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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO148) 第18回・帯津良一先生を囲む健康講演会(その一) ( 2012/07/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 帯津良一先生を塾頭とする「21世紀養生塾沖縄」、第18回大会が7月の始めに開催されました。いつもなら250人前後のお客様を前にしての講演会ですが、今回は人数を40人程度に絞り、帯津先生を囲むディスカッション的な場にしてみたところ、出席者からとても素晴らしい会だったと喜んでいただきました。
 第2部のディスカッションの内容については、なにかの機会に紹介させていただく事にして、今日のコラムには、帯津先生の第1部でのお話の要点を記させていただこうと思います。私の能力不足で実際の半分位しかお伝え出来ませんことをお詫びいたします。

       帯津先生のお話(題名のない講演会)

(1)毎年2月になると、青森で¨森のいすきや¨という癒しの宿を経営しておられる佐藤初音さんと言う方にお会いする事が恒例になっております。この佐藤さんは何年か前に、ガイヤシンフォニー(地球交響曲)と言う映画の中で、¨美味しいおにぎりで人を元気にしてくれるお母さん¨として紹介され、いちやく全国にその名前が拡がった方です。
 私の病院(帯津三敬病院)でも、佐藤さんのおにぎりを皆に食べてもらったのですが、私はおにぎりよりも、この佐藤さんの顔(人相)の素晴らしさに惹かれてしまうのです。そして、今年91歳というのに姿勢が良く、音もなくスイスイと歩く姿にも魅せられてしまいます。佐藤初音さんの印象を一言で表現するとしたら、『凛として老いる人』と言う言葉が一番良く似合うような気がします。
私と佐藤さんとは15歳の年齢差があるのですが、私も佐藤さんを見習って凛として老いる事にしようと思うようになりました。

(2)実は、私は毎日を¨今日が最後の日¨だと思って生きております。何故なら私の病院(帯津三敬病院)には、いつ人生の最後が訪れるかも知れない患者さんも少なくはないのです。医療に携わっている私としては、それらの患者さんと同じ目線に立ち、それらの患者さんよりも一歩死に近いところに自分の身を置く事が、一番その方々の理解者になれると考えるからです。その為に私は毎日を今日が最後の日と覚悟を決めて生きる事にしているのです。

(3)今日が最後と思って一日を送れば、その日その日の出来事に全力投球が出来るのです。そして一日の仕事を無事に終え、毎晩6:30からと決めている夕食が,どれ程嬉しく、有難く、美味しいものになるかは言葉になりません。 私は夕食にお酒を欠かすことは絶対にありません。お酒は少し飲める方が体に良いというのが定説のようです。具体的には一日一合ですが、私の理想は一日二合です。
 先日、ある週刊誌に「一週間に14合のお酒が最適量である」との一週間説を唱える方がおられる事を知り、こんな嬉しい事はありませんでした。

(4)今日を最後の日と思っておられる人は、野球の王貞治さんと、アップル社を創立され、先日50歳代の若さで亡くなられたあのジョブズさんもそのお一人でした。
お二人とも世界の頂点を極めた方ですが、このお二人に共通すると思える点は次の3点に要約されるかも知れません。
@ 後悔しない人生を生きる。A自分の直感、ひらめきに生きる。B溢れるばかりのときめき人生を生きる。

 私達も同じ人間に生まれて生きているのです。大小の差はあっても、それなりのときめきを感じて生きられる人生でありたいものです。

(5)先日、読売新聞社の渡辺会長と対談する機会がありました。丁度運悪く、巨人軍が連敗を重ねている時で、頭を抱えながら対談に臨んだのでしたが、印象と実際とはかなりかけ離れていて、びっくりしたのは、インタビューをする立場にある私に、細やかな心遣いをして下さるのです。今年86歳で、腰は幾分前かがみでしたが、この人の持つ気迫は凄いのです。以下は渡辺会長の印象です。
@ お酒は一日に3合との事で、これでいっぺんに気心が合いました。
A タバコはパイプを口から離している事の方が少ないので、余程のヘビースモーカーに違いありません。
B 死ぬまで仕事は止めないという気迫に満ち満ちておりました。
C 会長室には2本の刀と1本の木刀が置かれていて、ちょっと異様な雰囲気もありましたが、これは時々不意に暴漢が入ってくる事があって、その為のものだそうです。いざとなったら、これでぶった切るというのですから、この人の胆力にはすざましいものがあります。
D 一番感銘を受けたのは、軽い認知症にかかっておられる奥様を深く愛しておられ、とても大事にされておられるのだそうです。

*この後は次回のコラムに続けます。 
           (2012年7月12日の記)
写真上:中:下
共に第18回帯津良一先生健康講演会風景


奥田のコラム(NO147) コラム再開の記 ( 2012/06/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 コラムを一か月休んでおりました。理由は、私の書いた文章をパソコンに書き写し、インターネットに発信してくれていた家内が、アメリカ孫二人目の誕生で家を留守にしていたからです。
先日無事に帰ってくれましたので、また再開する事にいたします。

 さてコラムを休んでいたこの一か月(6月)、私の身の回りに起きた主な出来事は次の様な事でした。殆どプライベートな事ばかりで恐縮ですが、2012年6月の思い出の記として、コラムに残しておこうと思うのです。

(1)アメリカ在住の末息子に、第2児が誕生して、孫の数は5人になりました。
 私は結婚が遅かったので、5人の孫達はまだみんな小さいのです。
長男孫:拓夢(たくむ9歳)、沖縄県石垣市在住。二男孫:尊(たける8歳)、悠人(はると3歳)、新潟県三条市在住。三男孫:ANIKA(亜日香4歳)、MARIKA(真理香2か月)、アメリカインディアナ州在住。とにかく孫の成長が楽しみです。

(2)今から18年前、15歳でアメリカにゴルフ留学をした末息子が、この度念願の
PGA(Professional Golf Association)のManagement Programの資格を取得して、大きく羽ばたいてくれる事になりました。彼の目標は、ゴルフ全般の指導と経営に携わる事のようです。
 15歳でアメリカに旅立たせた親としては、大きな心配の種でしたが、彼はしっかりとアメリカの大地に根を下ろし、我が道を切り拓いてくれていて、本当に嬉しく、有難く、安堵の胸を撫で下ろしているところです。

(3)昨年の暮れ、思いがけないご縁で、日本・カナダ共同制作映画「カラカラ」に気功の先生役で出演させていただ
き、その映画が完成し、近々関係者を招いての試写会があるとの知らせを受けました。
 この映画の事は、全てが夢の中の出来事のような気がしているのですが、75歳(後期高齢者)の思い出としては、忘れられない出来事として試写会の日が楽しみです。
(映画「カラカラ」については、コラムのNO131、132に記載しております)

(4)これもまた、まさかのハプニングですが、65歳にして私の人生を根底から変えて下さる事になった太極拳の大恩
師、故楊名時先生を師家と仰ぐ「日本健康太極拳協会」の本部から、¨沖縄との交流会を持ちたい・・・¨との要請を受ける事となりました。本年12月17日に、理事長をはじめ全国の支部から100名の方々が来沖を希望されておられるとの事です。
 日本健康太極拳協会は日本を代表する太極拳の大組織です。まだまだ歴史が浅く、それに、あまり型にこだわらない沖縄流太極拳を目指している沖縄サイドとしては、どの様な対応でお客様をお迎えすれば良いものかと頭を悩ませているところです。この件についてはもう少し、しっかりと考えてからご返事をさせていただこうと思っているところです。

(5)私は6月26日で76歳になりました。75歳になった時に授かった¨後期高齢者¨というレッテルの印象が余程のインパクトだったせいか(?)、私は急に忘れ物がひどくなり、“ヨイショ¨と言う言葉が溢れるように口から出ている自分に気付くのです。それでもまだ、日課としている週2回のウオーキング(5キロ)と、週2回の水泳(1500メートル)と、それに8か所の気功太極拳教室には嬉々として足を運び、大勢の生徒さんたちと楽しい時間を過ごさせていただいております。
 私の目指す目標人生は、¨今日よりも一歩前進、良い明日¨と、¨元気な100歳人生¨ですから、70歳代でヨイショ、ヨイショではどうにもなりません。
 忘れてよいものはどんどん忘れて、捨ててよいものもどんどん捨てて、“ヨイショ¨の言葉だけは、とりあえず半分ぐらいに減らしたいと自分に言い聞かせている76歳になったばかりの私です。
                      (2012・6・30日の記)

写真上:アメリカ孫と一緒に
写真中:PGAの証書
写真下:「カラカラ」のポスター(英語版)


奥田のコラム(NO146) 金環日食と東京スカイツリーと旭天鵬 ( 2012/05/27 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

1) 2012年5月21日は、日本中が金環日食の天体ショーに湧いた一日でした。
金環日食を見る為に、或る人達は船に乗り込み,或る人達は富士山頂に登り、或る人達は車や飛行機でベストの観察地点を求めて大移動していたようです。
しかし、それらの全ての人達が観察に成功したかと言えばそうでもなく、富士山頂は全滅だったのだそうですから、人生に運・不運はつきものなのかも知れません。どうか夢をあきらめないで、次なる夢にかけて欲しいものです。

 そんな現実の厳しさをテレビで見ているうちに、私は25年前の出来事を思い浮かべておりました。その当時、私は沖縄・首里城に近い家に住んでいて、その家には広い庭がありました。
 或る日、数名の撮影隊が我が家を訪れ、「お宅の庭から見る金環日食が最高と思われるので、庭から撮影させてもらえませんか」と言うのです。「あ、そうですか、どうぞどうぞ」と答えて、ついつい私もその撮影隊の中に入って空を見上げてみると、(好運とはこんな事を言うのかも知れません)完全無欠ともいえる見事な金環日食に出会える事が出来たのです。

 今から思えば当時の私は50歳。天体の事などまるで眼中になく、仕事だけが人生の全てでした。25年の歳月が流れ、今は小さなベランダのある2LDKのマンションに家内と二人で住んでいるのですが、何故か心は、はるかな宇宙の彼方に飛んでいる事が多く、宙(そら)から、自分と自分の住んでいる地球の事を思ったりする事が多いのです。

 私が尊敬して止まない、¨地球のお医者さん¨というニックネームがついている微生物学者で、僧侶でもあられる平井孝志先生は、今から十数年も前に、次のような言葉で私達人間に警告を発して下さっておられるのです。
「現代社会は、エネルギー消費を増大させる事に躍起となっている。現代文明の実態は金銭と権力を求めて止まない心を映す鏡ではないでしょうか」。
まるで福島原発に代表される現社会の実態を、ものの見事に見透かしていたに違いありません。

 人間は宇宙の真理に背を向けて、欲の皮にへばりついた生き方をしていれば、いつか本当に人類滅亡の日がやってるのかも知れません。2012年5月21日の天体ショーは、私にそんな学びをさせてくれた意味深い反省の日となりました。

2)天体ショーの翌日は、東京スカイツリーがオープンして、マスコミは今度は、スカイツリー 一色の日に変身しておりました。634m、世界一のスカイツリーを完成させた日本人の頭脳と技術力に、私は神業を見たような気がしていたのですが、家内は「あんな高い所には絶対行かない!!」と一刀両断に切り捨てるのです。私はあのタワーをつくった人達のご苦労に敬意を表して、一度ぐらいは昇ってみないと申し訳ない気がしているのです。

 ある新聞評にによれば、東京スカイツリーには大きく二つに分かれる評価があって、一つは¨東京スカイツリーこそは、震災復興のシンボルとして、新しい日本の夜明けにふさわしいもの¨。そしてもう一つは、¨東京スカイツリーは、人類の幸せのために造られたものではなく、現代文明の象徴に見せかけた錬金術の最たるもの¨と、真っ二つに分かれているのだそうです。どうやら私はスカイツリーを見る度に、、暫くは迷い続けるに違いありません。

3) 日時は少しさかのぼりますが、今年の大相撲5月場所は、旭天鵬が涙にむせぶ優勝をはたした、特別に印象深い場所となりました。
私も泣きました。観客席も沢山の人が涙をふいておりました。旭天鵬を迎えた部屋   の力士達は、全員が男泣きでした。永い間、相撲を見ていて、こんな体験は初めての事です。モンゴルから日本に来て、苦節20年の涙は本当に心にしみる、美しい感動の涙でした。旭天鵬、本当におめでとう!!。そして有難う!!。

¨人間は一生懸命に生きていれば、必ずそれにふさわしい人生に出会える¨、という誰かの言葉を思い出しながら、あらためて¨一生懸命の人生¨を自分にいい聞かせている昨今の私です。               (2012年5月26日の記)

*私のコラムをパソコンに収め、インターネットで発信してくれている家内が、アメリカ孫の誕生で、約一か月家を空けねばなりません。すみませんがそんな訳で、6月は私のコラムはお休みとさせていただきます。(奥田 清志)

写真上:沖縄で観測された部分日食
写真中:愛知県沖の船上で観測された 金環日食
写真下:東京スカイツリーの夜景


奥田のコラム(NO145) 巨大なパパイヤと出会いました。 ( 2012/05/17 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 一週間程前の出来事ですが、何気なく立ち寄ったJAのスーパーで、とてつもなく巨大なパパイヤに出会いました。私の沖縄在住40年の人生で出会った、最大のパパイヤである事に間違いありません。まさかの驚きと大きな喜びが、今もずっと私の心の中に続いておりますので、思い出のコラムの中に書き残しておこうと思います。

 私達夫婦は、数年前からパパイヤに特別の思いを抱く様になっているのです。そのきっかけとなったのは、昨年まで住んでいた借家の小さな庭に、突然パパイヤの苗が芽を出し、みるみるうちに成長し、たくさんの実をつけてくれ、以来数年間にわたって大きな喜びと感動を与え続けてくれていたのでした。
 それが突然の都市計画で住まいの移転を余儀なくされることになり、そのパパイヤの木とは、心に深く残るお別れをしなければなりませんでした。そのパパイヤが私達の食卓の喜びと、健康人生に大いなる貢献をしてくれていたご恩を忘れることが出来ません。(コラムNO93に記載)

 私達の住む沖縄では、パパイヤはいつでも気軽に手に入る果物という印象があるのですが、何故か今年はパパイヤの姿を目にする事が少なく、たまに出会ってもまさかの高値がついていて、とても買う気にはなれなかったのです。それが突然のビッグパパイヤとの出会いですから、私はもう飛び上がる程の嬉しさで、思わずそのパパイヤを胸に抱きしめていたのでした。
 価格は例年の)倍ぐらいの\1500がついておりましたが、こんなにも見事なパパイヤを育ててくれた農家の方に敬意を表して買い求めました。家に持ち帰り重さを計ってみると、何と3,5キロもありました。

 早速パパイヤを半分に割ってみると、中には無数の黒い種がぎっしりと詰まっておりました。種がいっぱい詰まっていると言う事は、このパパイヤが果物として品種改良されたものではなく、天然種として成長したものと言う事でしょう。天然種のパパイヤは、果物パパイヤとは比べ物にならない位の栄養値があると聞いております。味も自然の甘みがあり、もう最高!!、という表現以外に私には言葉が見つかりません。

 我が家では、パパイヤをジャムにして、ヨーグルトやパンと一緒に食することをメインにしているのですが、今回のビッグパパイヤは余りの大きさに、半分を果物としていただき、残る半分は家内がジャムにして冷凍庫に保存してくれるとの事ですから、おそらく2〜3か月は、このパパイヤジャムが我が家の朝食に、いっぱいの喜びと元気を与えてくれるに違いありません。
 パパイヤをこんなに身近に感じて暮らせるだけでも、私は沖縄に住んでいられる喜びに、大きな幸せと感謝を覚えずにはいられません。
 パパイヤさん本当に有難う!!。感謝です!!。感動です!!。
                  (2012・5・17日の記)

写真上:以前、我が家の庭に育っていたパパいやの大木
写真中:偶然出会った巨大パパイヤ(3.5キロ)
写真下:巨大パパイヤの中味


奥田のコラム(NO144) 田中一村絵画展に感動!! ( 2012/05/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 沖縄の本土復帰40周年記念事業として開催された「田中一村絵画展」に感銘を受けました。
新聞報道によれば、一万人を超える人達がこの会場に足を運ばれたとの事ですが、私も田中一村の絵には前々から特別の思い入れがあり、この度の絵画展を通して知り得た事は、彼の絵が筆舌に尽くし難い苦悩と、困難と貧困の中で、しかし、如何なる難関にもひるむ事無く、彼のひたむきな、¨画家としての魂の結集¨として生まれてきた事を知るにつけ、深い感動が込み上げて来るばかりでした。

 私は、田中一村は生まれながらにして奄美大島の画家だとばかり思っていたのですが、実の出生地は栃木県で,6人兄弟の長兄として生まれています。彫刻家であった父親の影響を受けての事か、幼少期から神童と言われる程の画才を発揮し、幼くして天皇賞(現在の文部大臣賞)も受賞しております。
 しかしながら、大人になるにつれ日本画壇の流れにはついて行けず、50歳にして単身奄美大島に渡り、以来69歳の人生を閉じるまでこの地で無名の人生を送りながらも、奄美大島の自然の神秘を、あますところなく描きつくす事に生涯を捧げたのでした。

 田中一村の絵に感銘を受けた人は多いのでしょうが、中でも奄美や沖縄諸島の琉球弧に住む人達の目には、息を呑むほどの迫力と親近感を感じさせてくれるに違いありません。沖縄に40年も住みついている私もまさにその中の一人です。

 さて、田中一村の数々の絵が並ぶ中に、ただ一点の¨書¨が飾られていて、私はその¨書¨の前に立ち止り、ある種の感慨にふけっておりました。
その書は彼が20歳の頃に書いたものだそうですが,書の中味は『道法自然』という文字でした。道法自然とは、老子の「人法天、天法地。地法道、道法自然」(人は天にのっとり、天は地にのっとり。地は道にのっとり、道は自然にのっとる)という言葉の最後の四字のようです。

 田中一村が20歳でこの言葉を知っていたとしたら、彼は若くして中国の学問にも精通していたと言う事になり、余程の勉強家であったに違いないと、私は深く感心させられたのです。彼が奄美大島の自然を描く事に精魂を傾けた原点がこの¨書¨の中にあったのではないかと、私は自分なりに大いなる納得をした次第です。

 田中一村絵画展会場の最後の所に書かれていた、「田中一村書簡集」の中にも心に触れるものがありましたので、その中の一部を要約して、ここに書き添えておこうと思います。(以下の文章は田中一村の言葉です)

@ 私が今この島(奄美大島)に来ているのは歓喜の声に送られて来ているのではなく、私の絵描きとしての生涯を飾る絵を描くために来ている事がはっきりしてきました。(51歳の言葉)

A 私は今、実に楽しく絵を描いています。絵が楽しくなくなると、私の言動は狂人に近くなり、私のこの致し方のない性格をよく知って、共に苦しみ、協力してくれたのは姉一人です。(51歳の言葉)

B 私は奄美大島の紬絹染色工場で、工場一の働き者と言われる程、一生懸命に働き、5年間で60万円の貯金をしました。そして3年間にその90%のお金を注ぎ込んで、私の人生の最後の絵を描きつつあるのです。何の念も残すところがないまでに描くつもりです。(64歳の言葉)

C 私の絵は人に見せる為に描いているのではなく、私の良心を納得させんが為のものです。私は絵と対峙しているときは、勇気がコンコンと泉のように湧き,正気が身体中に溢れるのを覚えます。絵を離れるや、深い溜息と身震いと、何者かに胸部を抱きすくめられた様な胸苦しさに、はなはだしい不整脈となり不安妄想の虜になるのです。(61歳の言葉)

D 絵かきは、我儘勝手に描くところに絵かきの値打ちがあるので、もしお客様の鼻息をうかがって描くようになった時は、それは生活の奴隷に転落したのと同じです。(69歳の言葉)

   〈田中一村絵画展から学んだ事〉

*田中一村は琉球弧の自然の美しさを余すところなく描きつくす為に、この世に生まれてきた、たぐいまれなる人物。そして、琉球弧の自然がいかに素晴らしい地球の宝であるかを、世の人々に改めて知らせてくれた琉球弧の大恩人!!。

* 本物の人生を生きると言う事は、どれだけその人に与えられた生命のエネルギーを溢れさせて生きるかと言う事であり、他者の目を気にしたり、地位や名誉に執着する人生を生きるべきではない!!。

* ¨真の芸術は必ずよみがえる¨のことわざがある様に、田中一村の芸術は、いま奄美大島の美術館で、多くの人々に感動を与え続けています。彼は無名のままで69歳の人生を閉じたけれど、彼の魂は、奄美の地で永遠に生き続けているに違いない。人は魂が喜ぶ人生を生きたいものだ!!。
                   (2012年5月10日の記)
写真上:田中一村展のパンフレット
写真中:田中一村の書
写真下:田中一村の人気の絵

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