| 奥田のコラム(NO212) アメリカ16日間の旅(その一) | ( 2014/10/27 ) | | 私達老夫婦(私78歳と妻68歳)は、10月2日から17日迄の16日間、アメリカ、インディアナ州に住む末息子の家族を訪ねる旅に出ておりました。今回の旅は、二つの目的を心に秘めての旅でした。
第一の目的は、NO211のコラムにも書きましたが、15歳で単身アメリカに渡り、既に20年を越えるアメリカ生活を過ごしている末息子の生活振りを再確認しておきたかった事と、アメリカ嫁との間に生まれた二人の孫(6歳と2歳の女の子)に会いたい一心の旅でありました。
アメリカは国内だけで4時間もの時差がある大国です。息子の住むインディアナ州と日本とでは10時間の時差があり、昼と夜が殆ど真逆の状況下にあるのです。 沖縄から成田空港経由で目的地のオハイオ州、シンシナティ空港に着くまでには飛行機に乗っている時間だけでも16〜7時間。成田―シカゴ空港での乗り継ぎを含めるとまるまる24時間以上の時間がかかる長旅となるのです。
目的のシンシナティ―空港に着いたのは夕方の5時頃でした。空港には息子夫婦と二人のアメリカ孫、それに私達夫婦よりも一足先にアメリカ入りをしていた娘夫婦と1歳2か月になる沖縄孫の合計7人が出迎えていて、遥か彼方から私達の姿を見つけて、必死に手を振ってくれている孫達の姿を目にした瞬間には、長旅の疲れも一瞬どこかに吹っ飛んでおりました。家に着いたのはやや暗くなりかけた夕方でしたので、その日は持参したお土産をオープンして、私は早々の眠りにつかせてもらいました。
翌日の夜はアメリカ嫁のご両親、ご家族、親せき、友人・知人達が大勢集まって下さり、総勢20名位の賑やかな歓迎パーティーを開いてくれたのですが、残念ながら私はパーティーが終わったと言う、夜の10時の2時間前には時差ぼけの疲れに耐えられず、別室のベットの中でダウンしておりました。
さて、息子夫婦はインディアナ州の静かな郊外に家を構え、夫婦共稼ぎながら6歳と2歳の子供を立派に育てておりました。6歳の小学校と2歳の保育園の両方を見学させてもらう事が出来ましたが、日本では考えられない広い空間で、実に伸び伸びとした教育がなされている風景が目に留まり、一種の感動を覚える程でありました。
一年生のANIKA(6歳)には、3年前にも沖縄で会っておりましたが、すっかり成長して、おしゃれで、物静かな美人に育っておりました。2番目のMARIKA(2歳)は、可愛い盛りですが、信じられない程の甘えん坊で、一日中マミー、マミーの連発にはいささか手を焼いてしまいました。アメリカの親たちは子供を全く叱らないのには恐れ入りました。私の子育て時代とはまるで違っていて、今更ながら我が身を反省した部分も少なくありませんでした。
息子夫婦の家は日本ではとても考えられない空間に、広い庭と20人位の訪問者にも十分対応できる広い空間の部屋があり、どうやらこれがアメリカの平均的な家の大きさの様です。 2週間のアメリカ生活で一番驚いたことは、アメリカ生活には¨もったいない¨という文化は存在しないのかも知れないと言う事です。食事は殆どチン・チン生活(レンジかオーブン料理)で、料理に使うスプーン、フオーク、ナイフやお皿、カップ類は全て一回限りの使い捨て、料理も残ったものは殆どそのまま、まとめて袋の中に捨てられてしまうのです。(この時は特別人数が多かったと言う事もあって、食器洗いの手間を省いたのかも知れません)。
息子の家の中に、2〜3のまさかの嬉しい発見もありました。 * 玄関を入ってすぐの床下に、何故か私が昔生んでいた家の表札がシーサーの焼き物と一対になってそれとなく置かれてありました。表札の字は間違いなく私が書いたものです。シーサーは息子が小学生の頃、夏休みの工作で作った作品です。この二つの物が、いつ、どうしてその場所に運ばれてそこにあるのか、そのいきさつを私は知りませんでした。
* 息子が単身留学した時、息子への守り神のつもりで息子に渡した二つの書がリビングに飾られておりました。 一つは私が敬愛してやまない、当時は新進気鋭の書家であられた石飛博光さんに書いてもらった『夢を拓く』という書の額。そしてもう一つは、15歳の息子をいよいよアメリカに一人残してアメリカを離れるとき、万感胸に迫る思いで一枚の便箋に書き残しておいた¨淳平君に贈る言葉¨という私の言葉です。便箋に書かれていた文章は次の様なものでした。『若者は大志を抱き、夢に向かって挑戦しよう。己を信じ、未来を信じ、強く、楽しく、美しく、我が道を行け堂々と』。書いた日付は1993年8月16日となっておりました。 (2014・10・26日の記)
写真上:アメリカ孫と沖縄孫のショット 写真中:アメリカ家族と沖縄家族の大集合 写真下:リビングに飾られている記念の書 | | |