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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO122) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記・余話 ( 2011/08/31 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 コラム(NO119、120,121)と3回にわたって、私のマラソン人生の思い出を語り終えたつもりでしたが、その直後の8月26日に、我が家のポストには思いがけない一枚の葉書きが届いておりました。その葉書きの送り主は、今や日本落語協会の会長という頂点に昇りつめておられる、あの柳家小三治さんからのものでした。

 私の25年間にわたるマラソン人生の中でも、柳家小三治さんとの思い出はどうしても忘れられない、忘れてはならないW最大の恩人Wという思いが私の心の中にあるのです。
柳家小三治さんの事は以前、どこかのコラムにもちょっと書かせていただいた記憶があるのですが、今回あらためて小三治さんとの思い出に記憶を甦らせながら、感謝の気持ちに変えさせていただこうと思うのです。

 柳家小三治さんとの出会いは今から25年以上も前になるかも知れません。当時、沖縄国際通りの地下に「沖縄ジャンジャン」という小劇場があって、この小劇場の最大の支援者は永六輔さんでした。
永六輔さんは毎月のように、この沖縄ジャンジャンに当時の新進気鋭、あるいは大ベテランの芸能文化人を連れてこられ、沖縄に日本の芸能文化を紹介されておりました。落語界の奇才、柳家小三治さんもその中のお一人でした。
 私はたまたま、そのちょっと前から永六輔さんとの思いがけないご縁をいただいていて、柳家小三治さんもその時に紹介していただき、以来今日までの長きご縁に至っているのです。

 私が柳家小三治さんと25年あまりものご縁が続いている主な理由は、私が小三治師匠の落語ファンと言うことにもまして、私のよちよちマラソンを、小三治さんが影ながら、ずっと応援し続けてくださっていたという理由の方が、大きな比重を占めていたのかも知れません。
 私が各地のマラソンを完走する度に、身にあまる言葉で私を褒め称えてくれる葉書きを送ってくださるのです。初めて完走したナハマラソンの時、初めての海外マラソン(ロンドンマラソン)の時、1万キロ完走とベストタイムで走れたベルリンマラソンの時等々、本当に身に沁みるような有り難い、嬉しい言葉で私を励まし続けてくれたのですから、私のマラソン人生と、その延長線でやっと辿り着いた地球一周40,000キロのゴールインも、半分ぐらいは柳家小三治さんのお陰のような気がしているのです。

 今回のコラムは、柳家小三治さんからその時々にいただいた葉書きの中から三つを紹介させていただき、感謝の気持ちとさせていただきます。小三治さんからいただいた葉書きの一枚一枚、全てが私のマラソン人生の宝物と思えているのです。本当に、本当に、有難うございます。感謝です!!!。                  (2011.8.31日の記)

写真上:初めてナハマラソンを完走した時の葉書き(1988年)
写真中:ベルリンマラソン完走の時の葉書き(1991年)
写真下:地球一周40,000キロゴールインの時の葉書き
    (2011年8月26日)
                            



奥田のコラム(NO121) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記(その三) ( 2011/08/21 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラム(NO120)に書きましたように、私のマラソン人生は、1996年がピークでした。マラソンを開始した1998年(52歳)から8年間の間に20,000キロもの距離を走っていたのですから、我ながら良く頑張ったものだと感心するのです。その後は次第に走り歩きに変わっていかざるを得ない体力となり、後半の20,000キロに要した時間は15年もかかってしまったのですから、体力の配分に気付かなかった自分の未熟さにいささか悔しさが残ります。
 何はともあれ、アトランタオリンピックの聖火ランナー応募で誓った地球一周40,000キロにはかろうじて到着し、約束を守れたのですから神様はきっと大目に見て、認証してくださっているに違いありません。人生の一つの区切りが出来て、今は何かしらホットするものがあるのです。

 さて、自分の体験からですが、人間何かの極致に達した時には、どうやら歌がうまれるものかも知れません。1996年の3っの大事を体験した私にも、それぞれの時に、それぞれの歌が誕生していたのです。
一つめの歌はさくらの咲く頃に、二つ目の歌はボストンマラソンのある4月の頃に、そして三つ目の歌は4年に1度巡ってくるオリンピックの時に、それらの歌が甦ってきて心の中で口ずさむ私がいるのですから、どうやらこの現象は一生ものかも知れません。
今回はその3っの歌の歌詞を記して、「地球一周40,000キロ、ゴールインの記」のコラムを終わりにしたいと思います。
              (2011.8.20の記)

 その一 : 日本列島さくら駅伝3000キロ

1)野を越えて山を越え 町を駆け村越えて
  走り続けた夢の道  走り続けた友情(とも)の道
  ああ・・・日本列島3000キロ
  ああ・・・日本列島さくら駅伝は
  夢と 希望と 友情(とも)の道
2)雨の日も風の日も 雪の日もひたすらに
  走り続けた祈り道 走り続けた感謝道
  ああ・・・日本列島3000キロ
  ああ・・・日本列島さくら駅伝は
  汗と 祈りと 感謝道 

   ああ・・・日本列島さくら駅伝に
   さくら吹雪の花が舞い 舞い散る花は雪桜

 その二 : ボストンマラソン

1)ホプキントンの丘に立ち めざすはボストンあの丘だ
  心臓破りの丘の上  息子が私を待っている
  妻と2人で待っている
2)心臓破りの丘までは 35キロのはるか道
  息子と交わした約束の 時間は3時30分
  時間に遅れてなるものか
3)約束時間が過ぎたなら  息子はその場を去るのです
  バーミン行きの飛行機に 乗らねば明日の学校に
  間に合う事ができません
4)歯をくいしばりくいしばり 必死で走ったボストンの
  心臓破りの丘の道    やっとの思いで辿り着く
  ついた時間は3時半
5)ああ嬉しやと立ち止まり 息子の姿を探します
  いくらさがせど見えません 息子の姿が見えません
  妻の姿がただ一人
6)聞けば息子は5分前 心を残して去りました
  あまりの人の混雑に 大事をとって去りました。
  涙を呑んで去りました
7)思わずその場にうづくまり もう立つことも出来ません
  妻が私に言う事に   息子の心はボストンの
  ゴールで私を待つのです
8)妻の言葉に励まされ 気を取り直して立ち上がる
  足を引きずり顔ゆがめ 走り歩きの我慢道
  息子の姿が 目に浮かぶ
9)足が折れても行くのです 心臓止まろが行くのです
  目指すはボストンあのゴール 夢にまで見たあのゴール
  何が何でも行くのです
10)はるか彼方に見えてきた 遂にゴールが見えてきた
  ボストンゴールが見えてきた 夢のゴールはもうすぐだ
  夢のゴールは目の前だ
11)遂にやったぜゴールイン ボストンマラソンゴールイン
  憧れ続けたボストンの   マラソン遂にゴールイン
  生涯一度のゴールイン
12)ゴールのはるかその先に   私を待ってる人がいる
  妻と息子の面影が      笑顔で私を待っていた
  にっこり笑って立っていた
13)ああボストンよ有難う   ああマラソンよ有難う
  妻よ息子よ有難う     生まれて生きて60年
  生まれて生きて60年


その三 : アトランタオリンピックW聖火の道W

1)聖火の道は赤く燃え 心震えた神の道
  聖火の道は優しくて 涙溢れた愛の道
  アトランタ アトランタ アトランタ
  心震えた神の道   涙溢れた愛の道

2)聖火の道は輝いて  夢と希望に光る道
  聖火の道は平和へと 世界を一つに結ぶ道
  アトランタ アトランタ アトランタ
  夢と希望に光る道  世界を一つに結ぶ道

写真上:さくら駅伝の応援に駆けつけてくれた長男と次男
写真中:ボストンマラソンの応援に来てくれた末息子
写真下:聖火ランナーの応援に来てくれた家内と妹


奥田のコラム(NO120) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記〔その二) ( 2011/08/15 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラム(NO119)に書きましたように、私のマラソン人生は、第1回ナハマラソンの失敗で完全に息絶えていた筈なのに、それから3年後、何故かマラソンの神様は私をロンドンという夢の舞台に導いて下さったのでした。ロンドンマラソンは私の心に火をつけ、その後の私の10年間は、朝に昼に夜に、見るもの聞くもの全てがマラソンの日々の中にあったような気がしております。
 ロンドンマラソンをきっかけに、私のマラソン人生はナハマラソン11回完走と、メルボルン、ベルリン、ボストンマラソン等々へと繋がっていくのですが、何といっても私のマラソン人生の華は1996年の3っつの出来事に象徴されるように思えます。今回のコラムはその3っつの華に焦点を絞って、想い出にふけってみたいのです。

(T)日本列島さくら駅伝3000キロ(1996年3月〜5月)
 1996年、桜の開花に沿って、沖縄最南端の波照間島から、北海道最北端の宗谷岬までをタスキをかけたリレーで走破しようという計画が持ち上がり、実行に移されたのです。この計画の仕掛け人は、私にロンドンマラソンを迫ったあの比嘉良雄さん、そしてこの計画に真っ先に両手を挙げて賛同したのは私でした。行程の内容はマイクロバスに常時7〜8名のランナーが乗り込み、一日100キロ前後を交代でタスキを繋ぎながら走るという主旨です。
 3ヶ月あまりをかけて何とか無事に宗谷岬にゴールインしたのですが、この間、雨の日、風の日、吹雪の日に見舞われながらの行程は、筆舌に尽くせないものがありました。今から思えばよくぞまああんな無謀な事を・・・と思うのですが、何も知らない状況の下、唯ただ、若さと夢と実行力だけで
やり遂げた日本縦断マラソンのような気がしております。

(U)ボストンマラソン第100回記念大会(1996年4月15日)
 ボストンマラソンは3時間半以内で完走しなければならないマラソンのプロ集団のような人達が走る最高峰のマラソンです。1996年のボストンマラソンは第100回記念大会ということで、5時間以内という条件で、沖縄からも「地球を走る会」のメンバー15名程が参加を認められ、好運にも私もその中の一人に加わる事が出来たのです。
 この大会に私は特別な喜びと残念さがあるのです。
この時期アメリカに留学していた末息子(当時18歳)が、留学先のアラバマ州バーミンガムからボストンまで応援に駆けつけてくれたのでした。学校の関係で土、日しか休みがとれず、マラソン当日の日曜は帰りの飛行機の出発時間から逆算して、マラソンの35キロ地点で時間を約束したのですが、私はどんなに歯を食いしばり頑張ってもその時間に間に合わなくて、ほんの少し遅れをとってしまったのです。その時すでにその場所に息子の姿はなく、私はその場にしゃがみこんでしまいました。
 殆ど走る気力はなくなっていたのですが、ここであきらめては息子に申し訳ないと思い立ち、再び気力を振り絞って残りを走りぬきました。完走タイム、4時間32分50秒でした。本当に懐かしい忘れがたいボストンマラソンです。

(V)アトランタオリンピック聖火ランナー(1996年5月3日)
 1996年はアトランタオリンピックの年でした。(オリンピック100回大会)
この頃の私は毎日が走り漬けの日々でした。そんな或る日、アトランタオリンピック聖火ランナーの募集を知らされ、その募集に応募するように強く薦められました。
薦めてくれたのは日頃の私の姿を見ていた妹でした。
応募の条件は400字の原稿用紙に「オリンピックの夢」というタイトルの文章を書いて出す事でした。私はただ頭に浮かぶままを書いて締め切りの2日前に投函した覚えがあります。
何日か経ってすっかり忘れていた頃の或る日、いきなりWおめでとうございます!!。選考委員会で今あなたが聖火ランナーの一番に選ばれましたWと言う電話があったのです。私は目の前が真っ白くなり、暫らくは夢遊病者の如く部屋の中をさまよっていたようです。

 アトランタオリンピックのスポンサーはアトランタに本社のあるコカ・コーラさんでした。
アトランタオリンピックは100回記念大会という事で、コカ・コーラさんは世界中から10,000人の聖火ランナーを募集し、日本からは26名がその対象にあったと聞きます。日本での応募者数は24,000人だったそうですから、私はおよそ1000分の1の宝くじを引き当てた事になるのです。
 コカ・コーラさんは私達日本人の聖火ランナーをVIPとして扱ってくれました。私が走った所は
ラスベガス郊外の1000mでしたが、泊まったホテルは当時世界最大といわれたMGMホテルで、一泊\60,000もする部屋でした。その広い部屋で私はなかなか寝付かれず、聖火ランナーのユニフォームを身につけて部屋の中をぐるぐる走っておりました。
 私の聖火ランナーを応援するため、家内と妹が私とは別の飛行機でラスベガスまで駆けつけてくれました。聖火ランナーは私の生涯に残る最高の想い出です。
終わりに、聖火ランナーに応募した文章を記載しておきます。    (2011・8・15)

<オリンピックの夢>
 オリンピック!!、
それはこの地球上に咲く世界で一番美しい五輪の花、世界で一番大きな平和の花、そして世界で一番楽しい競演の花であると思います。
 私は今年60歳で、沖縄地球を走る会のメンバー。
私達は、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、メルボルン
モントリオール等を走り、今年はいよいよ念願のボストンマラソンに挑戦です。
世界各地のマラソンを通して、スポーツこそは世界共通の平和と友好の証である事を実感するのです。
 オリンピック聖火ランナー!!、それは私達市民ランナーにとっては永遠の憧れ、そして最高の夢物語です。
 52歳から走り始めた私のジョギングは、いまやっと、地球半周の2万キロに辿り着きました。
アトランタの地に聖火ランナーの夢を描きながら、これからまた地球一周4万キロのゴールを目指して、コツコツと地球の走り旅を続けてみたいと思っているのです。

写真上:さくら駅伝東京ゴール(千鳥が淵にて)
写真中:ボストンマラソン完走おめでとう
写真下:聖火ランナー伴走者と〔ラスベガス街道にて)


奥田のコラム(NO119) 地球一周40,000キロ、ゴールインの記(その一) ( 2011/08/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2011年7月31日は、私にとってはなんとも感慨深い、記念すべき日となりました。それは今から25年も前に、ひょんな事からマラソンという、まるで雲の上の世界をさまよい始めるようになってから、いつしか25年の時を経て、コツコツと積み重ねてきた距離が地球一周といわれる40,000
キロに達していたのです。
 野球のイチロー選手が、世界新記録の安打を放った直後に、「小さなことを積み重ねていく事が、とんでもないところに到達できる唯一つの道です」という名言を残されましたが、事の大小は別にしても、今の私にはこの言葉が身に沁みるものがあるのです。

 私が描いていた地球一周のゴールインは、あのニューヨークマラソンだったのですが、何でも無い
普通の日にその時が訪れていたのですから、幾分残念な気もするのです。が、それはそれなりに、私には意味あることかも知れません。この日の夜、なかなか結婚しなかった娘が、W結婚を決めたWと彼氏を連れて報告に来てくれたのですから、偶然とはいえ、私には何よりの嬉しいプレゼントとなりました。
 何はともあれ、四分の一世紀(25年)をかけてやっと辿り着いた私の人生の大きなメモリーです。
 今回のコラムは心をゆったりと静めて、ここに至るまでのマラソン人生に思いを馳せてみたいと思うのです。

* ナハマラソンがスタートしたのは今から四分の一世紀前の1985年と記憶しています。この時のマラソンこそが私を雲の上の世界にご縁をつなぐきっかけとなってくれたのです。
 その頃の私はマラソンとは縁もゆかりもない、走る事が大嫌いな人間でしたが、どうしてもこのマラソンには参加しなければならない事情があっての参加でしかありませんでした。丁度その頃の私は50歳を目前にしていて、まあ50歳の思い出に出てみるか・・・程度の事でしたが、いざ走ってみると42.195キロというマラソンの世界はどれ程ハードで、どれ程神聖なものであるか、それはまるで人生そのものという学びを頂いた貴重な体験となりました。
 私は20キロ地点で精根尽き果てて横道に逃れる他はありませんでしたが、私の目の前を通り過ぎてゆくランナー達の姿に手を合わせた時の事が今もはっきりと脳裏に焼きついているのです。もしかしてこの時から私の人生は始まったのかもしれません。

* 私がマラソンに打ちのめされた時から2年が過ぎた或る日の事です。あるホテルでの忘年パーティーで、一人の人物から声をかけられる事になりました。声をかけてくれたのは私と同年生で、時折ゴルフの仲間でもありました比嘉良雄さん(当時オリオンビール副社長)でした。比嘉さんは私の顔を見るなり、Wそうだ奧田さん、来年のロンドンマラソンを一緒に走りましょうW!!。と言って、参加者名簿に同意のサインを迫られたのです。
 参加者名簿の顔ぶれを見ると、エッ!!、この人達が本当に???と思えたのですが、その時の私の頭の中は、WロンドンマラソンWという夢の世界だけが拡がっていたので、2年前の無残な失敗などすっかり忘れて、私はその場でその名簿の中の一人に加わっていました。

 後で解かったのですが、参加者名簿に名前を連ねた人の殆どは、走るのではなく、応援団の人だった事を知り、思わず天を仰いだのですが、全ては後の祭りでした。
 しかしながら、人生とは不思議なものです。その時の見事なだまされ方が、その後の私の人生に
とてつもない好運をプレゼントしてくれる事になるのですから、人間たまには思い切って騙されるのも大事な事の一つかも知れませんね。(コラムNO120に記載予定)。

 サインをしたその日の夜から私のマラソン人生は再開する事となりました。当時住んでいた首里金城町の坂道や、西原街道をどれ程一生懸命走った事でしょう。星の夜は星を眺めては星の彼方にロンドンを思い浮かべ、月の夜は月の彼方にロンドンを描きながらのトレーニングでした。その当時の苦しみは、どんなに苦しくてもWロンドンマラソンWというまばゆいばかりの目標が全ての苦しみを希望の力に替えてくれていたのでしょう。今から思えば最も幸せの時だったかも知れません。

* 1989年4月23日のロンドンマラソンは全てが夢の中の出来事でした。グリニッチ天文台を出発してカティーサークの船が停泊している広場、ロンドン塔、トラガルガー広場等々ロンドンの名所を駆け抜け、最後のクライマックスはバッキンガム宮殿前を通りぬけ、いよいよゴールはあのビッグベンのふもとにかかるウエストミンスター・ブリッヂの真ん中です。私は感動と感謝の中でゴールインを果たすことが出来ました。生涯の思い出です。人生を変えてくれたマラソンでした。

* あれ程好きではなかったマラソンも、ロンドンマラソンを境に、マラソンこそは青春の華と思えるようになりました。人生は何が起こるか本当にわからないのです。最後まであきらめてはいけないのです。私のマラソン人生はナハマラソン11回の完走と、沖縄マラソン、マスターズマラソン、メルボルン、ベルリン、ボストン、そしてアトランタオリンピックの聖火ランナーへと繋がっていくことになったのです。それぞれのマラソンにはそれぞれの感動があるのですが、全部を書きとどめるスペースがありません。記録に残る完走マラソンの場所とタイムを記してこのコラム第一部を終えることにします。     (  2011・8.13日の記)

 写真上:夫婦で完走したナハマラソン(1991,12,1日)
 写真中:感動のロンドンマラソン(1989.4.23日)
 写真下:ベストタイムが出たベルリンマラソン          (1991.9.29日)           

 <私の主なマラソン完走記録>

@、1988年12月04日 ナハマラソン 5:02:48秒 (52歳)
A、1989年04月23日 ロンドンマラソン4:43:24秒(52歳)
B、1990年10月14日 メルボルンマラソン4:36:33秒(53歳)
C、1990年12月09日 ナハマラソン  5:16:40秒 (54歳)
D、1991年09月29日 ベルリンマラソン4:13:49秒 (54歳)
E、1991年12月01日 ナハマラソン  5:32:37秒(55歳)
    * 奥田泰子ナハマラソン  5:48:59秒(45歳)
F、1992年12月06日  ナハマラソン 4:53:35秒(56歳)
G、1993年12月05日  ナハマラソン 4:57:22秒(57歳)
H、1994年12月04日  ナハマラソン 5:02:52秒(58歳)
I、1995年12月03日  ナハマラソン 4:55:47秒(59歳)
  *1996年3月〜5月  さくら駅伝日本縦断
J、1996年04月15日 ボストンマラソン4:32:50秒(59歳)
  *1996年5月3日  アトランタ聖火ランナー
K、1996年12月01日 ナハマラソン 4:39:15秒(60歳)
L、1997年02月16日 おきなわマラソン5:22:02秒(60歳)
M、1997年12月07日 ナハマラソン 5:15:24秒(61歳)
N、1998年12月06日 ナハマラソン5:37:24秒 (62歳)



奥田のコラム(NO118) なでいこジャパン世界一!! ( 2011/07/24 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 おめでとう、そしてありがとう、なでしこジャパン世界一!!。
 今回のコラムは、何はさておき、なでしこジャパンの歴史的な快挙を讃えねばなりません。

 第6回女子ワールドカップドイツ大会で、なでしこジャパンが遂に世界一の頂点に輝きました。
2011年7月18日未明、なでしこジャパンが世界一になった瞬間のテレビ視聴率は27.7%だったそうですから、あの時、目を覚ましていた日本人の殆どは、あの歴史的な勝利の喜びに酔いしれていたという事になるのでしょう。私もその一人でした。あの日の夜は、第140回全英オープンゴルフの最終日にもあたっていて(ダレン・クラークの初優勝)、私はとうとう一晩中、眠れぬ夜を過さねばなりませんでした。

 なでしこジャパンを世界一に導いてくれたキャプテンの沢穂希(ほまれ)選手は、試合が終わった直後に、「サッカーの神様がついてくれていました」と語ったのですから、やはりあの試合は神がかりの勝利だったのかも知れません。しかしそのまた一方で、彼女は「ずっと世界一を夢見ていました。夢は見るものではなく叶えるものです」とも発言していたのですから、あの勝利の本当の結論は、なでしこジャパンが一丸となって夢の実現を目指したW想念Wの強さによるものだったというのが正しい評価と言えるのでしょう。W想念Wとは神仏を味方につける程の想いの強さという事だそうです。この度のなでしこジャパンが成し遂げた歴史的な快挙は、これからの日本の将来に、計り知れない様々な転機と期待をもたらしてくれるに違いありません。

 まず第一の大きな期待は東日本大震災復興への勇気付けです。テレビに映った東日本大震災被害者の方々が等しく口に出された言葉は、W心底復興への勇気をもらったWと言う事でしたので、これ以上の勇気付けは無いのかも知れません。

 新聞報道によれば、なでしこジャパンの佐々木則夫監督は、対ドイツ戦の前に、東日本震災のビデオを選手に見せて試合に臨ませたのだそうです。その結果は、過去8戦して勝てなかったドイツに1対0で勝利し、次なる準決勝は世界NO4の実力チーム、スエーデンを延長で降し、最後の奇跡は、これまで24戦して一度も勝ったことの無い強豪アメリカ戦との劣勢を、粘りにねばって何度も挽回し、遂にPK戦までこぎつけての奇跡の優勝ですから、日本はもとより、世界中が衝撃を受けたに違いありません。

 第2の期待は日本女子サッカーの隆盛です。
これまでの日本は、男子サッカーのみがもてはやされ、女子サッカーはあまりの過小評価でしかありませんでした。日本サッカー協会の規定によれば、男子のW杯優勝時の報奨金は一人5000万円という大金が決められているのに対し、女子の優勝報奨金は男子のわずか3パーセント、150万円だそうですから、なんとも情けない日本サッカー界の現状ではないでしょうか。何としてもこれを機に、日本女子サッカーの隆盛を日本中で応援したいものです。

 第3番目の期待感は、実はこれが一番大きな問題ですが、日本の女子サッカーが元気になれば、日本中が元気になり、病気になる人が大幅に減るのではないでしょうか。
 日本国の屋台骨を揺るがすと言われる日本の医療費は、いまや年間40兆円ともいわれます。これは東日本大震災復興にかかる20兆円の2倍の金額で、しかも毎年必要とされる金額ですから、このままだと日本は沈没しかねないのです。日本女子サッカーの隆盛こそは、日本の将来を救う救世主となるかも知れないと、私は今そんな気がしているところです。
 なでしこジャパンの皆さん、あなた方のお陰で、私は日本の将来が楽しみになってきました。
日本の将来に大きな希望の光が差し込んでくる思いがしてきております。本当に有難う!!、感謝です!!。

 最後になりましたが、15歳から31歳の今日まで16年間の青春をかけて、日本女子サッカーをリードし続けてくれて、とうとう世界一という大輪の花を咲かせてくれたなでしこジャパンの沢 穂希キャプテンには特別のWありがとうWをお伝えしたい気持ちで一杯です。日本中のサッカーファンがそう思っているに違いありません。あなたは今まさに世界一の女子サッカー選手です。日本の誇りです。ありがとう、本当にありがとう沢 穂希さん!!。    (2011・7・24日の記)
写真上:なでしこジャパン世界一の歓喜(沖縄タイムス) 写真中:日本を救った沢穂希の神業ゴール(日刊スポーツ)
写真下:日本を勝利に導いた海堀のPKストップ〔日刊スポーツ)     

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