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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奧田のコラム(NO92)W耳ぐすいWと「あやかりの杜」気功教室 ( 2010/07/28 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 7月の沖縄は、まさに真夏の中の真夏です。私の頭の中に浮かぶ沖縄の真夏の風物詩といえば、海遊びと高校野球とエイサー踊りと最近はマンゴーの味覚というところですが、今年の夏はそれらに加えてもう一つ、強烈な印象が私の脳裏に焼きつく事となりました。それは蝉の声とW耳ぐすいWと言う思いがけない方言とのマッチングに気付かされた事であります。

 私の気功教室の一つに、もう8年近くも続いている教室があって、その教室は今は大きな樹木に囲まれた空間の中でやっているのです。その教室とは沖縄県北中城村にあるWあやかりの杜W気功教室の事です。現在17名のメンバーがいて、この人達は毎週一回この空間に身を置いて、それぞれに大自然、大宇宙とのいのちの交流を楽しんでおられます。この空間には太古の自然が息づいていて、四季折々の変化には目を見張るばかりの気付きをさせてもらえます。

 夏になると、このWあやかりの杜Wの朝は、全てのものが強烈な蝉の声の中に包み込まれてしまうのです。私達の気功教室(9:30〜11:00)もその例外ではありません。以前の私はこのすざましい蝉の声に悲鳴を上げていましたが、近年の私はすっかり変身していて、蝉の声が待ち遠しく思われてならないのです。
 蝉の命は一週間と聞きました。蝉の声はこの一週間の命を全力で生きる為の叫び声である事を知りました。そう思えば蝉の声に無限のいとおしさを覚えずにはいられません。

 そういえば10年程前にも、アメリカのオハイオ州に住んでいる末息子を訪ねた時、たまたまの事ですが、なんと14年に一度しか地上に姿を現わさないという小さな蝉の大群に出会った事があります。私はゴルフを楽しんでいたのですが、私のボールにとまってくれた一匹の蝉の姿がいとおしくて、この蝉がボールから飛び立ってくれるまで、ボールを打つのを待ち続けた時の情景が思い出されます。

 考えてみれば、一週間の命の沖縄の蝉も、14年に一度のアメリカの蝉も、100年を生きられるかも知れない人間の命も、宇宙の中にあっては、ほんのまばたきのようなものかも知れません。
しかしながらどんな姿であれ、この地球上に生を受けたことに変わりはないのです。それぞれの運命をどう生きたかについては、天なる神様が見て判断されるのでしょう。与えられた命を蝉のように全身全霊で生きるのには、人間の命はちょっと長すぎるかも知れませんが、納得の人生を生きる事こそはとても大切な人生の答えであると私は思っているのです。

 さて今回のコラムで伝えたい一番のポイントは、実は次なる出来事なのです。17人のメンバーの中で、私が一番元気の心配をしていた女性のKさんから「この蝉の鳴き声は私のW耳ぐすいWです」という言葉が飛び出したのです。W耳ぐすいWとは沖縄の方言で耳から入って来る薬、つまり命のエネルギーという意味のようです。私はこの言葉が彼女の口から出た事にびっくりしたのですが、暫らくしてから、この驚きは大きな喜びに変わったのでした。彼女の元気は本物になった!!と言う確信が得られたからです。彼女の健康度はどうやら素晴らしく数値の高いところに昇っていて、すでに気功的人間に大変身されておられるのかも知れません。

 一週間の命を生きる蝉の声は、まさに生命の躍動以外の何物でもないのでしょう。Wあやかりの杜Wの仲間たちは、蝉の声は勿論のこと、虫の声、小鳥の声、草花や小川のせせらぎにも耳を傾けられる素晴らしい感性の人達の集まりです。これらの人達と一緒に、一週間に一度、このWあやかりの杜Wに身を置く事の出来る幸せに感謝を覚えるのです。

 沖縄の方言には今回のW耳ぐすいWの他にもW命(ぬち)ぐすいW(口からいただく命のエネルギー)、W目くわっちーW(目からいただく命のエネルギー)、それにW命(ぬち)どう宝W(命こそ最高の宝物)という世界に誇るべき素晴らしい言葉もあるのです。沖縄は「平和」と「自然」と「命」を宝物と考える「守礼の邦」(礼節を尊ぶ邦)であります。この沖縄がいつの日か、必ずや世界の中の宝の島になるに違いないと、私は秘かにそう思っているのです。
(2010・7・28の記)

*7月28日は娘の「有香」の誕生日です。この日にこのコラムが書けた事を私は嬉しく思っています。(WE LOVE YUKA!!)

写真上:山原の自然の中で気功を楽しむWあやかりの杜Wの    メンバー
写真中:山原の滝の前で
写真下:あやかりの杜気功風景


奧田のコラム(NO91) 七夕さまと[天職]に気付かされた日 ( 2010/07/17 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 7月7日は七夕さまの日でした。七夕さまと言えば、子供の頃からたくさんの願い事を短冊に書いて、笹の葉につるした思い出があるのですが、近年の私の七夕さまは、19年前の七夕さまの日に、天空に旅立った母親の事が思い出される日となっております。
 我が家では、と言っても今は家内と二人きりだけですが、母の写真がいつもすぐ手の届くところにあって、事ある毎に声をかけておりますので、七夕の日に特別の行事をする事もなく、母の好物であったWおはぎWと一輪の草花を写真の前に供える程度です。今年は家内が初物のマンゴーを供えてくれておりましたが、翌日にはこのマンゴーはすっかり私の胃袋の中におさまってしまい、母にはちょっと申し訳ない気がしております。

 さて、今年の七夕さまは、私にとっては忘れられない特別な一日になったような気がしておりますので、忘れない為にも今日のコラムに書き残しておこうと思います。
2010年7月7日の早朝、まだ夜が明けきらない頃に、私はもうろうとした意識の中で目をさましておりました。もうろうとした意識の中を思い出してみると、

 @つ目は、(NO90のコラムにも書きましたが)敬愛してやまない恩師の帯津良一先生からW定年後に「天職」に輝いている人Wとして紹介された、その天職についてずっと考えていた事。
 Aつ目は、この日から新しい気功教室(指導者養成コース)がスタートする事になっていて、その事についていろいろと考えをめぐらせていた事。
 Bつ目は、実はこの事が不思議でならないのですが、普段はめったな事では夢にも出てこない母親が、何故かこの日に限って、W今日からまた頑張りなさいよWと、しきりに声をかけてくれていたように思えてならないのです。

 私は眠い目をこすりながら、しばし茫然とベッドに座っていたのですが、今度はそのベッドの上で、ふと思い出した事がありました。それは1〜2ヶ月ほど前のことと思われるのですが、しっかり者の妹から、「スミちゃんが何か始めようとする時は不思議と七夕さん(母の命日)の日が多いよね」と言われた事を思い出していたのです(スミちゃんとは私の事です)。
 そう言われてみれば、以前、私が心血を注いで或るホテルの中に「特選館」というお店をオープンさせたのも1987年の七夕さまの日でした。
 そしてもう一つは、家内の突然の入院がきっかけでW気功の世界Wにご縁をいただく事となり、親しい仲間たちと一緒に、或る公園の片隅で気功道場のようなものをスタートさせ、10年の永きに亘って続けられたのも1996年の七夕さまの日からでした。そして今年の七夕さまです。どうやら私の人生は、7月7日の七夕さまの日に何かしらの深いご縁を戴いているのかも知れません。

 2010年7月7日の朝、そんな事があっての事か、私は心の中で一大決心をしておりました。その決心とは、この日から新しく始まる気功教室を機に、我が気功的人生を「天職」と心得て取り組む事にしよう!!と決心をしたのです。思えば、これまでの紆余曲折の人生は、全てこの日からのための出来事であったと思えば、何もかもが実にすっきりとした気分になれるのです。
 「天職」とは一体何であろうかと辞書を引いてみたら、「生まれながらに備わっている職務」と書かれてありました。私が気功人生と出会ったのは今から14年前の1996年、60歳の時ですから、とても生まれながらに備わった職務とは思われません。そこで一生懸命に考えた末に、私は次の三つの事を自分の天職の条件に掲げようと思いました。

 @天に恥じない事(人生)。それは天と響き合い、天の摂理に学ぶこと。
 A己に恥じない事(人生)。それは誠実にして、うそのない自分である事。
 B父母が喜んでくれる事(人生)。それは仲良く楽しく、人様のお役に立てること。

 以上の三点に共通するものは、仏教の世界で言うところのW他利に生きるWと言うことになるのかも知れません。私の母親の生き方は、今から思えば、まさに誠実そのものでありました。母の口癖の一つは、W情けは人のためならずWでしたが、人様のお役に立てば、その喜びは自分に返ってくるという事でしょう。私のこれからの人生が、「天職」と心得た気功的人生を通して、少しでも人様のお役に立てる事になれば、誰よりも父母が一番喜んでくれるに違いありません。今年の七夕さまの早朝に聞こえてきた母の声は、きっとそういうことであったと私は思っているのです。
 2010年の七夕さまの日からスタートした新しい気功教室は、「天職」に生きられる喜びに満ち溢れているのです。「天職」に気付かせてくださった帯津先生、今年の七夕さま、そして私の自慢のばあちゃん(母)、まことにまことに有難うございました。    (2010・7・17の記)              

写真上:私に「天職」を気付かせて下さった帯津先生
写真中:私の「天職}を応援してくれているらしい        母親の故奧田マリアまさえさん
写真下:7月から始まった指導者養成クラスの風景



奧田のコラム(NO90) 74歳の誕生日に届いた人生のバイブル ( 2010/07/03 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2010年6月26日は私の74歳の誕生日でした。最近の私の誕生日は、その前後に控えている二人の孫の誕生日に挟まれて、めっきり影を潜めている感も無きにしもあらずですが、今回ばかりは、ちょっとしたまさかのハプニングのお陰で、私は秘かに大喜びの誕生日をかみしめていたのでした。

 2010年6月26日、一個の郵便物がポストの中に入っておりました。手にしてみると、それは私がいま最も敬愛してやまない人生の師、帯津良一先生からの著書でした。本の
題名は「定年から輝く生き方」です。
 実はこれまでにも、帯津先生からは事あるごとに何冊かのご本をいただいてはいるのですが、今回ばかりはまさかの誕生日に届いた事もあって、何かしら特別なるW予感と直感Wが私の全身を走ったのです。はたせるかなページをめくっていくうちに、この本はまるで天から届けられた私への教訓と励ましのバイブルとも思える、数々の内容がぎっしりと詰まっているのです。

 私は時折、ふと自分の人生を振り返り、これで良かったのかなーと迷う事も少なくはないのですが、この迷いに対してこの本は、「不運と挫折があってこそ人生は輝いてくるのです」との答えを出して下さっております。そしてまた、私はここ数年来、いつの間にか何かに導かれるかの様に、W気功と太極拳の世界Wにのめりこんでいたように思えるのですが、この疑問に対しても、「それは天に応援された人生です」と書いて下さっているのです。私の心の迷いは74歳の誕生日を境に、今は晴れ晴れと、密かな感謝の合掌に変わっているのです。

 この本「定年から輝く生き方」は帯津先生が意識して書かれた初めての「人生論」だそうです。帯津先生が考える理想の人生とは、人生の最終点までW青雲の志Wを抱きつつ、命のエネルギーを高め続け、エネルギーが最高に高まったところで虚空の中に魂を統合させる事のようです。
 現世にあっては、目先の出世や社会的地位の欲得などはさらりと捨て去り、何事にも動ずる事なく颯爽とした人生を送る事、そして執着心も捨て宇宙の流れの中に身を置けるようになれば、人生は生きていること自体が楽しくてたまらなくなるのだそうです。私のような平々凡々の人間にとっては至難の業と思えるのですが、それでも最近の私は年齢のせいもあってか、帯津先生のおっしゃる事が何かしら、ほんの少しずつ解かりかけているような気がしないでもないのです。

 さて、この本に目を通していく内に、私はまさかのびっくり仰天に出会うことになりました。
この本の第2章、「人生が尻上がりに輝いている人達」の中で、「定年後に『天職』にめぐり合った人」として、紛れもなく私と思える人物が紹介されているのです。あまりの驚きに私は一瞬気を失いかけたのですが、心を鎮めて何度も読み返す内に、一箇所の間違い(今までの蓄財で悠々自適の暮らしぶり)以外は、大体その通りかも知れません。
 人生は何もなくなった時が、もしかして一番悠々自適(風)の人生でいられるのかも知れません。今の私は、プラスマイナス=0 の人生こそが、むしろ一番上々の人生かも知れないと思えるようになっているのです。

 このコラムの終わりに、この本に書かれている帯津流「最後まで輝く人生を送る15の秘訣」を紹介させていただきます。これは、私のこれからの人生になくてはならない、まさに人生のバイブルと思えるものなのです。

その@:希望とときめきを捨てないこと。
そのA:さもしさを排すること。(自分だけいい思いをし ないこと)
そのB:「譲れないもの」という軸を立てること。
そのC:大いなる命に身を任せ、その中で自らの内なる命 のエネルギーを高めること。
そのD:パワフル、ヴァネラブル(相手の痛みが解かるこ と)、メメント・モリ(死を思うこ    と)であること。     
そのE:死生観をもつこと。(死を思うことはより良く生 きること)
そのF:体力・知力をつけること。(体力とは歩けること、知力とはときめきの心)
そのG:気功を行うこと。(気功は虚空に繋がる道、自分 に合った気功を楽しく、長く続けること)
そのH:酒に喜びを見出すこと。(酒を飲めない人は、お 茶でも音楽でも何でも良いから、好きなことを楽しむこと )    
そのI:怒らないこと。(怒ると寿命が短くなる)
そのJ:三毒を追放すること。(三毒とは欲望と怒りと無 知)
そのK:いばらないこと。(威張る人の惨めさは哀れ)* この( )は私の勝手なイメージです。
そのL:「しょうがない」は魔法の言葉。
そのM:上手に悪口を言う。(笑える程度の悪口)
そのN:感謝は陰ですること。(その方がエネルギーは高 まるのです)      (2010・7・1の記)

写真上:私の74歳の誕生日に届いた記念すべき本
写真中:今年の6月13日、帯津先生の[沖縄特別研修会]の時にいただいた本
写真下:最近出版された帯津先生と幕内秀夫(食の研究家)さんとの楽しい対話集
                            


奧田のコラム(NO89) 21世紀養生塾沖縄特別研修会(2010・6・13) ( 2010/06/23 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 天下の名医として大勢の人達から慕われる帯津良一先生をお迎えしての、沖縄健康講演会は今回で14回目となりました。これまでは塾生と一般のお客様を対象とした講演会でしたが、今回は、帯津先生に特別の思いを抱く、21世紀養生塾沖縄の塾生だけを対象にした、60名限定の特別研修会という事になりました。
 今回の会場は、ホテル日航那覇グランドキャッスルの守礼の間という豪華版。昼食を交えた懇親会を挟んで、午前の部、午後の部を併せると、5時間あまりに亘って帯津先生を共有できたのですから、これはまさに沖縄ならではのラッキーです。帯津先生には心からの感謝を申し上げねばなりません。私の記憶を辿りながら、帯津先生の大まかな講演内容をご報告しようと思います。

(T)午前の講演会:「沖縄養生塾生への提言」
・「21世紀養生塾」をスタートさせてから、今年の5月で10周年を迎えることとなりました。現在は川越市にある帯津三敬病院を中心に、北は北海道札幌から南は沖縄・宮古島まで15箇所にそれぞれの支部が誕生し、今年中にはあと2箇所が誕生しそうな気配です。      
実質的にはこの沖縄養生塾が第一番目に名乗りを上げた記念すべき支部であります。

・「21世紀養生塾」を思いついた理由は、一つには自分の目指すホリスティック医学(人間の心と身体と命をまるごと捉える医療)を目指し、それを成就させる為には病院だけに留まっていてはとても実現不可能である事。そしてもう一つの理由は、W養生Wこそが人生の要であって、昔は養生といえば身体をいたわって天寿を全うするといった守りの養生でしたが、21世紀の養生は積極的に、自らの意志で自らの生命のエネルギーを高めていくべきで、病院から一歩外に足を踏み出し、その実現に貢献できる人を一人でも多く輩出していきたいと思ったのです。

・西洋医学は人間の身体を治すのが主目的、東洋医学は人間の身体に宿る心の癒しが主流、実はその両方が人間には必要なのです。私は敬愛してやまない故楊名時先生の太極拳と、呼吸法に主眼を置いたW気功の世界Wにホリスティック医学の重要性を見出しているのです。気功の世界に優劣は無く、自分に合った好きなものを見つけて楽しくやれば、それがその人にとって一番いい気功なのです。気功はWあわもりWをねかせるように、長〜く続ける事が大事なのです。

・元気のもとはWときめきWにあるのです。ときめきこそが人生の要諦なのです。私のときめきはW青雲の志WとW朝の気功と夜の酒Wです。食養についてはあまり神経質になり過ぎないで、旬のものを中心に、食べたい物をときめきの心で食べる事が一番元気になれるのです。但し、ある程度の質と量のコントロールは自覚しなければなりません。

・お酒の島として有名な沖縄県の宮古島は、ガンマーGTPの数値が全国のトップだそうですが、其の事さえも大らかに笑い飛ばせるぐらい宮古島の人達は明るいのです。そのぐらいの明るさが大事な元気の要素でもあるのです。
私のGTPは200です。肝機能を心配して私の病院を訪ねる人達に私の数値を告げると、誰もが大安心の笑顔で帰っていかれます。ですから私はそう簡単にこの数値を下げる訳にはいかないのです(大笑い・・・)。

・心配ばかりで生きながらえる人生よりも、ときめきに生きて、ときめきの途中でばったりの人生を私は願っております。私の理想は、病院の廊下で看護婦さんに抱きかかえられながら逝くか、お気に入りの呑み屋さんから一歩出たところでばったりが一番の理想と思っているのです(大笑い・・・)。

・現時点でのガン患者は約380万人、2015年には500万人を超えるであろうと言われています。ガン克服にとって最も大事な事は、ガンからの不安を取り除く事とされています。上海には有名なWガン倶楽部Wという10,000人程の組織がありますが、そこでの結論も不安感が一番ガンに良くない、という事になっているそうです。ガンの不安を取り除く為には、自らの心を攻めの養生に向ける事が大事です。攻めの養生の最たるものの一つに私は気功をお薦めしたいのです。サイモントン博士のガンのイメージ療法はあまりに有名です。

・人間、若いうちは立身出世を目指すのも良いのですが、立身出世の本来の意味はW徳を積んで聖賢の人になるW事です。聖賢の人とは、自己を生かして人のお役に立てる人間という事でしょう。人間50歳を過ぎたら、出来るだけ競争の原理から離れて、本来の自己を生きるべきでしょう。本来の自己を生きる為には、生涯をかけてW青雲の志Wに立ち向かえるだけの生命のエネルギーを高め続けなければなりません。
それには気功的人生を生きる事が良いと私は考えます。気功的人生とは虚空と一体感を持てる人生という事です。虚空こそは万物の根源の故郷なのです。

(U)昼食懇親会と楊名時太極拳の勇姿
 この日の昼食会は決められた席は無く、誰がどこに座ってもよいのです。帯津先生もその中のどこかに座られたのですが、大方の塾生達は早々に食事を済ませて、帯津先生との写真に収まる事に精を出しておられたようです。
 食事が一段落したところでステージには大きなスクリーンが下りて来て、そこには日本における太極拳の父といわれた故楊名時先生の太極拳を舞う姿が映し出されました。あまりの素晴らしさに会場は暫らくはシーンと静まり返り、感動の中に浸っておりました。私はそのスクリーンに映った楊名時先生の太極拳を初めて目にした時からその魅力に魂を奪われ、遅ればせながらも太極拳人生を歩み始めたのでした。今から8年ほど前の事です。私は楊名時先生を太極拳の神様と思っているのです。

(V)午後のミーティングと新呼吸法「時空」
帯津先生を囲んでの午後のミーティングは、会場の中から急遽、まじめ人間の代表として玉城康雄さん(沖縄国際大学名誉教授)と、おもしろ人間を代表して大城孝心さん(沖縄バス会長)のお二人にステージに上がっていただき、
様々なお話に花を咲かせていただきました。難しいところでは、「生と死について」、「悲しみと希望の人生」、「自然治癒力と本願の場」、「本願と慈悲について」等々。面白くて思わず私の目が輝いたのは「快楽と健康」、「老いらくの恋と長寿人生」で、ピカソやハイネマンやゲーテなどの実例が語られた事でした。
 最後は帯津先生考案による新呼吸法「時空」を参加者全員で実演して、気持ちの良い幕切れとなりました。帯津先生、玉城先生、大城先輩、それに出席をいただいた60名の沖縄養生塾生の皆さん、誠に、誠に有難うございました。また来年、是非ともこの続きをやりたいものですね。                 (2010・6・20の記)
写真上:午前の部「基調講演」風景
写真中:昼食後「楊名時先生の太極拳」の映像
写真下:午後の部・新呼吸法「時空」の実演風景


奧田のコラム(NO88) 東京ー新潟ー横浜の旅 ( 2010/06/07 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 5月下旬、久しぶりに一週間の旅に出る事になりました。近頃は家内と一緒の旅が殆どです。
以前はひとり旅の方が多かったのですが、最近は旅の大まかな希望を伝えてさえおけば、後は家内のなすがままに身を任せている方がどんなに気楽で居られるか、その味を覚えてしまったのです。40年近くも一緒に暮らしていると、どうやら私の旅の好みや、旅先での行動力まで解かるようになっている様で、まあ有難いと思う他はないのです。
 旅といえば、ゆったり、のんびりが私の願いですが、いざとなってみるとなかなかそうは行かなくて、今回もまた目的を消化するのが精一杯の旅となってしまいました。ただ、旅というものはどんな旅であってもそれなりの発見や感動があるもので、今度の旅もそれなりの旅になったのです。

(T)東京訪問の旅 :今回の東京での一番の目的は、今からもう半世紀(50年)も昔に、故郷である土佐の高知を後にして東京に人生の夢を描き、その地に人生の拠点を築いている同期生達の集まり「桂会」に出席する事でした。今年はNHK−TVの大河ドラマ「龍馬伝」のお陰で、故郷が大フィーバーしている事もあって、73〜4歳という年齢ながら24名もの同期生が、元気な姿を見せてくれたのです。
 以前は、73〜4歳といえばまるでじいちゃん、ばあちゃんというイメージがあったのですが、今自分がその年になって思う事は、多少の老化現象は仕方ないにしても、これからが人生の本番という思いが私にはあるのです。W21世紀は100歳を生きる時代であるWと私は確信しているのです。東京湾一周のクルーズを楽しみながら、本当に久しぶりに(5年ぶり位)会えた同期生達と、とりあえず80歳まで元気で再会を誓い合った、楽しい楽しい会でありました。

*同期会が終わって一週間ほど経ってから、会いたくて出席できなかった故郷の友から、故郷名産のWかまぼこと天ぷらWが送られてきて、感動の中で手を合わせていただいているところです。

(U)東京びっくり物語(その一)
 東京での二つ目の目的は、昨年まで家内のお父さんが住んでいた実家に、住む人が居なくなり、わずか20坪あまりの土地に建っていた2階建ての家が、7室のワンルームマンションに生まれ変わったというその姿を見てみることでした。共同使用のリビングルームとキッチンとシャワールームとトイレの他に7室のワンルームがあるのです。しかもその部屋には男女別無く住んでいるというのですから私にはちょっとびっくりなのです。管理人の話によれば今はそれが人気で普通の事なのだそうですから、時代はどんどん変わっているのですね。7室のワンルームマンションにはWプレミアム・・・・Wという豪華な名前がついているのには恐れ入りました。

(V)東京びっくり物語(その二)
 久しぶりの東京訪問という事で、家内の弟夫婦が羽田空港にまで迎えに来てくれて、お昼をご馳走してくれるとの事、義弟は今仕事が順調にいっているらしく、言われるままについていった先は銀座のお寿司屋さんでした。のれんをくぐった瞬間から、ただならぬ雰囲気を感じたのですが、どうやら銀座で有数のお店のようでした。義弟の薦めるままに店主のお勧めコースをいただいたのですが、そのコースの中にはW日本一の食材ですWと言われて出された壽司ねたが数点ありましたので、いささか緊張せずにはいられませんでした。
 後日、銀座の事情を良く知る知人に聞いてみたところ、お昼であっても一人前¥15000は下らないでしょうと言われ、私の人生にはもう二度とあり得ない昼食という事になりました。私と家内の一致した結論は、私達には一人前¥1000ぐらいの回転寿司が一番似合っていて、気兼ねなく美味しく食べれるという事になりました。

(W)新潟訪問の旅 :東京での同期会を終えての夕方、東京駅から上越新幹線で新潟に向かいました。東京ー新潟間はなんと2時間足らずの時代になっているのです。新潟訪問の目的は、新潟にご縁をいただいてその地に居を構えた次男夫婦と二人の孫に会う事でした。ホームに出迎えてくれた二人の孫は私達の姿を見つけるや否や飛び上がっての大喜びです。孫達はその瞬間から私達にぴったりと寄り添って、ことに5歳になる尊(たける)は朝から晩まで、夜中も私達と一緒に寝てくれるのですからもうたまらないのです。沖縄と新潟ですからめったに会う事も無いのに、どうしてこの孫達はこんなに親愛の情を示してくれるのであろうか、私はいまだに不思議でならないのです。
 次男夫婦は厳しい社会状況の中で相当の苦戦を強いられている様子でしたが、こんなにも素晴らしい子宝に恵まれていることを人生の最大の幸せと思えば、どんな困難をも乗り越えられると信じます。次男孫の悠人(はると、1歳半)はお兄ちゃんに優るとも劣らない大物である事を知った事、そしてこの家族を大きく見守ってくれている新潟のご両親に心からの感謝をしながら新潟を後にしたのです。

(X)横浜訪問の旅 :横浜を訪ねたのは、この地に眠る両親のお墓参りと、20年も前に他界した母親のマリア・マサエの名前からとった「マリア会」という集まりに出席する事でした(母親の法事を兼ねた集まり)。
20年も続く「マリア会」の魅力は何といっても母親の偉大な人柄にあったと私は思っているのです。母親の素晴らしさは優しさと、強さと、正義感であろうかと思われます。母の口癖はW仲良くネ、楽しくネWでした。そしてとても腰(頭?)が低くて、小学生の子供にも深々と頭を下げる誠実な人柄でした。私も年年歳歳人生の歩を進めながら、その都度思う事は、この母親こそは私の人生の最高峰に位置する恩師と思えるのです。父は私が中学一年生の時に他界しておりますので、あまり鮮明な記憶は残っておりません。あの母が生涯ついていった人ですから、きっと素晴らしい人物であったに違いありません。
 久しぶりに再会した横浜在住の二人の兄を囲んでの食事会やおしゃべりの会は心に深く染みるひと時となりました。じいちゃん、ばあちゃん(私の両親の事)、いろいろと有難う!!!。
 これからは孫やひ孫の事もよろしくお願いします!!。  (2010・6・6日の記)
写真上:「桂会」全員の写真
写真中:新潟の家族と(新潟競馬場にて)
写真下:横浜「マリア会」兄弟集合写真


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