぬに袖絞る
 〜郡上のなー 殿様自慢のものは 金の土俵に七家老
 〜郡上のなー お月様つん丸こて丸て 丸で角のうて添
  いよかろ

50年を経た今も、その時の歌詞は鮮明に覚えておりました。

 次に伺った飛騨高山は、想像をはるかに超えた格調高い素晴らしい街並みでした。古い酒蔵を活用した店店が並び、飛騨高山の個性あふれる物産が、趣向を凝らして
店先を飾り、思わず吸い込まれる街並みが続いておりました。私達はすっかり飛騨高山の魅力に虜になってしまいました。
 今回の目的の一つであった飛騨高山の朝市は、素朴で、出店のおばあちゃん達の穏やかなお顔は、日本のおばあちゃんを代表する100点満点のお顔ばかりでした。

 私達は見るもの、見るものが皆欲しくなり、手当たり次第に漬物、山芋、豆類、切り餅、味噌等を買い求め、後で持ち運びに大苦戦をする事となりました。

 飛騨高山を目的地の最後にして名古屋に引き返す筈のドライブは、ふと車の中でつぶやいた私の一言で、急転直下、今度は富山県氷見港に向かう事となりました。

 落語家の立川志の輔さんは富山県のご出身です。私は不思議なご縁でもう30年程も前から親しくさせていただいておるのです(コラムNO141に記載)。その志の輔さんがいつか『富山の氷見港でとれる寒ブリのしゃぶしゃぶはまさに天下一品です!!!』といった言葉を思い出して、口に出してしまったのです。この一言でドライバーの大城さんは、「今から氷見港に行きましょう!!」と、ハンドルを氷見港に向けたのです。

 残念ながら氷見港の寒ブリの水揚げは来年1月以降との事で、¨しゃぶしゃぶの夢¨は果たせませんでしたが、氷見港の魚市場には、あきれかえる程の魚の珍味がどの店にも山積みされておりました。
 私は大好物の¨じゃこ¨を手に持てるだけ買い求めたのですが、私が沖縄のスーパーで買って食べる¨ジャコ¨は氷見港ではペット用以下にランクされている事を知り愕然としたのでした。

 富山県氷見港から名古屋までの帰り道はおよそ500キロ、56個もの長いトンネルを抜ける道のりでしたが、大城さんご夫婦には一生忘れてはならない程のご迷惑をかけた感謝と感激の旅でした。
 今回の旅にはまだまだたくさんの思い出ががあるのですが、また次の機会にしようと思います。
                    (2012・11・14日の記)
写真上:名古屋教室研修会
写真中:帯津先生の石碑
写真下:飛騨高山の街路樹


奥田のコラム(NO162) 日野原重明先生・101歳の熱弁 in 沖縄 ( 2012/10/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日野原先生の講演を聴くのは、、先生が99歳の時と100歳の時と、そして101歳になられた今年で3度目となるのですが、増々お元気になられるばかりで、今回も沖縄コンベンション大ホールを縦横無尽に歩き回られながら、約1時間半の熱弁を振るわれ、会場に集まった人達をうならせました。

 日野原先生のこの元気さは一体どこから来るのであろうかと考えてみるのですが、もしかして、次の3ッの人生哲学に由来しておられるのではないかと私は想像するのです。

 まずその一は:日々に体を動かし、ことに足腰の鍛錬に努めておられる事です。
 日野原先生は101歳の今でも、ご自分の病院(聖路加国際病院)の階段はエレベータ―を使わずに、¨三呼一吸¨の呼吸法で昇り降りされておられるそうです。そればかりか、駅の階段も若者たちに負けない様に駆け昇る事に喜びを感じるのだそうですから、1時間半の講演などは、疲れの範ちゅうには入っていないのかも知れません。

 第2番目は:人生に大きな夢を描き、その夢の実現に邁進されておられる事かも知れません。私が日野原先生を身近に感じるようになったのは、10年ほど前に先生が設立された「新老人の会」によるものですが、先生はこれからの時代は75歳ぐらいが老人の入り口であって、人生に夢を描き、常に創める事を忘れなければ、人は簡単に年をとらないと断言されておられます。

 第3番目は:先生は人の為にお役に立てる人生を意識の中心に置かれて日々を過ごしておられると思える事です。
 日野原先生は、「命とは人間が使える時間の長さである」とおっしゃいます。その使える命をどれだけ世の為、人の為にお役に立てるかが、¨人生の価値¨だと強調されます。
 医者としての責任感と、101歳の人生を生きてこられた体験を通して、今は¨平和と命の大切さ¨を後世に伝える事に全力投球しておられるように見受けられます。

 さて、その日野原先生の今回の講演は『沖縄を平和のパラダイスにしよう』というタイトルでした。パラダイスにする為の最大の条件は¨戦争のない平和の島づくり¨だと力説されました。以下は日野原先生のお話の要点です。

* 沖縄は先の戦争で26万人もの人達が犠牲となりました。沖縄は今こそ日本の総力を結集させて、平和のパラダイスにしなければならない宝島なのです。
 温暖な気候、美しい自然の恵み、イチャリバチョーデー(出会った人はみな兄弟)の心を持った優しいウチナンチュー(沖縄の人達)、伝統に培われた数々の美しい文化など、どれをとってみてもパラダイスの条件が全て備わっているこの沖縄を、再び戦争にかかわる島にしてはならないのです。
日野原先生の101歳の力強い発信に、私は心を揺さぶられる感動を覚えました。

 おりしも昨今の沖縄は、オスプレー問題と米兵による婦女暴行事件に、またしても大揺れに揺れ動かされる日々が続いております。
 新聞報道等によれば、オスプレーが地上すれすれに飛ぶ際に放出される熱風の温度は200度にもなるのだそうです。

 政治の世界では、オスプレー飛行の安全性だけが強調されて、飛行の範囲は拡大するばかりですが、200度の熱風を吹きかけられる沖縄の森は、きっと悲鳴を上げているに違いありません。沖縄の森では、オスプレーが飛ぶ度にたくさんの生命が奪われているのかも知れません。

 日野原先生の101歳の提言に日本中が目を覚まさなければならない時が来ているのです。私も今、この沖縄にご縁をいただいている一人として、それなりの自覚を新にしなければならないと自分に言い聞かせているのです。
 日野原先生のご提言に感動の感謝を捧げます。有難うございます。
                 (2012・10・25日の記)
写真上:日野原先生101歳記念講演会パンフレット
写真中:日野原先生の「100歳の金言集」
写真下:日野原先生の最新書「いのちの使い方」

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