 | 奧田のコラム(NO87)W竜馬がゆくW歌舞伎座公演1968、(私の思い出その2) | ( 2010/05/18 ) |          |  先日のニュースによれば、東京東銀座にあった歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」が、2010年4月末日をもって59年の歴史に幕を下ろし、3年後には新しい歌舞伎座に生まれ変わるとの事です。コラムNO86にも書きましたが、私は郷土の大先輩である坂本龍馬さんのお陰で、今から42年も前に、この歌舞伎座とも深いご縁をいただいておりました。思い起こせば私の人生は、この歌舞伎座にたくさんの出発点をいただいていたように思えます。不思議なご縁のような気がしますので、この機にもう一度それらの記憶を辿っておこうと思います。
@ 1968のNHK大河ドラマW竜馬がゆくWは、全く同じタイトルで舞台を歌舞伎座に移しての公演となりました。歌舞伎座公演での主役(坂本龍馬)は、今は亡き名優の萬屋錦之助(旧姓中村錦之助)さんでしたが、私はNHK−TVでの方言指導がご縁で、再びこの歌舞伎座公演でも方言指導のお声をかけていただく事となりました。
A 歌舞伎座公演での主役を演じられた萬屋錦之助さんには大変親しくお声をかけていただき、何度かご自宅にも呼んでいただき、方言指導のお手伝いをさせていただきました。42年も昔の事で、方言指導の記憶は殆ど忘れかけているのですが、お家を訪ねる度にご馳走になった時の事は忘れておりません。中でも強烈に印象深いご馳走の思い出はスペアリブのステーキです。スペアリブにレモンをかけていただいたあの時の美味しさは、当時の私には、まるで別世界の夢の中のご馳走のように思えておりました。
B 歌舞伎座公演の総監督は、その当時、時代劇映画の巨匠としてあまりに高名な伊藤大輔さんでしたが、私の印象では泣く子も黙る、それはそれは恐ろしい監督というイメージが全身に染み込んでおりました。或る日或る時、この伊藤監督から突然声をかけられ、「おい君、君は今日からステージに上がりなさい」と言われたのです。私は何の事だかさっぱり解からずにうろたえるばかりでしたが、それは役者としてステージに上がり、無言のままで客席に背を向け、萬屋錦之助さん演ずる坂本龍馬のセリフに合わせて、しっかりと背中で反応しなさいという事でした。 泣く子も黙るこの恐ろしい監督の命令に、私はただハイ!!と答える他はなく、その時から約一ヶ月間、私はW無言で背中を演じる役者Wに没頭しなければなりませんでした。
C 歌舞伎座公演が無事に終わって間もない日の事でした。伊藤大輔さんから、まさかの巻紙の手紙が送られてきたのです。その中には私のW背中の演技Wを褒め称えてくださる文面が綴られていたのです。私にとって生涯最高の感動の瞬間でした。残念ながら、この手紙は今私の手元には無いのです。その頃から4回の引越し人生を送っておりますので、多分その時何処かに行ってしまったに違いありません。思い出す度に全身が熱くなる私の青春の記であります。
D 私はこの歌舞伎座でのご縁がきっかけとなり、その時期から8年間、歌舞伎座の中に小さなお店を持たせていただく事になり、その店の名前を「海彦」と名付けました。この海彦には家業であった土佐の珊瑚と酒盗(鰹の塩辛)を置いたのですが、どちらも大の人気で予想をはるかに越える売れ行きとなり、この時から私の中にW商(あきない)Wと言う人生が芽生えてきたのでした。
E 私と家内との出会いは、この時より少し前の音楽教室(エレクトーン)でしたが、彼女は時々この歌舞伎座の店に手伝いに来てくれておりました。彼女が店に立ってくれた時は何故か売上がいつもの倍ぐらいになるのが不思議でなりませんでした。どうやら歌舞伎座のこの「海彦」が私と家内との一番の縁結びの場であったのかも知れません。長男の名前はこの店の一字をとって「成彦」と名付けました。
F その当時、歌舞伎座の隣には「日東コーナー」という喫茶店があり、そこは歌舞伎座関係の人達が集う場所でもありました。私も良く利用させていただいておりましたが、或る日この場所で私の人生を決定付けるニュースを耳にしたのです。それは1975年に、沖縄で沖縄の日本返還を記念する大海洋博覧会が開かれるというニュースでした。私はこのニュースにすっかり心を奪われ、その瞬間から沖縄移住を思い立ったのでした。理由は、沖縄=珊瑚の島=珊瑚は私の天与の業という単純極まりない発想でしかありませんでした。 1972年、私は単身で沖縄に渡り、海洋博ビジネスにとりかかったのです。家内も長男を出産して後、沖縄に来てくれていよいよ二人三脚の人生が開始されたのでした。
G 歌舞伎座時代に知り合った利根川さんという歌舞伎役者さんから、思いもよらない申し出をいただく事となりました。「沖縄に行くのであれば、今自分の手元に親から財産分与されたお金が1000万あるので、沖縄の仕事に役立ててくれませんか。自分が持っていてもお酒に変わってしまいそうなので・・・」と言われるのです。40年前の1000万がどれ程の大金であったか、当時の私にはまるで雲をつくような大金でした。私は考えて考えて考えぬいた末に、このお金をお預かりして、沖縄の銀行に定期預金として預け、銀行利息をそっくり利根川さんにお渡しする事にしました。この定期預金という信用のお陰で、私は沖縄での仕事を大きく前に進める事が出来たのでした。 利根川さんは今は亡き人となりましたが、お元気な頃に、沖縄においでいただき、その際、お預かりしておいたお金とお礼を添えてお返ししたのです。まるで夢のような本当の話です。
H 沖縄に人生の場を移して今年で37年になるそうです。この間、暗中模索の中でたくさんの失敗と成功を繰り返す人生でありましたが、今は4人の子供達も成長してくれて、夫婦二人で何とかプラスマイナス0の人生に至っております。現在は10数年前にご縁をいただく事となったW気功・太極拳Wの魅力に引かれてW元気な100歳人生Wを目指しております。 I 私は伝教大師最澄さんの「一隅を照らすは是国宝なり」という言葉が大好きで、一番の心の支えとさせていただいております。健康づくりを通して人様のお役に立てる事が出来れば、これに勝る私の人生はないと思っているところです。 大きな人生のご縁をいただいた坂本龍馬さんに感謝です。歌舞伎座さんに感謝です。そしてご縁をいただいた全てに大感謝の人生です。 (2010・5・17の記)
写真1:「竜馬がゆく」歌舞伎座公演にて 左 ・坂本龍馬役の萬屋錦之助さん 中央・私 右隣・中村賀津雄さん 写真2:「竜馬がゆく」の原作者・司馬遼太郎先生(中央) 前列右・北大路欣也さん(NHKドラマの主人公) 左は私 写真3:歌舞伎座の写真 | |  |