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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO178) ニューヨークのYOSHIさんと突然の再会!! ( 2013/06/12 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 それは先週の水曜日(6月5日)、午後3時ごろの出来事でした。殆ど発信専用にしか使っていない私の携帯電話が鳴り始め、なかなか鳴り止まないのです。何かの間違いであろうと思いながら電話を開いてみると、何とその電話はNEW YORKに住んでおられる筈の比嘉良治さん(通称YOSHIさん)からのものだったのには、まさかのびっくり仰天でありました。

 てっきりNEW YORKからの電話だろうと思いながら話を進めていたら、今、沖縄の屋我地に来ていると言うのです。そして、夕方6時ごろには那覇のホテルに帰れると思うので、今夜は久しぶりの再会を楽しみませんか?とのお誘いです。
 私はあまりの嬉しさに小躍りしながら、すぐさま再会にふさわしい場所探しに取り掛かりました。そして決まった所は、妹夫婦の友人が経営している小料理店の¨温石¨(おんじゃく)でした。夕方の6時30分にYOSHIさんをホテルでお迎えして、目的地に着いたのは7時頃。積もる話に3時間余りの時間が過ぎておりました。

 さて、この辺でYOSHIさんの事を少しばかり説明しておかないと、今日の私のコラムは前に進まないので、私の知る範囲での事を、ごく大雑把に紹介させていただきます。
 YOSHIさんは、50年程も前に沖縄県名護市を離れ、東京生活を経て単身ニューヨークに渡り、遂にはロングアイランド大学の名誉教授にまでなられた方です。ご専門は写真家で、その他にも画家、彫刻家、料理研究家、更にはマラソンランナーとして75歳の今でも、仲間達とニューヨークマラソンを走る健脚家であり、世界中を飛び回っておられる元気者であります。

 YOSHIさんの凄いところは、世界中に友達がいて、沖縄からニューヨークに行かれる人達の殆どがYOSHIさんのお世話になっているのです。YOSHIさんはまた、人と人を結びつける名人で、YOSHIさんとご縁をいただいた人は誰もがまさかの人生の拡がりに目覚める事になるのです。

 私とYOSHIさんの出会いは、コラムNO24、25、26、27にも書かせていただいておりますが、それは今から5年以上も前に遡るのです。
 その頃、YOSHIさんは「ニューヨークの散歩道」と言う写真集を出版され(小学館)、その出版記念会で沖縄に帰られた時、お目にかかれる好運に恵まれたのでした。
 私が「ニューヨークの散歩道」に強く心を惹かれたのは、ニューヨークの象徴とも言えるあのセントラルパークでは、あらゆる年齢層の人達が、朝に夕に、ウオーキング、ジョギングを楽しんでおられる事、そしてセントラルパークのあちこちで、大勢の人達がそれぞれの太極拳を楽しんでおられる事が紹介されていたからです。

 YOSHIさんに会ってその辺の事情を聴いているうちに、YOSHIさんは突然「奥田さん、あなたは私(YOSHIさん)と同じ位のマラソン力と思われるので、是非一緒にニューヨークマラソンを走りませんか?」!!、と言われたのです。
 そして別れ際に、差し出した私の太極拳の名刺を見るや否や、「あなたは太極拳の先生ですか、それなら今すぐニューヨークに来て下さい。世界中の人達と友達になれるばかりか、あなたなら先生にもなれます。とにかくすぐ来てください!!」と言って下さったのです。

 私はその言葉を真に受けて有頂天になり、その日からセントラルパークの夢にうなされる日々が続き、とうとう家内と一緒にYOSHIさんを訪ねる事となったのでした。今から5年程前の事です。
 YOSHIさんは大歓迎して下さり、私達夫婦をセントラルパークに案内し、太極拳にふさわしい場所探しや、私達夫婦の太極拳をバチバチとカメラに収めて下さったのです。
 有名なプロの写真家が、名もない太極拳好きの私達夫婦を、しかも天下のセントラルパークで写真に収めて下さったのですから、これは私達夫婦にとっては生涯に亘って忘れる事の出来ない大事件でありました。(後日、琉球新報社の新聞記事に、ニューヨーク特派員の記事と共に写真が掲載されたのには二度の驚きでした。実はYOSHIさんはタイムス、新報のニューヨーク特派員のお仕事もされておられるのです)。

 その日の夜、YOSHIさんのご自宅に招かれ、イギリス人の奥様(通称ミミさん)の美味しい手料理をご馳走になったのですが、その席で約束した事を、5年後の今も私はまだ実行に移していないのです。その約束とは¨必ずもう一度太極拳仲間と一緒に、セントラルパークで太極拳を舞う¨との約束でした。

 毎年送って下さるX,masカードには¨今年もまだセントラルパークはなくなっていませんからね¨と書かれてあるのです。その言葉を見るたびに心を痛めておったのですが、どうやら神様はそんな私に最終のイエローカードを提示されたのかも知れません。6月5日のYOSHIさんとの突然の再会は、もしかして神様の意志のような気がしてならないのです。
 私は再会の¨温石¨の席で、来年こそは必ず5年前の約束を実現させる事を誓ったのです。約束の要点は以下の3点です。

@ 訪問は来年の10月上旬(紅葉が始まりセントラルパークが最も美しい季節)

A 訪問人数は沖縄から15名(15名になると団体旅行扱いになり、料金が安くなる事。そしてもう一つは、受け入れ側としてもベストの人数である事)

B 現ニューヨークの沖縄県人会との交流会も兼ねて、セントラルパークで沖縄音楽による太極拳を舞う事。
  勿論このほかにも、ブロードウエイのミュージカルを見たり、ショッピングを楽しんだりの楽しい旅でもあるのです。
* 今となって心配になるのは、すでにこのニューヨークの旅に参加したいと手を挙げて下さった人が7〜8人もいて、果たして15人で収まるかどうかの心配であります。

¨歓喜のよろこびは突然にやってくる¨との諺がありますが、まさに今の私はその歓喜のよろこびの真っただ中に足を踏み入れたところです。一年半後のセントラルパークに向けて、心身を整え、生命のエネルギーを溢れさせねばならないと、私はしっかりと自分に言い聞かせているところであります。

                     2013.6.12日の記

写真上:セントラルパークでYOSHIさんが撮ってくれた写真
写真中:YOSHIさんの自宅にて(2007年10月)
写真下:温石の前でYOSHIさんと(2013年6月5日)


奥田のコラム(NO177) アンパンマン先生の健康長寿法 ( 2013/05/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

¨アンパンマン¨の生みの親であるやなせたかしさんは、1919年の生まれですから今年で94歳です。出身地は高知県で、同郷の大先輩と言う事もあって、私は最近からこの同郷の大先輩に特別の親しみと、尊敬の念を持つようになっております。

 やなせたかしさんがどうしてアンパンマン漫画を描くようになったかについては、ご承知の方が多いかも知れませんが、私はつい最近になって本当の事を知り、感慨深いものが有るのです。私の知る範囲の事を要約してお伝えします。

(1)やなせたかしさんの少年時代はとても貧しくて、おいしいお菓子を買って食べるなどと言う事は無縁の世界であったようです。
そんなある日、見知らぬおじさんから一個の¨アンパン¨をいただき、あまりの美味しさに衝撃を受け、その時から¨アンパン¨なるものがやなせ少年の魂の中に深く刻まれる事となったのです。

(2)やなせさんは成人され、漫画家の道を志す事になったのですが、なかなか世の中に認められない苦難の人生が長〜く続き、60歳を過ぎた頃からやっと¨アンパンマン漫画¨が世の中にクローズアップされるようになりました。
 その当時の漫画界は、鉄腕アトム、仮面ライダー等の超スーパーマンが人気の頂天にあったのですが、やなせさんはそんな超スーパーマンにはついてゆけず、彼は自分が子供の頃にいただいて食べたあの¨アンパン¨に変身して、貧しい子供達に自分を食べてもらおうという思いから、アンパンマンは誕生する事になったのだそうです。

(3)小さな子供を持つ親達からは、自分を食べさせる事へのもの凄い反発があったのだそうですが、いつしか子供達からアンパンマン支援の声が拡がり、アンパンマンは今ではなくてはならない子供達の人気者となりました。

(4)アンパンマンの人気は留まる所を知らないのですが、生みの親であるやなせたかしさんの体は、あまりの忙しさに追われている内に、いつしか病気だらけの¨十病人¨になっていったのです。
 70歳を過ぎた頃から患った彼の病名は、白内障、緑内障、心臓病、糖尿病、膀胱炎、腸閉塞、ヘルニア、腎臓がん、膀胱がん等々で、つけられたあだ名は¨病気の総合商社¨だったそうです。

(5)人生最大の苦悩と悲しみは、彼が74歳の時、最愛にして最強の協力者であった一歳年上の奥様を乳がんで亡くされた事でした。その頃のやなせさんのご苦労には想像を絶するものがあるのですが、やなせさんの凄いところは、彼のアンパンマン人生こそは¨天命¨によるものとして深く受け止め、自分の生活習慣を改め、新しくやなせ流の健康人生に立ち向かわれている事でしょう。

(6)やなせさんは今94歳ですが、今自分が生きていること自体が不思議鵜でならないとの事です。やなせさんは「人が衰えていくのは加齢によるというよりも、運動不足が最大の要因となる」と明記されていて、長年に渡るやなせ流の健康体操と食養生取り組んでおられます。

 <やなせ流健康体操>

その1: 森光子さんを見習って、スクワット運動を毎日101回 。ゆっくりと時間をかけて・・・

その2: やなせ流「ダン爺体操」(ぶらぶら体操)に加えて1sのダンベル体操、健康器具を使った足踏み体操、ペタル漕ぎ、腕立て伏せ。いずれもゆっくり無理なく時間をかけて・・・

その3: 運動の仕上げには必ず自作の三つの歌をうたう。
(1、ノスタル爺さん、2、しょうがない、3、アンパンマンのマーチ)

 <やなせ流の食養生ベスト3>(本人はこれを3種の神器と呼んでおります)

そん1: やなせ流特製野菜スープ:
 このスープを20年間続けているそうですが、お蔭で、顔の老人班と皮膚のシミが消え、髪の毛も増えてきたのは、この特製スープの御利益によるものと確信しておられます。

その2: 生姜パワー:
 出身地の高知県産生姜をすりおろして、味噌汁、紅茶、麺類等々、あらゆるものに入れて愛飲しているそうです。体内の老廃物がきれいに排泄されるのはこの生姜汁のお蔭との事です。

その3: 自家製のヨーグルト(カスピ海のヨーグルトとビフィズス菌)
 やなせさんはこのヨーグルトの事を健康の神様と拝しておられます。やなせさんの腸はすこぶる元気で、快腸、快便の日々だそうです。

 * 結論:やなせたかしさんは人生すべての出来事を楽しみに変えて生きる事を信条としておられます。
 私もやなせさんの人生訓に深く学び、感謝と感動と、わずかながらでも天命と思える人生を貫き通してみたいと念じております。
 やなせたかしさんの存在そのものに深く感謝いたします。

                         2013・5・13の記

写真上・下:やなせたかしさんの著書


奥田のコラム(NO176) 沖縄県民にとっての4月28日 ( 2013/04/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日本政府筋の発表によれば、今から61年前の4月28日はサンフランシスコ講和条約で、日本が敗戦国から独立し、日本の主権が回復した歴史的な記念日とされていますが、その一方で、このサンフランシスコ講和条約こそは、沖縄が日本の領土から切り捨てられ、アメリカの占領下に置かれ、アメリカのなすがままにされる事となった、沖縄にとってはまさに「屈辱の日」となった日でもあるのです。

 沖縄の友人、知人から聞いた話によれば、太平洋戦争で犠牲となった沖縄県民の数は20万人余り、家族親戚はもとより、一家全滅の悲劇や集団自決を余儀なくされた人達も数えきれない程いたのだそうです。

 アメリカ占領下に置かれた沖縄は、何一つ抵抗できないままに土地を略奪され、家はブルドーザーで無残にも破壊され、日本における米国基地の75%にも及ぶ基地が沖縄につくられていく事になったのです。婦女暴行など悪夢のような事件は日常茶飯事の出来事であったと聞いております。

 そしてもう一つの政府発表によれば、1972年の沖縄返還協定発効は、沖縄が日本に返ってきた特別の日とされていますが、沖縄の現実はその返還協定の裏に隠されている「日米地位協定」の為に、沖縄県民は無念の涙を流し続けなければならない出来事の日々が今でもまだ続いているのです。
 沖縄ではアメリカ兵がどんな不条理な事件を起こしても、沖縄県民はその日米地位協定の為に、日本の法律では裁く事が出来ず泣き寝入りしなければならないのです。

 私は県外の出身で、今沖縄に住む者としてあまり強い意見を述べる立場にはない事を自覚しつつも、それでも40年間沖縄に住みついて感じる事は、日本の政治(家)は沖縄県民の本当の気持ちをどこまで真剣に考えて政治を進めてくれているのか、理解に苦しむことの方がはるかに多いのです。
 長い間続いた自民党政治から民主党に政権交代した時は、大いなる期待に沖縄中が心を弾ませたのですが、蓋を開けてみると、どの政党も沖縄の現実を変えてくれるものではありませんでした。
 
 いままた自民党に政権が戻り、アベノミクスなる政策が最優先となって進んでおりますが、沖縄に関しては更なる不安の種が、強引に進行している感がしております。
¨世界一危険¨と誰もが認める普天間飛行場を、今度はジュゴンの住む沖縄が世界に誇るべき辺野古の美しい海に強行移転させようとしております。そして沖縄県民が総力で反対しているオスプレイも、今は沖縄の上空を我が物顔で飛ぶようになりました。

 4・28の記念式典で述べた阿部晋三首相の言葉と伊吹文明衆議院議長の言葉は、沖縄県民の心に響くものではありませんでした。二人の言葉を下記に記して、これからまた日本の政治(家)の歩みをしっかりと辛抱強く見つめ続けなければならないと思うのです。 

                      2013.4.29日の記
阿部首相の言葉:
  残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が最も長く日本から離れたままだった。沖縄の戦中、戦後の苦労に、通り一遍の言葉は意味をなさない。
 若い世代に呼びかけつつ、沖縄が経てきた辛苦にただ深く思を寄せる努力をなすべきだと訴えようと思う。

伊吹衆議院議長の言葉:
 領土と主権が完全に日本に戻ったのは1972年の沖縄返還協定発効を待たねばならなかった。それ以降も安全保障上の負担の多くを沖縄が担っている現実を忘れてはならない。


写真上:琉球新報社4月28日の記事
写真中:琉球新報社4月28日の記事
写真下:沖縄タイムス社4月28日の記事


奥田のコラム(NO175) ベトナム・ホーチミン4泊5日の旅 ( 2013/03/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 3月22日から26日まで、家内と二人でベトナム・ホーチミンの旅をして来ました。ホーチチミンには10年程前に行った事があり、その時の印象がとても良かったので、今回は結婚40周年記念旅行と言う理由づけをしての再訪となった次第です。
私の年齢(間もなく77歳)になると、もうどんな小さな旅をしても¨一期一会の旅¨と言う思いがあるのです。今回のコラムには、この度の4泊5日の旅の思い出を綴っておこうと思います。

初日(3月22日):
 沖縄―成田間の飛行機は約3時間、成田―ホーチミンは約6時間でした。ホーチミン空港に着いたには夜の10:30分(日本とは2時間の時差があるので、日本時間では夜中の12:30分という事になります)。それからホテルに到着して、その日の眠りについたのは現地時間でも夜の12時を過ぎておりました。

2日目(3月23日):(その一)
 泊まったホテルは一昨年に出来たばかりの「ホテル日航サイゴン」で、23階建の超モダンなホテルでした。部屋はドアを開けたところから寝室まで大理石(?)の廊下となっていて、廊下の両サイドにある、お風呂、シャワー室、洗面所、トイレもすべて大理石風の石の床で出来ておりました。

 私達老夫婦にとっては、いかにこの部屋ですべって、ころんで怪我をしないでいられるかが最大の心配事でありました。そして、この部屋の一番の思い出は、クレオパトラかモンローが入ればよく似合うであろう大きなバスタブでありました。私はこのお風呂で溺れないかが心配で、落ち着いて疲れを取る余裕など、どこにもありませんでした。
家内はどんな思いでこのお風呂に入っていたのか、もしかして万分の一でもクレオパトラかモンローの気分に浸れたのであれば、今回の旅はもうそれだけで大成功だったのかも知れません。家内にはまだ聞いておりません。

2日目(その二)
 朝食は午前9時にレストランに行きました。2階のフロアー全部が巨大なレストランで、一体どこから何を食べれば良いのかさっぱり解らない程の料理が並んでいました。
私は少しずつ選んで取ったつもりですが、それでも大きなお皿2枚でも間に合わない量となり、かなりの料理を残してしまう反省の朝食となりました。

 私の隣に座ったイギリス人のカップルは、いろいろ食べた後、どうやら日本食に興味があったらしく、彼らのお皿には、少しずつながら、うどん、そば、すし、わさび、の他にも梅干し、らっきょう、漬物までものっておりました。それらを一つ一つ箸で食べようとするのだから、想像を絶する光景となったのです。私は出来るだけ見ないふりをしていたのですが、あまりのおかしさにとうとう声に出して笑ってしまったのです。さすがに彼等も大笑いとなり、双方の大笑いがご縁となって、私達はメール交換をしようと言う仲にまで発展したのでした。ご縁と言うものは不思議なもので、いつ、どこで、どんなご縁が生まれるか解らないものです。この出来事は今回の旅の大きな思い出の一つとなりました。

2日目(その三)
 朝食を終えて、11時出発のホテルシャトルバスに乗り、街の中心地まで行きました。
10年前の記憶をたどりながら、思い出の店や、思い出の人達を訪ねてみたのですが、10年の時の流れは、全ての記憶とは異なった風景に変貌していて、残念でした。
夜は沖縄の知人から紹介されたベトナム人の若夫婦がホテルに訪ねて下さり、一緒にベトナム料理のレストランに行きました。偶然にもそのレストランは、10年前に何度も足を運んだお気に入りの店で、私達はすっかり嬉しくなって、とても楽しい素晴らし一日を過ごす事が出来ました。

3日目(3月24日)
 朝食はこの日も9時でした。この日の朝食は昨日の朝食の反省に学び、少しずつの料理をお皿に取り、このスタイルで何回かおかわりをして、とても上手な朝食が取れたと思っています。
 この日も11時出発のホテルシャトルバスに乗り、ショッピング散策に出かけました。
ホーチミンはとにかくオートバイの数が、半端ではないのです。まるで洪水のようにどの道もオートバイであふれかえっているのです。ホーチミンの道路は信号も少なく、とにかく道路を渡るのが大変なのです。10年前の私はまだ若かったせいか、ホーチミンの道路を渡るのにそれ程の恐怖感はなかったのですが、今回はまさに命がけの横断でした。
 ホーチミンの巨大市場(ベンタイン)に働く人達は殆ど女性です。ベトナム女性のパワーの凄さは半端ではありませんでした。市場での買い物もまた私達には命がけでありました。
 そしてもう一つベトナムでの驚きは、どのオートバイも2〜3人乗りが普通で、親子4〜5人もそれ程珍しくはないのだそうです。日本であれば大問題、大パニックになるであろう筈なのに、ベトナムでは何の問題もなく、川の水が流れるが如くにスイスイと流れていくのですから、ベトナム人の運転は神業としか私には思われませんでした。

 4日目(3月25日)
 この日、ホテルを出発するのは夜の9時でしたので、殆ど丸一日自由時間です。
何時ものように朝食をとり、ホテルのバスで街に出て、この日は孫達と親しい人達へのお土産を買い求める為の一日でした。ベトナムは昔フランス領であったせいか、とてもいいセンスの手工芸品が盛んなところです。ただ値段は10年前の3〜5倍ぐらいになっている感じがして、ちょっと予想外でした。物価としては日本とあまり変わらないという感じもして、ショッピングは魅力を感じなくなって来ています。経済が急激に発展しているせいかも知れません。

 夕方5時30分には、ベトナム人の若夫婦が再度ホテルに訪ねて下さり、この日の夕食はベトナムの海鮮料理の店に案内されました。日本人は殆ど誰も行かない大衆レストランで、沢山の新鮮な海の幸をいただきましたが、食卓にのぼった魚も、貝類も、エビも蟹も、ほんの直前までとなりの¨いけす¨の中で泳いでいたものばかりです。私達が訪ねた事が、彼らの¨命¨をいただく事になり、深く手を合わせながらのホーチミン最後の夕食となりました。(合掌)

 夜の9時にホテルを出発してホーチミン空港に向かいました。ホーチミン空港は10年前とはまるで違った立派な国際空港に変身しておりました。日本国の援助もあったとの事です。
 3日間のホーチミン滞在を振り返ってみると、街の中は良くも悪くも昔の儘の姿がところどころ残っておりましたが、ビジネス街には超高層ビルがどんどん建設されていて、ベトナムにも急激な近代化の波が押し寄せている感を強くしました。
 この調子で、世界中があまりの経済最優先を突っ走った先には、どんな人類の未来が待ち受けているのであろうかと、ふとそんな心配が込み上げてきた旅でもありました。

 何はともあれ、無事に結婚40周年記念と名付けた4泊5日の旅を終える事が出来ました。「住めば都」と言う言葉がありますが、ご縁をいただいて40年も住みついているこの沖縄こそは、今の私達には、まさに最高の「都」である事を再認識させてもらえた意義深い旅でありました。天地に感謝です。
                 (2013・3・31日の記) 

追伸
ホーチミンのホテルで、落語の立川志の輔さんのホーチミン公演がある事を知りました。
日時は3月26日、場所は私が泊っているホテル日航サイゴンです。残念ながら私達はその一日前にこのホテルを出発しなければならなかったのです。志の輔さんにはその無念をメモに書いて渡してもらう事にしました。
 沖縄に帰った2日後、志の輔さんからわざわざ電話をいただき、4月21日には沖縄公演が決まっているので、沖縄で再会して、ホーチミンの無念を晴らしましょうとの事でした。志の輔さん有難う!!。

写真上:ホーチミンでお世話になったホーさん・チャーさん    ご夫婦と
写真中:イギリス人のドミニクさんご夫婦と
写真下:志の輔ホーチミン公演のポスター


奥田のコラム(NO174) 『気無声呼人』(気は声無くして人を呼ぶ) ( 2013/03/06 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 上記の言葉は、私の65歳からの人生を決定づけて下さった太極拳の恩師、故楊名時先生からいただいた色紙に書かれている言葉です。
 私は65歳の時、楊名時先生との出会いをいただきました。出会いをさせて下さったのは、もう一人の恩師である帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)です。

 そうなったいきさつの不思議を、何とか自分の記録に残しておきたいと思うようになり、スタートさせたのが今こうして書き続けている私のコラム(いい日、いい人、いい出会い)でもあるのです。楊名時先生と帯津良一先生との出会いのいきさつについては、コラムのNO1〜NO7に詳しく綴っております。

 私が初めて楊名時先生の太極拳を目にしたのは、2003年11月3日、楊先生が帯津先生とご一緒に初めてご来沖された時の事です。その場所は東南植物楽園でした。当時の楊名時先生は80歳を幾分越えておられたと思いますが、演じられた太極拳の素晴らしさに魅了され、私はその瞬間から、私の残された人生の全てを楊名時太極拳にかけてみようと思うようになったのです。

 今でもまだ不思議でなりませんが、私が楊名時先生からいただいた楊名時太極拳のビデオに立ち向かい、稽古に夢中になっていると、それを見ていたかのように、きまって楊名時先生から電話がかかってくるのです。
 余りの不思議さにその事を申し上げると、「気と言うものは思い合っている人同志の心を結びつけるものですよ」とお返事され、数日後に送って下さったのが『気は声無くして人を呼ぶ』と書かれた色紙でした。

     〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 その事があってから、やがて10年の時が過ぎているのですが、つい数日前、またしてもそれに近い出来事に遭遇する事となったのです。
 私は以前から或る人の事を思い続けていて、とうとうその思いを綴った手紙を書いたのです。私が思い続けていたその人は、どうやら私よりも10歳ぐらい年下らしいのですが、楊名時太極拳の大先輩で、それはそれは素晴らしい方なのです。その方のお名前は、楊名時太極拳仲間であれば誰もが知る仙台の佐藤如風さんです。

 私はその佐藤さんに書いた手紙を出すべく家を出て、ふとポストを覗いてみると、何とその中に佐藤さんからのお手紙が入っているではありませんか。私はびっくりして早々に手紙の封を開けてみると、何とまあその手紙には、私と同じ思いを綴った文面が書かれていたのです。私は急遽家に引き返し、この不思議を別紙に書き添え、改めて近くの郵便局に向かったのでした。

 この日のポストの中には仙台の佐藤さんからのお手紙のほかに、まだ2つの不思議も入っていたのです。
 その一つは、敬愛してやまない帯津良一先生からの最新書「かかり続けてはいけない病院、助けてくれる病院」(講談社)と、もう一つは帯津先生が塾頭をつとめる、21世紀養生塾大分支部の平野耕吉さんからのお手紙です。

 仙台の佐藤さんは、もう半世紀近くも楊名時先生に心酔して人生を過ごされた方です。
 帯津先生は楊名時先生の主治医として楊先生の最期を看取られたお医者さんでもあり、楊名時先生の事を¨この世で最も楽しいお酒の友¨と公言しておられます。
 大分の平野さんは、私がいつもお会いしたいと思っている養生塾の同志です。

 私も楊名時先生との出会いがなければ、今頃はただ老いていくのみの日々を過ごしていたに違いありません。楊名時先生との出会いこそは、私を凛として¨100歳人生¨を目指す今の私に変身させて下さった大恩人なのです。

 楊名時先生は7年前に天空に旅立たれましたが、この度の¨ポスト物語¨は、もしかして楊名時先生による天空からの演出だったのかも知れません。『気は声無くして人を呼ぶ』。何とも不思議な言葉ですが、今の私にはなくてはならない大切な楊名時先生からの宝物なのです。

                    (2013・3・6日の記)
写真上:楊名時先生の色紙「気無声呼人」
写真下:帯津先生の最新書「かかり続けてはいけない病院」
写真下:佐藤如風さん著「風の便り」第3巻

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