21世紀養生塾沖縄
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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO257) 「天遊会」20周年記念発表会     (その3)ー奥田清志傘寿の祝いを共にー  ( 2016/10/24 )

 
 火曜・てぃるる上級教室出演者

 
 水曜・あやかりの杜教室出演者

 
 木曜・武道館教室出演者

 
 土曜・豊見城教室出演者

 
 宮古島教室出演者

 
 生徒さん代表から花束を贈呈される奥田代表

 
今から20年前のお正月の夜明けに、私はとても不思議な夢を見ているのです。
その夢とは、白髪の老人が白い衣を身にまとい、滝が落ちる大きな池の中の岩石の上で、実に美しい舞を舞っている夢でした。あまりに美しくあまりの不思議さに、私は我を忘れてその老人に近づき、年齢を聞いたら何と100歳だと言うのです。

私は本当に驚いて、今度は恐る恐る老人の前に回ってそっと顔をのぞいて視たら、何とその顔はまぎれもなく私の顔でありました。私は本当に本当に驚いて、気付いた時にはふとんから飛び起きて、その場に座り込んでおりました。暫く経ってから、私はそばにあった紙に『気功元年・100歳人生』と書き留めていたのでした。
 今から思えば、あの時あの老人が夢の中で舞っていたのは、間違いなく今私達がやっている気功と太極拳をたして2で割ったようなものでした。

私は20年経った今でも、あの日の夢の中の出来事を忘れた事がありません。どうしてあんな夢を見たのであろうかと、何度も自問自答してみるのですが、あれは天なる神様が、¨あなたはこの際しっかりと気功・太極拳の世界を学んで、100歳人生を生きる見本になりなさい¨、とのお告げであったように思えて仕方ありません。
以来20年間、自分なりに一生懸命に気功・太極拳の世界を勉強してきたつもりですが、私は気功・太極拳の原点は、大宇宙の摂理と身心を共にして、呼吸を通して宇宙と響き合う事であると結論付けているのです。

21世紀は¨100歳を生きる時代¨と言われるようになりました。私も同感でありますが、元気な100歳を生きる為には、それなりの心掛けと、天なる神様からの応援もいただける好運に恵まれなければ、100歳人生は至難の業であろうとも思います。

私の母親は生前、口癖のように¨お天とう様が見ているヨ¨、¨天に恥じないようにネ¨、と申しておりましたが、今80歳になって母親の言葉が神言の様に思える時があるのです。
私が今自分に言い聞かせている一番の教訓は、¨天は自ら助くる者を助くる¨であります。とりあえず今は、元気な80歳を生きて、生かされている事に感謝して、これから更なる100歳人生に向けての一歩一歩を歩み続ける事にしようと、心新たにしているところです。
                  2016・10・23日の記



奥田のコラム(NO256) 「天遊会」20周年記念発表会     (その2) −奥田清志傘寿の祝いとともにー ( 2016/10/23 )

 
 指導者養成クラス 奥田泰子リーダーと共に

 
 指導者養成クラス 三枝祥子リーダーと共に

 
 指導者養成クラス 新崎洋子リーダーと共に

 
 指導者養成クラス 垣花美恵子リーダ^ーと共に

 
 指導者養成クラス 喜屋武幸子リーダーと共に

 
 宮古教室の演舞

 2016年10月、私は只今80歳の真っただ中を生きて生かされているところです。80歳になると、まさかと思える身体の変化や異常に気付かされる日々の連続です。
身体のどこも異常が無かった頃は、人間生きている限り、何かのお役にたてる人生であらねばならないと思っていたのですが、80歳になった今は、人間生きている限り、これからは、なるだけ世の中に迷惑をかけない人生を心掛けなければならない、、と思う様にもなってきているのです。

 80歳の人生を振り返ってみると、あまりにいろいろな事があり過ぎて、どうにも筆が前に進みそうにもありません。今日は、私が気功・太極拳人生を送るに至ったいきさつを少し書かせていただき、80歳の区切りにしたいと考えます。

 今から20年前の私は、まだ60歳で元気そのものでした。50歳〜60歳の10年間は、私は何故かそれまでの人生で一番好きでなかった、マラソン人生に明け暮れておりました。そしてこの年、私にとってはまさかと思える三つの大事業をやり遂げておりました。

@ 「日本縦断さくら駅伝3000K走」の仲間の一人として、沖縄波照間島から北海道宗谷岬を目指して駆け抜けておりました。かかった日数は述べ3ヵ月でした。
A ボストンマラソン100回記念大会にもまさかの出場が許され、無事完走を果たしました。
B この年1996年はアメリカ・アトランタオリンピックが開催された年でもありましたが、私は聖火ランナー日本代表の一人に選ばれると言う好運にも恵まれておりました。

 私にとって1996年(60歳)は、まるで夢の中をさまよっているような人生でしたが、人生はいつ何が起こるか、本当に解らないのです。その年の8月の或る日、家内がまさかの突然の事故で、救急車で病院に運び込まれると言うハプニングに見舞われたのです。病院に着いた時の家内の血圧は、上が40で、まさに生死をさまよう状況でありました。
 家内の病院生活は3ヵ月で何とか車椅子で移動できるまでに回復したのですが、そんな中、私は病院のリハビリ室の廊下に張られた一枚の紙に目を奪われました。その紙には「気功で元気になりませんか?」と書かれておりました。

 わらをもつかみたいその時の私は、すぐさまその貼り紙の部屋を訪ね、その日から何が何だかわからないまま、私の気功人生の第一歩が開始されたのです。勿論家内も車椅子で参加しておりました。
 その後の私は、帯津良一・楊名時というその世界の大先生に巡り会える幸運にも恵まれ、いつしか20年の歳月が流れているのです。

 家内はその後すっかり元気になり、今は二人の小さな孫(1歳と3歳)と中学生の孫の世話に悲鳴を上げながらも、私と一緒に、気功・太極拳の助手として私を支えてくれるまでになっております。
 私はその後も増々、気功・太極拳の世界に魅せられ、我が信ずる人生の道を歩ませていただいております。毎日が感謝の日々であります。
                            2016・10・23日の記


奥田のコラム(NO255) 「天遊会」20周年記念発表会      (その1)  ー奥田 清志傘寿の祝いと共にー ( 2016/10/22 )

 
 

 
 20周年発表会プログラム表紙

 
 20周年記念発表会プログラム

 
 帯津先生から贈られた花

 
 生徒さん一同から贈られた花

 
 男性による八段錦・三枝祥子リーダー

 丁度今日で一か月が過ぎましたが、先月の今日(2016年9月22日)、上記の発表会を無事に終える事が出来ました。一か月が過ぎた今でも、しみじみと心に残る、感謝と感動の思いが消えませんので、今日のコラムに少し書かせていただきます。

 今回の発表会に至ったいきさつを申しますと、今年は私の気功・太極拳人生が20年になるのと、たまたま私が今年80歳になった事、それに20(年)+80(歳)=100
という数字のごろ合わせから、私の妹が発案してくれて、天遊会教室の皆さんが賛同して下さり、実現の運びとなったものであります。
何故¨100¨なのかについては、後方のコラムに書かせていただきます。

 さて、今回の発表会には7か所の気功・太極拳教室から60名余りの生徒さん達が参加して下さいました。太極拳歴10年近いベテランも10人程はいたものの、太極拳を始めてまだ一年にも満たない人達も10人位いて、平均すると体験歴4〜5年の混合チームによる発表会でした。
 果たしてうまくいくものか心配の要素の方が大きかったのですが、いざ本番のステージは、出演者全員に太極拳の魂が乗り移ったかのような迫力が感じられて、私は本当にびっくりさせられてしまいました。

 この度の発表会を通して私が学んだ事は、¨一生懸命¨に優る感動のエネルギー源は無いと言う事、そして¨感動¨こそは人生の宝物であると言う事です。
 あの日のステージに立たれた人達の一生懸命は、これからの人生を10歳位若返らせる力になるのではないかと私の目には映りました。出演者の顔は、みんなほれぼれする程に素敵でした。

 この度の発表会は私にとりましても実に意義深いものがありました。気功・太極拳人生に導かれた20年の歴史の中でも、今回の発表会は特別に嬉しく、意義深いものとなりました。そして今回の発表会は、更なる気功・太極拳人生への意義と勇気を与えてくれました。

 この度の発表会に係って下さった全ての方々に、心からの感謝と、心からのお礼を申し上げます。本当に有難うございました。
                 2016・10・22日の記



奥田のコラム(NO254) 感動と感謝の¨リオ・オリンピック2016¨ ( 2016/08/30 )

 
 リオ五輪の最大のテーマは¨地球環境の保全¨

 
 リオ五輪・日本選手団の入場

 
 男子体操団体金メダル(琉球新報より)

 
 男子400メートルリレー・歴史的な銀メダル獲得のメンバー

 
 ブラジルを代表するサンバのリズムとあざやかな色彩に彩られた会場

 
 閉会式の日の丸¨See You in TOKYO 2016¨

 リオ・オリンピックが終わって1週間程が経ちました。
リオと日本との時差は丁度12時間程でしたから、昼夜が真逆と言う状況が2週間あまりも続いたのです。日本中の大多数の人達は、この間、眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。 私も全くその一人でしたが、日本選手団の大活躍(オリンピック過去最多の41個のメダル)には大いなる感銘を受けました。それぞれの競技でベストを尽くされた選手の皆さんには、心からの¨ありがとう¨を伝えたい気持ちで一杯です。

 マスコミ関係の報道では、リオ五輪は大会直前まで準備の遅れや、社会不安や、ジカ熱などの不安材料ばかりが報じられ、出場を辞退する選手も少なくありませんでした。
世界中がリオ五輪の開催を危ぶむ中、いざふたを開けてみれば、リオ五輪は最初(開会式)から最後(閉会式)まで、ものの見事に、ブラジル&リオならではの素晴らしい感動に満ちたオリンピックをやり遂げてくれたのですから、世界中が驚いたに違いありません。まさに¨あっぱれのリオ五輪¨でした。

 今から思えば、リオ五輪には下記の様な思いが込められていたに違いありません。

@ 世界中の友情が一つになるスポーツの祭典である事。
A その国の文化こそは、その国の誇りであり、その国のエネルギーの源である事。
B 21世紀最大の重要事は、地球環境の保全である事。(どんなにその国の経済が栄えても、自然破壊による発展には地球を滅ぼし、人類を破滅させる危険が潜んでいる)。

 リオ五輪を通してテレビに映ったリオ・デジャネイロの街並みは、緑に包まれた美し
い街々でした。リオ市民の顔は屈託のない笑顔に満ちておりました。リオのカーニバル
に代表されるサンバのリズムには、ブラジルの生命の躍動が溢れておりました。私はこ
れまでのどのオリンピックよりも、リオ五輪に熱い声援と拍手喝采を送っていたのでし
た。

 リオ五輪を見るまでの私のブラジル認識度は、日本の真裏にあって、とてつもなく大
きな大陸である事。アマゾンの大河を有する未開の国。サッカーとリオのカーニバル
に代表されるサンバの国、位の事でしかありませんでしたが、リオ五輪のお陰で次の様
な知識を得る事となりました。

@ ブラジルは日本の約23倍の面積を有する大国で、人口は日本の約2倍の2億5000万人。
A ブラジルには既に160万人に近い日系移民とその子孫が住んでおり、日系人はブラジルでは模範的なマイノリティーとしての評価を受けている事。沖縄からの移民の歴史も110年も前にさかのぼる事。
B 現在17万人のブラジル国籍の人達が日本社会の一員として、日本での活動の幅を広げてくれている事。そしてブラジルは世界でも有数の親日国である事、などです。

 2016年のリオ五輪を通して、リオ―東京の友好は勿論の事、ブラジル―日本の友好の輪が大きく拡がり、確固たる友好国になる事を私は強く希望して、今日のコラムを終える事にいたします。ありがとう¨リオ・オリンピック2016¨!!
 9月8日から始まるリオ・パラリンピック2016の成功を祈ります。
                     2016・8・29日の記 



奥田のコラム(NO253) 永六輔さんとの想い出(番外編) ( 2016/07/31 )

 
 永六輔さんが司会をする沖縄ジャンジャン

 
 永六輔さんから紹介される奥田

 
 屋良文雄トリオと一緒に

 
 沖縄ジャンジャンで歌う奥田

 
 亡き母が仕立ててくれた着物を羽織って歌う奥田

 
 日本ビクターから発売された日本民謡のレコードジャケット

 昨日(7月29日)、やっとの事で永六輔さんとの想い出話(NO1,NO2、NO3)を書き終える事が出来てホットしていた矢先、一夜明けての今日になって、それとなく本棚を整理していたら、殆ど私の記憶から消え去っていた永六輔さんとの数枚の写真が出現したのです。

 その写真とは、事もあろうにこの私が30年程も前に、永六輔さんの主催する沖縄ジャンジャンのステージに登場していたのですから、本当にまさかのびっくり仰天であります。どうしてそんな事になったのか一生懸命思い出してみたのですが、大体のいきさつは以下の様な事であったような気がしております。

 その頃の永六輔さんは、さかんに津軽三味線や、能楽や、浄瑠璃の演奏者や、日本民謡などのゲストを、沖縄ジャンジャンにお迎えしておりました。
 たまたま日本民謡の齋藤京子さんが出演された時、何かのきっかけで、私が大学時代に日本民謡にのめり込んで、さかんにジャズとの共演をしていた事が永六輔さんの耳に入る事となり、是非とも沖縄ジャンジャンでそれを再現してみよう・・・と言う事になった次第です。

 その時のステージには、日本民謡には必ず必要とされる三味線も、尺八も、太鼓も何もありません。あるのはその当時、沖縄ジャズ界の重鎮であられた、今は亡き屋良文雄さんトリオの伴奏で、私がタキシードを着て日本民謡を歌ったのですから、果たしてどんなステージになっていたのか、今思い出すだけでも身体中に冷や汗がにじみ出るばかりです。

 そのステージの元となったのは、私が大学を出た直後位に、日本ビクターから出された『ビクターみんなの民謡 奥田清特集』というレコードでした。このレコードが世に出たのは、今から50年程も前の事で、わが青春の想い出として、今も私の本棚の片隅に10枚ほどが置かれたままになっております。

 以上が私と永六輔さんとの想い出の¨沖縄ジャンジャン物語¨です。今回のコラムに書くべきかどうか随分悩んだのですが、私の耳元で永六輔さんがさかんに書け書けと叫んでくれているような気がするものですから、恥を忍んで思い切って書く事に致しました。
                2016・7・30日の記
 


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