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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奧田のコラム(NO111) 後期高齢者と新老人の会 ( 2011/05/20 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

(1)後期高齢者について
 私はあと一ヶ月と少々で75歳になります。年齢の事は何歳になろうが、いつもW青春まっただ中Wの心意気で生きているつもりなので、あまり気にする事もなく生きておりましたが、つい先日(5月12日)、ある公の機関から「あなたは、次の誕生日からW後期高齢者Wです」という通知が舞い込んできたのです。

 どうしてW後期高齢者Wというレッテルを貼られる事になるのか、一生懸命勉強してみると、どうやらこの国では65歳になると誰もが皆〜んないっせいにW高齢者Wと言うレッテルが貼られ、75歳になると今度はこともあろうにわざわざW後期高齢者Wという、まるで夢も希望も奪い取られてしまいそうな名称がつけられてしまう事になっているのです。一体誰がこんな無粋な、情けない言葉を考え付いたのでしょうかね。

 後期高齢者の先輩に尋ねてみると、この制度は「75歳はもう充分過ぎるほどの人生を生きた老人だから、そろそろ天国への旅立ちをしてもらわないと国は困るのです」という国の本音がこの言葉の裏に見え隠れするように思えてならないと云うのです。

 この国が後期高齢者という制度をつくったのには、それなりの理由があることもすこし理解できるのです。その一番の理由は、この国が一年間に使う医療費はやがて40兆円に達するところまで来ていて、その大部分が高齢者と後期高齢者に使われているらしいのです。めったなことでは病院にはいかない私などには、ちょっと合点がいかないところもあるのです。早い時期から自分自身の健康管理に気を配っていた人達にとっては、そうではない生き方をして病気になり、医療費の税金負担増の原因になっている現実には、やはり納得が行かない部分もあるのではないでしょうか?

 先日の東日本大震災の復興にかかる費用が20兆円というのですから、その倍の40兆円は、まさに国家の土台を揺るがす天文学的な数字といえるのでしょう。
 一時期、病院の待合室は老人の談話室みたいになり、医療の現場も患者として受け入れ、たくさんの薬を出して、病院経営を支えている現実もあるやに聞くのですが・・・・・。
 この国の医療制度も、やがて崩壊の危機にあるといわれています。何はともあれ自分自身の健康は自分自身で守るという心構えをもって、病気になりにくい体作りを目指そうではありませんか。

 人間、この世に生まれた以上、誰もが必ず高齢者となり、老人になっていくのです。
その人生の通過地点を国に迷惑をかけることなく、夢多き人生を目指せる生涯でありたいものです。
現在のこの国の後期高齢者制度に私は残念ながら夢も希望も湧いてこないのです。

(2)新老人の会について
 5月12日(後期高齢者の通知が届いた日)奇しくも同じこの日に、W新老人の会Wから、「新老人おめでとうございます。夢と希望に満ちた人生に再出発しようではありませんか」という会員証が送られてきたのです。
 コラム(NO109)にも書いたばかりですが、W新老人の会Wとは、今年100歳にして矍鑠(かくしゃく)と大活躍されておられる日野原重明先生が提案されておられる会のことです。日野原先生の持論は、人生は75歳からが、最も人生の価値が問われる時で、元気で長生きをすればする程、人生の価値は高まると言われるのです。日野原先生の提言を私なりに要約すると次の3点になると心得ております。
@ 元気で長生きをして、その分世の中のお役に立てる人間 になる事。
A 人生は生涯、夢と希望を持ち続け、それを実行するこ  と。
B 愛(思いやりの心)多き人生を生き、慈愛に満ちた人生 を生きること。

 75歳からの人生を、ただ老後を消化するだけのW後期高齢者Wとして生きるだけでは、なんともさびしすぎる人生ではありませんか。
新老人の心意気で75歳からを大いなるWときめきの人生Wにしたいものであります。  (2011・5・20の記)


奧田のコラム(NO110) 「100の物語二題」in沖縄 ( 2011/05/05 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 


その(2) 志の輔らくご沖縄100回記念公演

 2011年4月30日、落語家の立川志の輔さんが、沖縄公演100回という金字塔を現実のものとされました。場所は沖縄国立劇場大ホール、昼夜二回の公演。いずれも満席のお客様を前にしての熱演に、会場は志の輔ワールドの感動に酔いしれた至福のひと時でした。私もその時、その場所にいられた幸せに、思わず手を合わせた程の感銘を受けました。

 立川志の輔さんが初めて沖縄の舞台に立たれたのは、今から25年も前の1986年。当時、那覇市国際通りの地下にあった「沖縄ジャンジャン」という小劇場でした。志の輔さんを沖縄に連れてこられたのは永六輔さんです。永六輔さんは、沖縄ジャンジャン設立の時からずっとそのジャンジャンを応援されて、沖縄にたくさんの日本の芸能、文化を紹介してくださった沖縄の恩人である事は、今更私が申し上げるまでもないことです。

 当時の沖縄では、落語の事を知る人は皆無に等しい状況でした。それが25年間も途切れることなく、この度の100回公演にまで至ったこの偉業に、私は特別の感慨を覚えるのです。これはひとえに志の輔さんの落語家としての使命感と、志の輔さんの魅力にとりつかれた、志の輔さんをとりまく応援団の方々の熱意の結集によるものと、私は心から敬意を評するばかりです。
志の輔公演は宮古島を除く、ほぼ全島での公演をされておられるのだそうですが、どうかその宮古島でも、いつか落語の真髄をご披露していただき、沖縄全島を制覇する不滅の歴史を刻んで欲しいものです。

 前置きが長くなりましたが、当日の公演のお話をさせていただきます。
「第一部」は、東日本大震災へのお見舞いから始まりました。観客の誰もが、心の中で両手を合わせてお祈りを捧げているであろうと思えているうちに、いつの間にか気がついてみると、誰もが爆笑の世界に引きずり込まれていたのです。後でわかったのですが、その笑い話の題名は、「メルシーひなまつり」という志の輔さんオリジナルの新作落語でした。
 日本を訪問していたフランスの要人の家族が、帰国の際、空港に向かう途中、町の横丁に立ち寄り、人形づくりの店を訪ねた時から始まったハプニングの物語です。結論を言っては面白くないので止めますが、まさに抱腹絶倒の一時間でした。

「第二部」は恒例の古典落語です。今回は忠臣蔵の五段の物語でした。江戸時代の歌舞伎の世界にあっては家柄が絶対の条件で、一般人が歌舞伎の世界で出世する事などあり得ようもないのに、渡し舟で拾われた一人の孤児が、不思議な運命を辿りながら「中村仲道」という芸名をもらい、遂には「名代」という歌舞伎界の最高位に昇りつめ、「栄屋」という屋号までもらい、忠臣蔵五段の主人公、小野定九郎の役を迫真の演技で迫り、後世までその名を残す名優となっていく有様を、志の輔さんが落語で演じたのです。私はまるで歌舞伎のシーンを見る思いで、志の輔さんを見つめておりました。息をするのも忘れる程の世界に引き込まれた感動の1時間20分でした。

 25年間の志の輔落語の中でも最高に感銘深い100回記念の公演でした。
立川志の輔さんは、今や日本一の落語家だと私は思いました。志の輔さんと25年のご縁を頂く私達家族は本当に幸せ者と思い感謝しております。志の輔さんを紹介してくださった永六輔さんにもあらためて感謝です。
 これからも体に気をつけられて、いつの日か100歳の落語を披露してくださることを生涯の楽しみとさせていただきます。本当に有難うございました。(2011・5・4の記)

写真上: 志の輔らくご沖縄100回記念公演パンフレット
写真中: 100回公演の打ち上げで乾杯する志の輔さん
写真下: 25年の記念写真


奧田のコラム(NO109)  「100の物語二題」 in沖縄ー日野原重明先生と立川志の輔さんの100 ( 2011/05/04 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2011年4月の末日、奇しくも100の数字のつく二つの出来事にご縁をいただくことが出来ました。一つは、聖路加国際病院名誉院長で、新老人の会会長であられる日野原重明先生の「100歳記念講演会」と、もう一つは落語家で、現NHK−TVのWためしてがってんWの名司会者として抜群の人気を誇る立川志の輔さんの「沖縄100回記念公演」です。どちらも深く印象に残る会でしたので、私のコラムの中に書きとめておきたいと思います。

(その一)日野原重明先生100歳記念特別講演
 2011年4月29日、講演会場は那覇市民会館。この会場はおよそ1500人を収容できる大会場ですので、私は当日券でも大丈夫と思って会場に出向いたのですが、入場開始の30分前に、すでに長蛇の列なのです。関係者に尋ねてみると、前売り券は完売で、当日入場できるかどうかは未定です、との返事です。私は立ち見(聞き)を覚悟で、30分ほど近くの公園を散策して再度会場にむかい、やっとの思いで入場が許されたのでした。

 2年前にも日野原先生の講演を拝聴したのですが、その時も大会場が満席でした(コラムNO72に記載)。日野原先生のこの人気は一体なんであろうかと私なりに考えていたのですが、やはり100歳の健康長寿と目を見張るばかりの行動力にあることを今回の講演で再認識したのです。

 日野原先生はステージに上がるや否や、『皆さん、どうしてこんなにいっぱい集まって来られるのですか?!!、もしかして皆さんもやはり私のように元気な100歳人生を生きたいということなのですかねえ?!!』の問いかけに、万雷の拍手が会場をゆるがしたのです。私はこの会場を揺るがすほどの拍手の中に、人間のいつわらない本心を見たような気がして納得したのです。そして今まさに自分がかかわっているW元気な100歳運動Wに、大いなる後押しと勇気100倍の応援をいただけたような気がして、心からの喜びがこみ上げてきたのでした。
 
 さて、日野原先生の今回のお話の内容は次のような事であったと記憶します。
 @2000年9月に「新老人の会」を立ち上げました。新老人というのは75歳以上の人を呼ぶのですが、21世紀は75歳からが後世に本物の徳を残せる最も充実した人生が始まるのです。新老人の目指す大きなテーマは
1 To Love(愛し愛される人生であること)
2 To Initiate The New(創意を持ち続け、実行する事)
3 To Endure(耐えて後世に愛と平和の大切さを伝える事)
 A 2011年3月11日に起こった 東日本の大震災は、まさに未曾有のつらく哀しい出来事ですが、日本はもとより世界中から早々に愛の手が差し伸べられました。アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、中国、ロシアはもとより、日本とは友好国とは思われていないあの北朝鮮からもです。
世界中の人達や国々が、人類の本当の幸せと世界平和の本当のあり方に目覚めたのではないでしょうか。全人類の幸せと、世界の平和こそが人類の目指すべき究極の目標なのです。
 B 沖縄は戦争という、これ以上の苦しみはない苦しみを負わされてきた県であります。この沖縄が平和にならなくて本当の日本の平和はないのです。私(日野原先生)は、今から10年以内にこの沖縄から基地がなくなる事を提言し、新老人の会が中心となって行動を起こします。私は沖縄から基地がなくなるまで死ぬわけにはいきません。必ず生き続けて実現させるのです。
 
 日野原先生のお話に会場は感動と大拍手に包まれました。私も強く心を打たれました。私は今年の6月に75歳(新老人)になるのです。日野原先生のお話を聞き終えて、その足で会場の事務局を訪ね、新老人の会の会員に登録をさせていただきました。私も必ずや100歳を生きて、人様の健康長寿のお役に立てる人生であり続けたいと、改めて心に誓ったのです。            (2011・5・3日の記)
写真上:日野原先生100歳特別講演のパンフレット
写真中:日野原先生の最新書「百歳は次のスタートライン」


奧田のコラム(NO108) 東京あれこれ一人旅 ( 2011/04/16 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 4月7日~8日と、わずか一泊二日でしたが、心に残る久々の東京一人旅を楽しんできました。
わずかに一泊二日家を離れるのを旅というのはおかしな事ですが、私はもしかしてここ十数年間、すっかり一人旅を忘れていたのでした。
 若い頃は、一人旅に優るものはないと思っていたのに、いつの頃からか気がついてみれば、旅の全ては家内の後をついて行くだけになっているのです。とりあえず、今回やっとの思いで一泊二日の旅を無事に終えて帰ってきたのですが、その足跡を思い出すにつけ、一人で大笑いする事ばかりです。

 今回の旅の本来の目的は、4月7日に開催される筈だった、池袋のメトロポリタンホテルの中にある帯津三敬クリニックの開院7周年の祝賀会に出席する事でしたが、東日本大震災のために急遽延期となり、すでに東京行きの飛行機とホテルの代金が支払われていた為に、私は上京をためらっていたのでした。どうやらその事が、クリニックの婦長さんの耳に入ったとみえて、「せっかく沖縄から上京してくださるのだから、夕食でもご一緒にしましょう」との誘いを頂いたのでした。私はそのご好意に意を決して旅立ったのでした。

 ご招待された場所は、上野黒門町に100年も続いているというWうなぎ料理Wの「久保田」というお店でした。この宴に出席したのは帯津先生と山田総婦長と、安藤婦長と、沖縄から私と妹夫婦の6名でした。
 私はこの席ではWうなぎWがでてくるものとばかり思い込んでいたのですが、次から次に出てきた料理は@うなぎの分厚い肝焼き(おいしかった!!)、A刺身の盛り合わせ、B鳥わさ、C柳川鍋、D豆腐料理におしんことおすまし等々で、もうそれだけで私のお腹は満腹なのです。もうこれで終わりかなーと思った頃に
、なんとメインのWうな重Wがどーんと運ばれて来たのには卒倒しそうになりました。
わがままが許されるのであれば、このうな重はWお持ち帰りWにしていただければ最高の幸せなのでしたが、そんなわがままが許されるはずもなく、私は決死の思いでこのW100年も続くうな重の味Wを食べつくしたのでした。私の胃袋はのど元までふくらんでおりました。翌日、私の身体がどんな症状になったかについては、とても語れないのです。

 さてそのお店の料理の味もさることながら、帯津先生がこのお店をことのほか気に入っておられるのは、どうやらこのお店の女将の魅了にあり!!と断定したのは、帯津先生を除く5人の意見が完全に一致したからです。男というのは、どんな偉人であっても気に入った女性の前ではまるで子供のようなにこにこ顔になるのですね。帯津先生のそんな姿に、どうやら世の女性たちはたまらない魅力を覚えるらしいのです。私もあんな風になってみたいなーと羨望のまなざしで帯津先生を眺めておりました。映画にたとえれば、私の生涯の思い出に残る名シーンのヒトコマでした。
 
 今回の旅の思い出はあとまだ3つあるのです。
その(1)は、久しぶりに訪ねた相田みつを美術館で、今話題の老詩人柴田トヨさんの詩集展に出会えた事です。何と99歳で初出版した詩集「くじけないで」が150万部も売れたそうですから、本当に凄い事と思うのです。柴田トヨさんの写真を見ていると、私は20年前に他界した母の顔が浮かんでくるのです。そして柴田さんの誕生日が私と同じ6月26日である事を知った瞬間から、私は特別のご縁を覚えずにはいられませんでした。柴田トヨさんの、今度は100歳の詩集を楽しみに待ちたいと思いました。

 その(2)は、今から14年も前に、沖縄県石垣島の小さな島で、偶然とも奇跡とも思える出会いをさせていただいたMSさん(当時20歳)に銀座で再会できた事です。ことの詳細について語っていると何日もかかってしまいそうなので止めますが、作詞・作曲など雲の上の世界と思える私が、今までの人生で3つの恋歌と思える歌が生まれたその一つが、MSさんとその小さな島で出会った時に生まれたものです。あとの2曲は残念ながらうちの奥さんの歌ですが、本人の前で声に出した事はまだ一度もありません。 MSさんは今や大企業の中堅社員として立派な社会人に成長されておられましたが、私には14年前の思い出が懐かしく思い出されるばかりでした。銀座ではすっかり彼女にご馳走になりました。本当に有難うございました。

 その(3)は、私が今回泊まったホテルは、帯津先生との会食の事もあり、またちょっとした買い物の事もあって御徒町駅の近くにしたのです。そのちょっとした買い物とは、恥ずかしながら天日干しのジャコ(煮干)なのです。私は生まれ育ちのせいか(高知県)、魚が好きで、中でも干物が大好きなのです。最近から取り組んでいる千坂式食養生の玄米食にはこのジャコがとても良く合うのです。御徒町のアメ横で売っている千葉産と富山湾のジャコを特に気に入っているのです。最近はめったに東京に出ないので、そのジャコを5袋もまとめ買いしてしまいました。お店から頂いたビニール袋を提げての電車と飛行機は、さすがの私もちょっと恥ずかしくて、私がそれ用に買い求めた袋はADIDASのスポーツバッグです。まさかそのスポーツバッグの中に5袋ものジャコが詰まっているとは誰一人として思う人はいなかったでしょう。私はいそいそとそのバッグを手に提げて、満面の笑顔で沖縄那覇空港に帰ってきたのです。「何事も感謝感謝の一人旅」。                (2011・4・15日の記)

写真上:うなぎの「久保田」で帯津先生と
写真中:柴田トヨさんの99歳の詩集
写真下:御徒町でてにいれた煮干(ジャコ)とバッグ


奧田のコラム(NO107) 130歳を目指す達人とイチローカレーの誕生 ( 2011/04/01 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

(1)130歳を目指す達人・名城達巨さん
 私の親しい友人で、いま本気で130歳の人生を目指している人物がいるのです。その人の名前は名城達臣さん(56歳)です。名城さんは、沖縄県恩納村の西海岸沿いにあるW伊勢えびとステーキWで有名な『マリブハウス』のオーナーシェフです。
 名城さんは40歳代から難病を患ってこられた方です。その病名とは@ 変形性股関節症 A 腰椎脊椎炎 B仙腸間接脊椎炎というのだそうですが、解りやすくいえば、背骨の軟骨が固まって骨になってしまい、最終的には体が動かなくなってしまう難病だそうです。
 名城達巨さんは今から10年前に、その三つの病名を医者から告げられて、お先真っ暗な人生であったはずなのに、本人の懸命なる探究心の結果、3年前には99%、もう大丈夫だ!!というところまでこぎつけたのだそうです。その間お医者さんは手の施しようもなかったのを、自分で見つけてきた「千坂式食療法」にご縁をつなぎ、今では完全無欠と思えるほどの健康体を保っているとの事です。それ故にか名城さんは、今は130歳の人生を宣言されて、前人未到のギネスブック入りを目指しているとの事ですから、何とも凄いのです。
 私はつい先日(2011・3・30日)、マリブハウスに名城さんを再訪する好運に恵まれました。その目的は、この日の午後、マリブハウスで開かれた「千坂式食療法」のお話を聞く為でした。その時に上記のお話を知らされたのですが、久しぶりに再会した名城さんの第一印象は、まるで元気!!、若々しい!!の一言でした。彼は本当に130歳まで生きるかもしれないと、私はその時そう思ったのでした。

(2)千坂式食療法
 私はその時まで「千坂式食療法」の事を知らなかったのですが、お話を聞くにつれ、これは本物だ!!という直感が溢れてきたのです。そしてその日から、名城さんの教えを受けながら千坂式食療法をスタートさせたのです。

 千坂式食療法とは、20歳代で医者から余命1〜2年の宣告を受け、苦難の中で自らの体験と研究を積み重ねた末に辿り着いた千坂諭紀夫さん(現72歳)の提唱する食事療法の事です。千坂諭紀夫さんの原点はW病は食の過ちにありWというお考えです。
 全ての食べ物には陰性と陽性、酸性とアルカリ性の性質があって、陰性は体を冷やし、陽性は温める。酸性は血液を汚しアルカリ性はきれいにするという性質があるそうです。
 陰陽のバランスと、酸性とアルカリ性の中庸を心掛ける事が病気にならない体づくりの基本なのだそうです。(詳しくはマリブハウスの名城さんにお聞きになる事をお勧めします。親切丁寧に教えてくださると思います。TEL:098-965-5496)

(3)イチローカレーの誕生
 上記の名城達巨さんが、10年間の食療法から考え出したのがマリブハウス特製の「イチロー選手にも食べてもらいたいWイチローカレーW」です。イチローカレーが誕生したきっかけは、かねがね名城さんはイチロー選手の動きの中に理想の人間像を見て、憧れていたのだそうです。彼の息子さんもイチロー選手に憧れて野球に熱中しているとの事です。
 イチロー選手の研ぎ澄まされた俊敏さと、あのしなやかな体は、まさに芸術そのものと名城さんは申されます。イチロー大ファンの私も全く同感です。そのイチロー選手に一歩でも二歩でも近づく体づくりを考えている内に、自分の10年間の食事療法から生まれたのがイチローカレーだと言うのです。私もイチローカレーを食べました。何だかイチロー選手にほんのちょっぴり近づけたと思いたいのですが・・・。

 私は60歳のときから(今から14年前)、家内の突然の入院がきっかけで、気功と太極拳の世界にご縁を戴く事となり、今ではW元気な100歳人生Wを目指しているのです。気功・太極拳に千坂式の食療法を採り入れることで、まさに本物のW元気な100歳人生Wがはっきりと目の前に見えてくるような気がしております。

 4月の日本は新しい仕事始めの月です。そしてあらゆるものに新しい生命の息吹を感じる時期でもあります。私の中にも何かしら、これまでになかった新しいときめきの心が芽生えてきているのです。
名城さんありがとう!!。130歳に期待したいのです。!!。 (2011・4・1日の記)

写真上:沖縄西海岸沿いにあるマリブハウス
写真中:イチローカレーののぼりと名城達巨さん
写真下:130歳を目指す名城さんの宣言書

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