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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO127) 栗と名古屋と太極拳(その2) ( 2011/11/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 この度の旅行を通して得られた中津川と名古屋の印象を記して、思い出の中に残しておこうと思います。

(1) 岐阜県中津川は、大都市名古屋の奥座敷的な位置にあって、秋の紅葉の美しさ、下呂温泉に代表される温泉天国,そして旧中山道沿いに今も残る栗街道の風情には、何とも言えない¨日本の古里の匂い¨のようなものが漂っていて、私には感慨深いものがありました。

(2) 一方、名古屋新空港は実にモダンで大きく、一瞬、外国の空港に降り立ったような錯覚に見舞われた程でした。私達は15年程前に、旧名古屋空港から末息子をアメリカに留学生として旅立たせましたので、その当時とはあまりに違った名古屋空港の変貌ぶりに、これまた感無量の思いが込み上げてきたのでした。

(3) 名古屋の街々は、中心にそびえる名古屋城を囲んで、実に整然と道路が整備されていて、道幅が広く、どの街々も緑に覆われ、大都市でありながら、とても安らぎが感じられる街でした。ちょうど、けや木やイチョウ並木がかすかに色づき、ちょっと強い風が吹くと、ひらひらと枯葉が舞い散る光景が見られ、私は朝の散歩をしながら、ついつい¨枯葉よ、枯葉よ・・¨と歌を口ずさんでおりました。

(4) 名古屋で大城さんご夫婦からご馳走になった数々の名古屋名物が強く印象に残っています。名古屋コーチンの焼き鳥、手羽先、水炊きは絶品でした。ホテルの朝食に出されていた名古屋コーチンの生卵の美味しさは感動的でした。名古屋コーチンの卵の黄身は真っ赤な色をしていて,黄身が大きく盛り上がっているのです。私は生まれて初めて¨卵かけご飯¨のおかわりをしたのです。

(5) 名古屋名物のもう一つは¨ひつまぶし¨と¨うな丼¨でした。家内は¨ひつまぶし¨、私は¨うな丼¨をいただいたのですが、名古屋のうな丼は、かば焼きがご飯の上に二重に乗っかっているのです。そして更に、ご飯の中にもまだうなぎが隠れていたのですから、まさかのびっくりです。美味しさも最高級でした。

(6) 私は今回の名古屋の旅を、静かに振り返りながら、今、人生の不思議のようなものを感じずにはいられません。これまでの人生は、がむしゃらに自分の意思のままに前進したつもりですが、必ずしもそのやり方が、いい結果には至っていなかった反省があるのです。70歳を過ぎた頃からの私は、まさかの出会いや、思いがけない出来事の中で、心に響くものに導かれるままに動かされていく人生に、魅力を覚えるのです。導かれるままの人生には、自然さがあり、気持ち良さがあり、むしろ爽やかな生きがいのようなものさえ感じられるのです。
 
 名古屋とのまさかのご縁は、もしかして静かに前に進んでいく事になるかも知れません。そんな予感がしないでもないのですが、何しろ私は75歳の後期高齢者です。なるようになる人生こそが、これからの私のベストの人生と心得ているのです。

 最後に私の全くのプライベート話を二つさせていただき、旅の回想録といたします。

(T) 私は10年ほど前に、石垣島に住む長男夫婦に石垣島のホテルテナントショップを譲った後は,良きにつけ、悪きにつけ何一つ言及したことはありません。心の中に幾分の心配事があっても黙っているのです。今回の大城さんとの出会いを通して、長男夫婦がしっかりと、いい人との出会いを大事にしてくれている事を確信し,嬉しい限りです。
 人生はいい人との出会いが一番大事だと私は思います。いい人との出会いをする為には、心して自分自身がいい自分でいなければ、いい人に出会えない事を、やっとこの年齢になって気付いているのです。

(U) 今年の11月1日は、私達夫婦の41年目の結婚記念日でしたが、何故か今年は家内も私もすっかり忘れていて、娘と二男の孫から¨おめでとう“の電話をもらい、夫婦で大笑いをしたのです。これがいい事なのか、よくない事なのか解りませんが、私はこれもまた自然の成り行きとと思って、納得しているのです。どうやら家内も同感のようです。今回の名古屋、中津川の旅は、そんな出来事を補って余りある程の喜びをいただけたような気がしております。

 大城さんご夫婦のご好意と、天の導きに手を合わせながら、重ねて感謝を申し上げる次第です。  合掌!!。                                  (2011・11・12日の記)

写真上:中山道の栗街道
写真中:名古屋のうな丼
写真下:名古屋のひつまぶし


奥田のコラム(NO126) 栗と名古屋と太極拳(その一) ( 2011/11/11 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

11月5,6,7日、私達夫婦はまさかのご縁をいただき、名古屋と栗の名所として知られる岐阜県中津川を訪ねる幸運の旅に恵まれました。不思議なご縁というのは、名古屋に住む大城さんご夫婦との突然の出会いから始まったのです。
大城という姓は、沖縄ではかなりポピュラーな名前ですが、この大城さんのルーツは愛知県だそうです。この大城さんは、ご自分の会社の名前に「ぬちぐすいワンズ」という名称を付けておられるのですから、このご夫婦は相当の沖縄通に違いありません。¨ぬちぐすい¨とは沖縄の方言で¨命の薬¨という意味です。
 私はつい最近知ったのですが、沖縄県石垣島で¨てぃんがーら¨(天の川)という土産品店を経営している長男夫婦の店にも度々おいでいただき、大変ごひいきにして下さっているとの事で、大変有難く感謝しているところです。

 さて、今年の夏の或る日、ある親しい友人からお声をかけられ、「いい人を紹介したいから一緒に食事をしませんか?」とのお誘いをうけ、一緒に食事をしたのがこの大城さんご夫妻でした。お会いしたその瞬間から、まるで旧知のような親しみを感じさせてくださるご夫妻のお人柄に、私はすっかり我を忘れて、一方的におしゃべりをしていた気がするのですが、自分でもはっきりと覚えている事は、

@ 私は栗が大好きで、ずっと昔から、いつか日本一の栗の名所として名高い岐阜県中津川を訪ねてみたい事。
A 今の私は太極拳人生を送っているので、近い将来、5万回目の太極拳を自分のイメージの中にある、美しい滝の前で舞ってみたい事。
 の2点を強調してお伝えしたと思っています。

 上記の2点の私の話に返ってきた大城さんご夫婦の答えは

@ 大城さん:「家内は岐阜県の出身ですから、栗の事ならお任せください。とりあえず岐阜で一番有名な大粒の¨利平栗¨をお送りしましょう。中津川行きはいとも簡単な ことです」。そして、「岐阜県は日本一の滝の名所としても知られているので、奥田さんの5万回目の太極拳は必ず岐阜の大滝の前で映像に残しましょう」。
A 奥さん:「私は以前から太極拳に関心があったのですが、まだやったことはありません。この機に始めたいので、仲間を集めますので是非とも名古屋に一度おいでいただけませんか」でした。

 上記のお二人のお話を聞いて、単細胞人間としては人語に落ちない私がどんな結論を出したかは申すまでもない事です。私はその場で名古屋行きを決めたのでした。
 2011年11月5,6,7日の名古屋の旅はこうして実現する事となったのです。

 名古屋での太極拳教室は、愛知県女性総合センター¨ウイルあいち¨というところでした。やがて80坪ほどもあろうかという大きな部屋で、前面と横が総鏡張りになっていて、それはそれは素晴らしい部屋でした。私の予想ではシニアの方が集まって下さっているのかなーと思っていたのですが、予想とはかなり違って30代〜40代の女性が10人ほど集まってくれておりました。私はすっかり嬉しくなって、幾分興奮気味に、相当頑張って名古屋での記念すべき太極拳教室を無事に終える事が出来ました。

 私は大城さんご夫妻のご厚意に応えるべく、太極拳とは別に、今私が夢中で取り組んでいる、もしかして日本では初公開かも知れない¨大雁気功¨(Wild Goose Quigone)を皆様の前で初めてご披露させていただきました。
 この気功は、中国の崑崙山脈に1000年も伝わる秘伝の気功で、第27代目のヤン・メイジュン(楊 梅君)という先生が世の中に初めて公開したものだそうです。この先生は106歳までお元気でこの気功を舞い続けられたそうです。

 この¨大雁気功¨は今、沖縄で撮影真っ最中の、日本・カナダ共同制作映画「KARAKARA」の中で、その一部が放映される事になっていて、どういうご縁(えにし)かわかりませんが、私がその大雁気功の先生役を演じねばならない事になりました。

 不思議なご縁を感じるこの大雁気功ですが、私はこの気功に出会えた喜びに、今は心身を震わせながら、一生懸命特訓の日々を続けている最中です。
 この気功を身につけると、その先に100歳の自分の姿が見えてくるような気がしてなりません。歓喜です。感謝です。合掌です。
                     (2011年11月11日の記)
写真上:名古屋から送られてきた利平栗
写真中:名古屋教室風景
写真下:名古屋教室の皆さんと記念写真


奥田のコラム(NO125) 第5回世界ウチナンチュー大会 ( 2011/10/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 1990年から始まった世界ウチナンチュー大会は、20年を経て、今年で第5回となりました。今回の大会は、昨年末に完成した沖縄セルラースタジアム(野球場)の誕生もあってか、大々的な催しとなりました。
 アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、スペイン、ポルトガル、ニュージーランド等々世界23か国から5200人ものウチナンチュー系の人達が集ったそうです。

 世界ウチナンチュー大会とは、今から100年以上も前に、沖縄から世界中の新天地に、新しい開拓の夢を抱いて海を渡った先人達や、その子孫達が5年に1度、沖縄に里帰りをして、絆を確かめ合うという大会です。
 今年の大会はインターネットを通して世界中に同時発信されたのだそうですから、世界中に住む沖縄関係者も歓喜の喜びを共有したに違いありません。

 私も第4回大会からこのは大会に参加させてもらっているのですが、それはそれは言葉に言い尽くせない、里帰りの方々の感動感激ぶりが伝わって来るのです。故郷とは遠くにいる人程、かけがえのない深い思い出の聖地なのかも知れません。
1世、2世は勿論の事、もう日本語を話せなくなっている3世、4世の人達も、この時ばかりは大勢沖縄にやってくるのです。

 新聞報道によれば、終戦直後、沖縄が食糧難にあえいでいた頃、ハワイの移住者から550頭の豚が船便で沖縄に送り届けられて、沖縄の飢えを救ったとのことです。
 沖縄の戦後の復興は、もしかして、海外に渡った世界のウチナンチュー達の熱き古里への思いにも支えられていたのかも知れません。ウチナンチューの根底には、脈々と沖縄を思うチムググル(心の底からの思い)と、もう一つ、イチャリバチョーデー(出会った人はみんな兄弟)の魂が流れ続けているに違いありません。

 実は私も40年近く沖縄にご縁をいただいているのですが、末息子が15歳で一人でアメリカ・アラバマ州のバーミングハム市に留学をした際に、その地に住むSEKIKOさんという沖縄出身者の奥さんに、息子が沖縄出身者というただそれだけの理由で、アパート住まいの息子を自分の家に引き取って下さり、3年間も面倒を見て下ったのです。沖縄出身の世界のウチナンチューの心意気は、優しく、強く,そして心底温かいのです。
私は沖縄と世界のウチナンチューに感謝の気持ちを忘れてはならないと思っています。

 第5回世界のウチナンチュー大会が掲げるスローガンは¨世界を翔いた先人達の壮大な気持ちに感謝し、そして更なる発展を目指して¨でした。会場は沖縄の伝統文化や、音楽、舞踊、空手、そしてカチャーシー(喜びを表現する踊り)、エイサー(青年たちの勇壮な踊り)などが網羅され、全員参加の大会となったようです。テレビを見ていた人達も思わず体を乗り出す程の素晴らしい大会となりました。

この大会を通して私の心に伝わってきた参加者の言葉を書き留めておきます。

・世界のウチナンチューは沖縄県民の宝、そして誇りです。 (県知事)

・ウチナーは島やぐなさし(小さい)が、ウチナンチューの 社会やまぎさん(大きい)
 (沖縄は小さい島でも、沖縄の人たちが住む社会は大き  い)。そして沖縄は神の国。
 (ブラジル沖縄県人会会長)

・私は今アルゼンチンに24年住んでいるが、その前はロスに26年住んだ。家族は世界中に散らばっているから、世界中が親戚と思っている。(アルゼンチン1世78歳)

・沖縄は初めて来たが、みんな親戚みたい。(ブラジル2世 34歳)

・イチャリバチョーデー(会った人はみな兄弟)は世界に誇 れる沖縄の)宝だ。(米国2世40歳)

・ウチナーの心はいつでもどこでも一つになれる。(米国1世 80歳)

・ウチナーの文化は、とても新鮮で他のどこの国とも違って いて素晴らしい。(米国3世 32歳)

・親や祖父母から受け継いだチムグクルをいつまでも大切に したい。(兵庫県在住 62歳)

・沖縄は目をみはるばかりの発展ぶりだが,あまり変わり過 ぎて欲しくない気もする。(数人の意見)
 
・沖縄を一度離れてみないと本当の沖縄の良さは解らない。 若者よ、一度沖縄を飛び出せ。(数人の意見)

              2011.10.25日の記
写真上:スタジアムに集まった世界のウチナンチュー    
写真中:再会を祝って

写真下:チムグクル

写真提供:琉球新報社より


奥田のコラム(NO124) 「沖縄の家庭料理を楽しむ会」 ( 2011/10/01 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 前回のコラムにも書きましたように、沖縄特産の“ゴーヤ“がきっかけで、私はこのところ急激に沖縄の家庭料理に心を惹かれるようになっております。最近は見るもの聞くもの、私の心に真っ先に飛び込んでくるのは沖縄の家庭料理の事ばかりです。

 つい一週間程前のことです。琉球新報の「沖縄の家庭料理を楽しむ会」参加募集の小さな記事が私の目にとまり、私は数日間、この記事のことで頭が一杯になっておりました。行くべきか行かざるべきか、迷いに迷っておりましたが、行くことの恥ずかしさより、行ってみたいと思う気持ちのほうが強く、とうとう出席を実行に移したのでした。
 しかし本当のことを言えば、私の親しい太極拳仲間の女性に声をかけ、彼女の助けを借りて一緒に出席してもらったのです。当日の出席者は15名、案の定、男性は私一人でした。もし私が一人で出席していたら、もしかして私の寿命は2〜3年は縮まることになっていたかも知れません。

 私は直立不動、自分ながら真剣なまなざしで料理の先生の姿を眺め続けておりました。ほんの申し訳程度のお手伝いをしただけなのですが、それでも出来上がった料理の15分の1はしっかりと頂くことができました。今から思うとまるで夢の中の出来事のような気がしているのですが、私はこの料理教室に出席して本当に良かったと今は思っているのです。
その日の料理教室を通して私はいくつかの感動と心に残る大きな勉強をさせていただきました。今回のコラムはその時の印象をお伝えしようと思います。

@ 料理を担当してくださった先生の名前は友利和子さんです。友利先生の年齢は70歳代であろうかと思われたのですが、私が感銘を受けたのは、この先生のお人柄の素晴らしさでした。私のこれまでの印象では料理の先生であれ、先生と名のつく人は、だいたいが少し気位が高くて近寄りがたいところがあるのですが、この友利先生はまるで違うのです。誰にでも優しく、まるで沖縄のお母さんという印象なのです。

 料理教室のあった数日後、もしかして友利先生の料理の本があるかも知れないと思い、書店に行ってみたら、「チャンプルーとウチナーごはん」という友利先生の本に出会いました。この本から知ったのですが、友利先生は1933年のお生まれ、先生のご経歴はそれはそれは輝かしい料理の研究家で、20年以上も続く「沖縄の食を考える会」の主宰者でもあられるのです。
そんな偉人ぶりを全く感じさせない友利先生の魅力に私はすっかり虜になっているのです。

A 友利先生がその日ご指導してくださった沖縄料理は
(1)中味汁(中味とは豚の内臓をきれいに洗って食料     にしたもの)
(2)パパイヤのンブサー(ンブサーとは煮つけのこと)      
(3)沖縄産野菜の炒めもの
(4)沖縄ぜんざい(沖縄のぜんざいは冷たくしたもので    す)
以上の4品でしたが、それぞれが何とも例えようもない美味しさです。
 
  私は40年近く沖縄に住んで、沖縄の料理をそれ程美味しいと思ってはいなかったのですが、友利先生と出会って、沖縄の家庭料理がこんなに素晴らしいものである事を教えていただき、感激しているのです。友利先生の沖縄料理には家庭料理としての品格があります。そして何より家庭料理としての親しみと庶民の味と、毎日食べても飽きない懐かしい母親の味がしみこんでいると私は思いました。何度も言いたいのですが、友利和子先生こそは沖縄家庭料理の本物の達人であり、本物の沖縄料理のお母さんであると私は思っているのです。

B 私は今年75歳の後期高齢者一年生。今健康気功・太極拳の人生を歩んでいる真っ最中ですが、健康人生の基本に食養生がある事はいうまでもない事です。その食養生の原点に沖縄の家庭料理があるのではないかと、最近強く感じるようになりました。

 近年、沖縄の男性の長寿番付が26位に後退しているのだそうですが(女性はまだ日本一)、その原因は近年の食の欧米化によるところが一番の原因だそうです。ブラジルに渡った沖縄からの移住者の寿命が、沖縄に住む人に比べて20歳も短命になるのは、沖縄食から肉食中心のブラジル食に変わったことによるものだそうです。(コラムNO114、ポール森口先生の講演)
C 結論:私が75歳になって今思うことは、日本人の食の原点はやはり日本食中心で、ことに沖縄の家庭料理に学ぶべき点が多いのではないかと言う事です。私の一生はどうやら沖縄が最終点になりそうな気がしているのですが、沖縄に生きて、沖縄に親しみ、そして“天職“とも思える気功・太極拳と二人三脚で“元気な100歳人生“に挑戦してみようと思っているのです。沖縄人生に感謝です。友利先生との出会いに心から感謝です。
                 (2011年9月30日の記)
写真上:沖縄家庭料理の教室風景
写真中:友利和子先生と
写真下:友利和子先生の本


奧田のコラム(NO123) 私は今、WゴーヤWに魅せられています。 ( 2011/09/14 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

  ゴーヤはナーベラ(へちま)と並んで、沖縄の夏の風物詩を飾る健康野菜として誰からもしたしまれている優等生です。ゴーヤが全国的に知られるようになったのは、今から数年前,NHK朝の連続ドラマ「ちゅらさん」に登場したのがきっかけであったような気がするのですが、その時のゴーヤはあの独特の姿が一種のマスコット役として、携帯のストラップなどに使用される一過性の人気でしかありませんでした。
 そして次は突然、今年の夏です。東日本大震災をきっかけに、今度は省エネ対策の一つとして、日除けのカーテン野菜として脚光を浴びる事となりました。それはそれなりに喜ばしい事ですが、このゴーヤの本当の実力とは、この野菜が健康長寿のエースとして大きな注目を浴びようとしている点にあるのです。

*ゴーヤチャンプルは日本の健康長寿食のエース!!。
上記の言葉を発信しておられるのは、カスピ海ヨーグルトで有名なあの家森幸男先生です。家森先生は世界中の長寿村や長寿者をくまなく訪ね、その要因を研究されておられる第一人者ですが、沖縄の家庭料理であるゴーヤチャンプル(チャンプルとは混ぜ合わせる事、つまりゴーヤと豆腐と鰹節をメインに混ぜ合わせたいため料理)こそはW天下一品の健康長寿食Wと絶賛しておられるのです。ゴーヤチャンプルを常食としている人は、90歳にして70歳ぐらいの若さを保っているとの事ですので、沖縄発のゴーヤ料理が、本格的な脚光を浴びるのは、目の前に来ているといっても過言ではないでしょう。

*私の体験:ゴーヤジュースの威力
 私は沖縄に住んでやがて40年になりますが、早くからゴーヤが健康に良い事は先輩諸氏から聞かされておりました。が、ゴーヤの持つあの強力な苦味にはなかなかついていかれず、むしろ敬遠する方向にあったのでした。それが家森先生のゴーヤ説に出会い、改めてゴーヤに立ち向かっているうちに、私は大発見に気付き、今ではゴーヤの魅力から逃れる事は絶対にあり得ない・・・と思う私に変身しているのです。

 最近は毎朝、家内がゴーヤジュースをつくってくれています.。ゴーヤを絞った濃い緑の原液を、これまた沖縄産のシークアサー(沖縄の小さいみかん)ソーダーで割って飲むゴーヤジュースの味は、なんとも言えない苦味に調和されるのです。以前あれ程敬遠していたゴーヤジュースが絶妙の味となって私の体内を巡るや否や、体中の元気が一気に甦ってくる感じが私にはあるのです。

 私は今年の6月から後期高齢者の仲間入りをしております。
気功・太極拳の健康教室を毎週7〜8箇所受け持っていて、時には一日に3教室を巡らねばならない日などは、さすがに体にこたえるものを感じていたのですが、その疲れは後期高齢者のせいとばかり思っておりました。ところがこのゴーヤジュースをぐい!!っと飲み干した後の教室は、一日3教室も苦にならない以前の自分に返り咲いているのですから、これはゴーヤパワーのお陰としか言いようがないのです。まさにゴーヤ様様と手を合わせる昨今の私です。
 私はゴーヤが手に入る期間は毎日このゴーヤジュースを飲み続け、その後の自分の体調の変化を観察してみようと思っています。いずれその結果はコラムで報告するつもりですが、何かしらわくわくするものがあるのです。

*ゴーヤ物語追申
 一週間ほど前のある太極拳教室での出来事です。集まってくださっている生徒さんたちに向かって、私がゴーヤの魅力のとりこになっている事、そしてゴーヤの苦味がなんとも魅力のある苦味になってきた事などを伝えたところ、生徒さんの一人から、まさかと思える返事が返ってきたのです。その返事とは「ゴーヤの苦味を美味しく思えるようになったら、その人の体は本物の健康体になってきている証拠だそうですよ」でありました。
 私は思わず心の中で、ヤッター!!と叫びました。そしてゴーヤ君ありがとう!!、と両の手を合わせました。ゴーヤとの再会、そして家森幸男先生のゴーヤ大讃辞との出会いに大きな感謝をしております。                               (2011・9・14の記)
写真上:ゴーヤの写真
写真中:ゴーヤジュース
写真下:ゴーヤチャンプルー

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