第32回那覇マラソンスタート風景 沖縄タイムスより 第70回福岡国際マラソンスタート風景 川内選手の雄姿 川内選手のラストスパート 川内選手のゴールイン 川内選手の涙 | 第32回那覇マラソンと、第70回福岡国際マラソンが、2016年12月4日に行われました。この二つのマラソンは毎年同じ日に行われるので、その両方のマラソンに関心がある年は、テレビチャンネルの切り替えに苦労しなければなりません。今年は、私にとってはまさにその年となり、殆ど一日中、テレビの前に釘付けになっておりました。
<第32回那覇マラソン> 那覇マラソンは今年32回となり、今年の参加者数は何と26573人、何時の間にか日本を代表するビッグマラソンに成長しております。今年のマラソンは気温が102年ぶりの28度と言う事で、さすがに完走率は53.2%となりましたが、出場者の皆さんは、それぞれ忘れられない人生の思い出を残されたに違いありません。マラソンは苦しければ苦しい程、その思い出が長く心に残り続けるものです。
実は私は、那覇マラソンには第1回大会から参加しておりました。その時の私は49歳でした。参加した理由はマラソンが好きだったからではありません。むしろマラソンは私の中では雲の上にあるもので、最も嫌いなスポーツでありましたが、どうにも断る事が出来ない事情があっての参加でしかありませんでした。
マラソン嫌いの私がマラソンに出る事が知人・友人の間に拡まり、3K地点と20K地点に応援の¨横断幕¨が準備されている事がスタート直前に知らされ、3k地点は無事に通過したものの、20k迄の道のりはまるで地獄の中をさまよう思いでありました。20k地点では地面を這うが如くに歩いていた哀れな自分の姿が、未だに忘れられない想い出として残っているのです。
その後の私は、或る事がきっかけで奮起し、第4回大会から10年連続那覇マラソンを完走、その間には、ロンドン・メルボルン・ベルリン・ボストンマラソンも完走、1996年にはアトランタオリンピックの聖火ランナー日本代表の一人にも選ばれ、更には沖縄から北海道宗谷岬までの3000Kリレーマラソンにも出場していたのですから、人生は本当に解らないものです。私は数々のマラソンを通して、実に沢山の人生の学びを頂けたと思っています。
私は現在80歳。65歳位からはマラソンとのご縁は遠くなっておりますが、近年は私の姪っ子や甥っ子達が、那覇マラソンに参加するようになり、1年に1回、那覇マラソンで親戚筋が沖縄に集まるようになり、新たな喜びを感じる様になっております。 那覇マラソンを通して、沖縄が再びまた日本有数の健康長寿県に返り咲き、更にはマラソンを通して、世界中の若者達が¨世界の平和¨について学んでくれる事を私は念じて止みません。
<第70回福岡国際マラソン> マラソン界の事を少し勉強してみると、福岡国際マラソンこそは、日本マラソン界を先導してきた偉大なマラソンである事に気付かされます。年々歳々時代は移り、歴代のマラソン界のスター選手達も次々と変わっていく事は仕方のない事ですが、私が今年の福岡国際マラソンで最も気になり、応援したかった選手は、あの公務員ランナーである川内優輝選手でありました。
彼は一昨年の那覇マラソンには30回記念大会と言う事もあって、福岡国際マラソンを断って那覇マラソンに参加して下さり、本物のマラソンの凄さを私達の目に焼き付けてくれました。 彼が那覇マラソンに参加してくれた折、奇しくも彼が半世紀(50年)余りも年齢の違う大学の後輩である事を知る事となり、大会後の懇親会では、私は彼と隣り合わせの席に座らせていただける事となり、(私が一番年上だったからです)あまりに素晴らしい彼の人格に接して以来、私は熱烈なる川内ファンになっているのです。
彼は今年の11月には右ふくらはぎを痛め、福岡国際マラソンの2日前に、今度は左足首を捻挫するアクシデントに見舞われながらの出場だったと聞いておりますが、大方の予想を振り切って全体の3位、日本選手の第1位のゴールをやり遂げたのですから本当に感動物でした。ゴールインした後に見せた川内選手の一筋の涙の姿を、私は忘れる事が出来ません。彼はこのレースに彼のマラソン人生の全てを掛けていたに違いありません。
彼の今回の頑張りは、必ずや来年の世界選手権大会の日本代表に繋がる事でしょう。そして彼のマラソン人生の最終目標こそは、2020年の東京オリンピックに違いありません。川内選手にどんなマラソン人生が待っていようとも、彼がマラソン人生を続けている限り、私は一生懸命、心の応援を続けていこうと心に決めているのです。 川内優輝君、いつも素晴らしい感動を有難う!!。本当に本当に有難う!!。
2016.12.12日の記
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