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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO163) −名古屋・飛騨高山・富山県氷見港の旅 ( 2012/11/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

11月の 初旬、3泊4日をかけて上記の旅に出かけました。最近はどこに行くにしても家内と一緒です。どうやら、否応なしに年齢による二人三脚の旅にならざるを得ないのです。

 名古屋の旅の第一の目的は、名古屋に私達の気功・太極拳による健康づくりの会(21世紀養生塾沖縄)の名古屋支部をつくりたいと申し出て下さる方がいて、昨年に続き(コラムNO127に記載)、今年も更なる地固めを兼ねた研修会にお招きいただいたのでした。

 研修会場には11名の方々が集まって下さり、今回は午後5時から8時までの3時間という長丁場でしたが、誰一人として音をあげる事も無く、目的のスケジュールをやり遂げた名古屋の熱意に、私は大いなる希望の光を見る思いでした。、
 夜8時半からの二次会は、名古屋名物、焼き鳥手羽先の「山ちゃん」に席を移しての親睦会でしたが、まるで10年来の友人の会のような賑わいとなり、気がついてみたら、時計は夜の11時となっておりました。名古屋の人達の夜は底抜けに明るいのです。

 名古屋訪問の第2の目的は、私の健康人生の恩師である楊名時先生と帯津良一先生の記念碑が、名古屋知多半島の中程にある「美浜公園」に建てられていると聞いていたので、その碑を拝見する事でした。その碑は桜並木の中にありました。
 碑は3ッあって、一つは楊名時先生の「同心協力」、二つ目は臨済宗妙心寺官長であられる河野太通さんの「心息動」、そして三つ目は帯津良一先生の「青雲の志」でした。

 この碑を建てられたのは、名古屋に楊名時太極拳門下生を3,000人も育成された土田庄比知さんという方との事ですが、碑を建てた人にも建てられた3人の偉人にも私は思わず感謝の手を合わさずにはいられませんでした。

 名古屋訪問の目的を終えた私達夫婦は、名古屋にお誘いくださった大城孝志・奈緒美ご夫妻のお言葉に甘えて、翌日は岐阜県飛騨白川郷と飛騨高山の朝市を目指して車を走らせました。車の運転はすべて大城さんご夫婦がしてくださり、私達夫婦は、紅葉に染まった夢のような外の景色に唯々どっぷりと浸ってさえおれば良かったのです。
 飛騨高山は山の紅葉ばかりか、街道の両サイドに立つ街路樹も総て紅葉に染まるのですから、本当に感動するばかりです。

 飛騨白川郷の手前に、「天然ウナギと、今でしか味わえない子持ち鮎の店があるので、ちょっと早い昼食をそこでとりませんか?」との大城さんのお誘いに私達は大賛同して、少しコースをはずれてその店に寄り道をしたのです。
 その店は長良川に沿った郡上八幡という歴史的にも有名なところでしたが、私はそこで、ふと50年程前のある出来事を思い出しておりました。

 どこかのコラムに書いたような気がするのですが、50年程前、私は東京の大学の英文科に籍を置きながら、夢中になって取り組んでいたのは日本民謡の勉強でした。
 その頃、あるレコード会社から「日本民謡によるダンス音楽集」というレコードが出る事になり、何故か私はその中で岐阜県の『郡上節』を唄っていた事を思い出したのです。まさにこの日の昼食をとった場所が、その『郡上節』の発祥の地であったのですから、私は50年ぶりの胸の高まりを抑えるのに懸命でした。

 〜郡上のなー 八幡出ていく時は、雨も降らぬに袖絞る
 〜郡上のなー 殿様自慢のものは 金の土俵に七家老
 〜郡上のなー お月様つん丸こて丸て 丸で角のうて添
  いよかろ

50年を経た今も、その時の歌詞は鮮明に覚えておりました。

 次に伺った飛騨高山は、想像をはるかに超えた格調高い素晴らしい街並みでした。古い酒蔵を活用した店店が並び、飛騨高山の個性あふれる物産が、趣向を凝らして
店先を飾り、思わず吸い込まれる街並みが続いておりました。私達はすっかり飛騨高山の魅力に虜になってしまいました。
 今回の目的の一つであった飛騨高山の朝市は、素朴で、出店のおばあちゃん達の穏やかなお顔は、日本のおばあちゃんを代表する100点満点のお顔ばかりでした。

 私達は見るもの、見るものが皆欲しくなり、手当たり次第に漬物、山芋、豆類、切り餅、味噌等を買い求め、後で持ち運びに大苦戦をする事となりました。

 飛騨高山を目的地の最後にして名古屋に引き返す筈のドライブは、ふと車の中でつぶやいた私の一言で、急転直下、今度は富山県氷見港に向かう事となりました。

 落語家の立川志の輔さんは富山県のご出身です。私は不思議なご縁でもう30年程も前から親しくさせていただいておるのです(コラムNO141に記載)。その志の輔さんがいつか『富山の氷見港でとれる寒ブリのしゃぶしゃぶはまさに天下一品です!!!』といった言葉を思い出して、口に出してしまったのです。この一言でドライバーの大城さんは、「今から氷見港に行きましょう!!」と、ハンドルを氷見港に向けたのです。

 残念ながら氷見港の寒ブリの水揚げは来年1月以降との事で、¨しゃぶしゃぶの夢¨は果たせませんでしたが、氷見港の魚市場には、あきれかえる程の魚の珍味がどの店にも山積みされておりました。
 私は大好物の¨じゃこ¨を手に持てるだけ買い求めたのですが、私が沖縄のスーパーで買って食べる¨ジャコ¨は氷見港ではペット用以下にランクされている事を知り愕然としたのでした。

 富山県氷見港から名古屋までの帰り道はおよそ500キロ、56個もの長いトンネルを抜ける道のりでしたが、大城さんご夫婦には一生忘れてはならない程のご迷惑をかけた感謝と感激の旅でした。
 今回の旅にはまだまだたくさんの思い出ががあるのですが、また次の機会にしようと思います。
                    (2012・11・14日の記)
写真上:名古屋教室研修会
写真中:帯津先生の石碑
写真下:飛騨高山の街路樹


奥田のコラム(NO162) 日野原重明先生・101歳の熱弁 in 沖縄 ( 2012/10/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日野原先生の講演を聴くのは、、先生が99歳の時と100歳の時と、そして101歳になられた今年で3度目となるのですが、増々お元気になられるばかりで、今回も沖縄コンベンション大ホールを縦横無尽に歩き回られながら、約1時間半の熱弁を振るわれ、会場に集まった人達をうならせました。

 日野原先生のこの元気さは一体どこから来るのであろうかと考えてみるのですが、もしかして、次の3ッの人生哲学に由来しておられるのではないかと私は想像するのです。

 まずその一は:日々に体を動かし、ことに足腰の鍛錬に努めておられる事です。
 日野原先生は101歳の今でも、ご自分の病院(聖路加国際病院)の階段はエレベータ―を使わずに、¨三呼一吸¨の呼吸法で昇り降りされておられるそうです。そればかりか、駅の階段も若者たちに負けない様に駆け昇る事に喜びを感じるのだそうですから、1時間半の講演などは、疲れの範ちゅうには入っていないのかも知れません。

 第2番目は:人生に大きな夢を描き、その夢の実現に邁進されておられる事かも知れません。私が日野原先生を身近に感じるようになったのは、10年ほど前に先生が設立された「新老人の会」によるものですが、先生はこれからの時代は75歳ぐらいが老人の入り口であって、人生に夢を描き、常に創める事を忘れなければ、人は簡単に年をとらないと断言されておられます。

 第3番目は:先生は人の為にお役に立てる人生を意識の中心に置かれて日々を過ごしておられると思える事です。
 日野原先生は、「命とは人間が使える時間の長さである」とおっしゃいます。その使える命をどれだけ世の為、人の為にお役に立てるかが、¨人生の価値¨だと強調されます。
 医者としての責任感と、101歳の人生を生きてこられた体験を通して、今は¨平和と命の大切さ¨を後世に伝える事に全力投球しておられるように見受けられます。

 さて、その日野原先生の今回の講演は『沖縄を平和のパラダイスにしよう』というタイトルでした。パラダイスにする為の最大の条件は¨戦争のない平和の島づくり¨だと力説されました。以下は日野原先生のお話の要点です。

* 沖縄は先の戦争で26万人もの人達が犠牲となりました。沖縄は今こそ日本の総力を結集させて、平和のパラダイスにしなければならない宝島なのです。
 温暖な気候、美しい自然の恵み、イチャリバチョーデー(出会った人はみな兄弟)の心を持った優しいウチナンチュー(沖縄の人達)、伝統に培われた数々の美しい文化など、どれをとってみてもパラダイスの条件が全て備わっているこの沖縄を、再び戦争にかかわる島にしてはならないのです。
日野原先生の101歳の力強い発信に、私は心を揺さぶられる感動を覚えました。

 おりしも昨今の沖縄は、オスプレー問題と米兵による婦女暴行事件に、またしても大揺れに揺れ動かされる日々が続いております。
 新聞報道等によれば、オスプレーが地上すれすれに飛ぶ際に放出される熱風の温度は200度にもなるのだそうです。

 政治の世界では、オスプレー飛行の安全性だけが強調されて、飛行の範囲は拡大するばかりですが、200度の熱風を吹きかけられる沖縄の森は、きっと悲鳴を上げているに違いありません。沖縄の森では、オスプレーが飛ぶ度にたくさんの生命が奪われているのかも知れません。

 日野原先生の101歳の提言に日本中が目を覚まさなければならない時が来ているのです。私も今、この沖縄にご縁をいただいている一人として、それなりの自覚を新にしなければならないと自分に言い聞かせているのです。
 日野原先生のご提言に感動の感謝を捧げます。有難うございます。
                 (2012・10・25日の記)
写真上:日野原先生101歳記念講演会パンフレット
写真中:日野原先生の「100歳の金言集」
写真下:日野原先生の最新書「いのちの使い方」


奥田のコラム(の161) 第77回日本オープンゴルフ in OKINAWA ( 2012/10/18 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日本ゴルフ界の最高峰に位置づけられている『日本オープンゴルフ』が、今年は、沖縄の本土復帰40周年を記念して『那覇カントリー倶楽部』で開催されました。
2012年10月11日から14日までの4日間でした。
 私はゴルフには特別の思い入れがあるのと、ことにこの那覇カントリーには忘れられない人生の想い出が詰まっておりますので、今回のコラムには那覇カントリーとの思い出を綴っておこうと思います。

 私がご縁をいただいて沖縄に移住したのは、沖縄が日本に復帰した40年前の事でした。沖縄の本土復帰記念事業としては、「沖縄海洋博覧会」があるのですが、私の
沖縄人生はその時から始まったのでした。私は37歳でした。
 観光事業に志を定めて、無我夢中の日々を過ごしておりましたが、その頃にゴルフの喜びにも目覚め、お酒が飲めない私の社交術はゴルフ以外に何もなく、私は仕事とゴルフが私の人生の両輪のような日々が続いておりました。

 ちょうどその頃、那覇カントリーがオープンする事となり、この那覇カントリーのメンバーになることが出来ました。当時のお金で130〜140万位の会員権であったと思いますが、私のゴルフ人生はまさにこの那覇カントリーからスタートしたのでした。
 40年の時を経て、この那覇カントリーが日本オープンゴルフの開催地になろうとは、まるで夢のような出来事で、感慨深いものがあるのです。

 さて私には、この那覇カントリーには生涯忘れられないであろう二つの思い出があるのです。
 その一つは:1979年9月24日に、私はこのゴルフ場で、生まれて初めてのパープレイをしております。もう32〜3年も前の事で、当時のゴルフの事は殆ど忘れかけているのですが、パープレイを目前にした最後の50p程のパットの風景は、いまだに鮮明に記憶の中に残っているのです。勿論一緒の組で回った人達の名前も覚えています。パープレイ達成のお祝いでいただいたワインの名前も忘れておりません。私の43歳の時の最高の想い出の一つです。

 
 もう一つのまさかの出来事は:この度の日本オープンの開催地となった『那覇カントリー倶楽部』の正面玄関にかかっている¨書¨に私が幾分かかわっているらしい事です。
 今から30年程も前、私は一人の新進気鋭の書家に出会っておりました。その書家の名前は石飛博光さんで、石飛さんを紹介して下さったのは、その当時、沖縄国際通りの地下にあった小劇場「沖縄ジャンジャン」の運営を応援しておられた永六輔さんです。

 私は石飛さんの書には心底魅せられるのですが、石飛さんが無類のゴルフ好きということもあって、その時以来の永いお付き合いをさせていただいております。
 石飛さんのその後の人生は目をみはるばかりのご活躍で、今や日本を代表する書家として押しも押されぬ地位に昇りつめておられます。

 那覇カントリーの仲間洋一支配人は、琉大の書道部出身の書家でもあり、書に対する造詣の深さは格別の人物です。私はこの仲間さんとも旧知のご縁をいただいていて、そんなご縁が一つに結集して、この度の日本オープンの舞台となった『那覇カントリー倶楽部』の玄関を飾る書が実現する事となったのです。本当に不思議な嬉しいご縁と思います。

 仲間支配人から、この度の日本オープンの招待状をいただき、私は二日目の日に家内と一緒に栄えある日本オープンの舞台を拝見させていただきました。
 私達は、ジャンボ尾崎、青木功、中島常幸選手のグループと、今をときめく石川遼君と地元期待の宮里優作君の組について回り、存分にゴルフを楽しませていただきました。

 最終日の結果は、まさかの逆転優勝に輝いた久保谷健一選手をして¨ミラクル¨と言わしめる展開となりました。
私はゴルフは壮大なる人生のドラマだと思いました。ゴルフから学ぶ人生もたくさんあるとも思いました。
 私もゴルフに恵まれたこの沖縄の地にご縁をいただいて、体力・気力が続く限り、ゴルフに学び、ゴルフを楽しむ人生でありたいと熱望しております。

 日本オープンの沖縄開催に心から感謝します。四日間も放映して下さったNHK沖縄放送局にも感謝です。本当に有難うございました。
                 (2012・10・18日の記)
写真上:第77回日本オープンのパンフレットと石飛さんの書
写真中:ジャンボ尾崎・青木功・中島常幸の組
写真下:石川遼・宮里優作と久保谷選手の逆転V
(写真中・下は琉球新報より)


奥田のコラム(NO160) ノーベル医学生理学賞に輝いた山中先生の魅力 ( 2012/10/15 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2011年10月8日にノーベル医学生理学賞が発表されて以来、日本のマスコミは連日この話題でもちきりとなりました。 
 授賞の対象となったのは¨IPS細胞¨の発見と言う事のようですが、物理とか化学と名のつく世界にまるで疎い私ながらも、さすがに連日の詳細にわたる報道のお陰で、ほんの少しIPS細胞の概要が解りかけてきたような気がしております。

 IPS細胞とは、人間の皮膚細胞に4種類の遺伝子を加える事によって、これまで治療が困難とされていたあらゆる病気を回復させるであろう夢の細胞で、そこには無限の可能性が秘められているらしいのです。
 ガン、痴ほう症、パーキンソン病、視力の回復、全身が動かなくなる骨や筋肉の回復などにも役立つ万能回復細胞の発見だそうですから、これはまさに人類への福音と言っても過言ではないのかも知れません。

 IPS細胞についてこれ以上の知識は私にはないのですが、この夢の細胞を発見した山中先生のこれまでのご苦労や、辿ってこられた人生の一端を知るにつけ、一市民の私にも、心に染み渡る感動を覚えます。
 
 山中伸弥先生のお父さんは、ミシンの部品をつくる町工場を経営されておられたそうですが、息子の伸弥さんが中学生になった時、「お前は事業の経営にはむいていないので、医療の道に進みなさい」と告げられたそうです。

 伸弥少年はお父さんの助言に従って、第一歩は整形外科の道に進まれたそうですが、手術が下手で、¨じゃまなか¨と呼ばれる失望の時期を経てアメリカに留学、そこで細胞の研究に出会ったのです。
 日本に帰って身を置いた医学部では、ネズミの世話に追われるばかりの日々が続き、そこでは今度は¨やまちゅう¨というあだ名がつけられたのだそうです。

 しかしながら、ここでのネズミとの御縁が、その後にマウスによるIPS細胞の発見となり、人間のIPS細胞の開発につながり、遂には世界を驚かす今回のノーベル医学生理学賞に到達したのですから、人の運命の不思議とは神のみが知る世界なのかも知れません。

 これまでの新聞に載った山中先生の顔写真では、まるで真面目一筋の研究家で、近寄りがたい印象しかありませんでしたが、その後の度々のインタビューに答える言動に、日本中が山中先生の大ファンになられたに違いありません。私もその一人ですが、よちよち走りながらマラソン大好き人間の私には、マラソンを走るノーベル賞医学生理学者の姿にはたまらない魅力を感じます。

    <山中伸弥先生、感動のインタビュー発言集>

そのT:私の研究は何十回トライしても失敗ばかりで、止めたくなったり泣きたくなったりの連続でしたが、家に帰ると笑顔で迎えてくれる家族があって、私を支えてくれました。家族の支えがなければ私の研究は続けられなかったと思います。

そのU:今回の賞は、私の大先輩や私を支えてくれた仲間 や、国の支援がなければ、こんな素晴らしい賞は受賞出来ませんでした。この賞は日本の国が受賞した賞だと思っています。

そのV:25年前に他界した父のアドバイスが私の原点です。IPS細胞が一日も早く患者さんのもとに届くようになり、父に褒められる事が今の私の一番の目標です。幸い80歳を越えた母には、とりあえずの報告が出来て本当に良かったと思っています。

そのW:IPS細胞の研究は、これからが本番です。これから研究を加速させ、世界の難病と闘っておられる方々に、メイド・イン・ジャパンの薬を提供する事を目標に今後の更なる研究を続けます。

* 山中先生が過ごした大阪の中学・高校の卒業アルバムの寄せ書きには、『夢を大事に!!』という言葉が記されているそうです。そして卒業文集には『自分は柔道部で自分の弱さをいやというほど思い知らされました。自分との戦いに勝てない限り、夢や社会を語る事など無意味なことに思える』とも書かれているそうです。どうやらこの辺に山中伸弥さんの原点が宿っていたのかも知れません。
山中伸弥先生おめでとうございます。心から感動です。心から感謝です。

                  (2012・10・13日の記)
写真上:ノーベル賞受賞を喜ぶ山中先生
写真中:受賞後のお祝いの握手
写真下:奥様との共同記者会見
   (琉球新報より)


奥田のコラム(NO159) アンディー・ウイリアムスさんの訃報 ( 2012/09/28 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 9月26日の新聞でアンディ―・ウイリアムスさんの訃報を知り、私はしばし深い寂しさの中に沈んでおりました。享年84歳との事です。
9月27日の夜のTVニュースでは、彼の晩年の写真が映り、長年私の頭の中にあったイメージとはあまりに違っていて、私は愕然としたのでした。

 私は、アンディー・ウイリアムスと、もう一人、ハリー・ベラフォンテには若き日の想い出があるのです。
今からもう50年程も昔の事で、私がまだ土佐の高知の片田舎から東京に出て間もない大学生の頃かと思われます。その当時の私の楽しみといえば、月に一回ぐらいだったでしょうか、渋谷道玄坂にあった渋谷食堂で、40円の¨焼きそば¨を食べるのが何よりの楽しみでした。

 そんな貧乏の時代に、何故か私はアンディ―・ウイリアムスとハリー・ベラフォンテのステージを見に行っているのです。当時の入場料がいくらであったかの記憶はありませんが、恐らく渋谷食堂の¨焼きそば¨の50倍〜100倍であったに違いありません。そんな大金が当時の私のどこに潜んでいたのか、どんなに考えてみても解らないのですが、とにかくこの偉大な二人のステージを見ているのです。

 ハリー・ベラフォンテの会場は、「産経ホール」であったと記憶しております。「産経ホール」であれば、どんなに安い席であったとしても、彼のステージの様子はそれなりに見えたと記憶しておりますが、アンディ―・ウイリアムスの会場は、横浜方面の大きな体育館のような所でした。

 私の席はその会場の最上階最後方の立見席であったせいか、彼のステージ姿は、まるで蟻が動いていたような印象しか残っておりません。しかし、音楽はどんな遠くの席にもちゃんと聞こえていたのです。私は今でも、彼のあの時のステージが、私の人生で最高のときめきと夢の世界であったような気がしております。

 そんな事の影響かも知れませんが、私は50年経った今でも、アンディ―・ウイリアムスの歌を、車の運転中に聞いているのです。私のフィーリングに一番よく合う外国人の歌手はアンディ―・ウイリアムスのような気がしてなりません。

 アンディ―・ウイリアムスさんは亡くなりました。今となっては、どれ程のお金を出しても、もう彼のステージを見る事は出来ませんが、私は一生涯50年前のあの日の感動を想い出しながら、CDを通して彼の歌を聴き続けるに違いありません。
 ハリー・ベラフォンテの消息については私は何もわかりませんが元気でいて欲しいものです。
 今夜は偉大なお二人の歌をCDで聴きながら、ゆっくりと眠りにつきたいと思っているところです。  合掌                    (2012・9・27日の記)
写真上:アンディー・ウイリアムスさん訃報の記事
写真中:アンディー・ウイリアムスさんのCD
写真下:ハリー・ベラフォンテさんのCD

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