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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO182) 21世紀養生塾沖縄・10周年記念講演会(その三) ( 2013/07/11 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

第二部:帯津先生、前原信一さん、奥田代表のフリートーキング

 第二部は、OTVの名キャスターであられた前原信一さんの司会進行で、実に楽しいフリートーキングが展開されました。前原さんの出された質問の順に、話の内容を要約してみます。
(質問1) 21 世紀養生塾沖縄誕生についての質問がありましたが、この件につきましては前回のコラム(NO180)に詳しく書きましたので省略します。

(質問2)ホリスティック医学について教えて下さい。
 帯津先生:西洋医学は森に例えれば個々の木々を見る医療ですが、ホリスティック医学は、人間丸ごとを観る医療と言えるでしょう。
そして、ホリスティック医学の中核をなすのはホメオパシー医療で、ホメオパシー医療とは、自然界のあらゆるものを用いて病気を回復させる医療です。
気功も太極拳も自然界のエネルギーと一体となった動きですからホメオパシーの範ちゅうにあると言ってもいいのかも知れません。

(質問3)気功と太極拳の違いとその魅力について教えて下さい。
 帯津先生:太極拳も気功の中の一つの動きと捉えて良いのですが、共通する点は、調身、調息、調心の3要素が動きの中にある事です。ことに太極拳の魅力は、その動きの中に一期一会のストーリーがあり、故にそこには感動があると言う事でしょう。感動はときめきを呼び、ときめきはエネルギーを爆発させる最大の要因と言えるのです。
 奥田:とにかく太極拳はやる程に楽しく、深くなり、私は太極拳と出会ってから
¨100歳人生を生きよう¨と思うようになりました。

(質問その4) 帯津先生の一日の様子を知りたいのですが・・・
 帯津先生:夜は10時までには寝て朝の2時に起き、2時半には病院の部屋に入り、積もった仕事を片付けます。朝6時から一期一会の太極拳を舞い、朝食をとり、8時から夕方の6時まで本来の病院業務に専念します。
 6時が来ると一目散に病院の食堂に駆け込み、夕食はいつも¨最後の晩餐¨と言う思いで楽しみます。お酒は毎晩欠かすことは絶対にありません。
私の一日を一言でいえば『朝の気功に(昼の仕事と)夜の酒』です。

(質問その5)帯津先生は映画が大好きだそうですが、映画の事を伺いたいですね。
 帯津先生:昭和26年〜30年代は映画館に入り浸っておりました。その頃に観た「慕情」「エデンの東」「007シリーズ」「駅馬車」「ローマの休日」などは青春の最たる想い出です。

(質問その6)ガンについて何かお話し下さい。
 帯津先生:最近「ガンと闘うな」とか「ガン治療はするな」とかの本が出て話題になっているようですが、正論と極論が混同しているように思えます。その時々の状況を正しく判断する知恵が大事だと思います。

(質問その7)最後に死についてお考えを述べて下さい。
 帯津先生:人は誰もが死に向かう運命にありますが、いかに死ぬかを考えておく事が大事です。
@ 落語家の立川談志さんは¨ふと死んでいたい¨と言ってその通りの人生を終えられました。
A 五木寛之さんは「お釈迦さんのように旅の途中での野垂れ死にが良い」と言っておられますがまだお元気です。
B 私(帯津先生)は大好きな居酒屋の扉に手をかけ、開くときめきの瞬間に、パタリと倒れるか、あるいは病院の中を歩き回っている最中に、ふらふらっとなって看護婦の腕の中に倒れ込む事を理想としています。
 いずれにせよ、死は必ずやって来るのですから、理想とする死の瞬間を2〜3イメージしておいて、イメージ通りに虚空に旅立つことが出来たら最高の人生と言えるのかも知れませんね。
                        (2013・7・11日の記)
写真上:第20回大会・第2部「前原さん司会によるフリートーキング」
写真中:第20回大会第2部・会場風景
写真下:第20回大会・懇親会記念写真


奥田のコラム(NO181) 21世紀養生塾沖縄・10周年記念講演会(その二) ( 2013/07/11 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

第一部:帯津先生のお話『凛として生きる』

 帯津先生は何人かの凛として生きておられる方々を、実名に出してお話されました。
その中から、私(奥田)が強く印象に残った5人の方々を今日のコラムでお伝えします。

実例その@:佐藤初女さん(92歳)
佐藤初女さんは、青森で『森のイスキア』という民宿を営んでおられる方ですが、この民宿で出される¨おにぎり¨の味は、天下一品との評判が高いのです。
そのおにぎりを作られる伊藤さんの歩く姿とさわやかな笑顔も、まさに天下一品で、凛として生きておられる最たるお一人と言えるでしょう。

実例そのA:若尾あや子さん(80歳)
 若尾あや子さんは誰もが知る女優さんですが、今でも美しい目元と、艶のあるお声に魅せられます。
 帯津先生はインターン時代に、東京にある¨六義園¨と言う公園で奥さんと初めてのデートをされたのだそうですが、その時、六義園の中にある¨たいこ橋¨の上で、着物姿の若尾あや子さんとすれちがった事があるそうです。その時の若尾あや子さんの凛とした姿が、今でも脳裏に焼き付いていて、80歳の彼女は今も変わる事がない美しさだそうです。

実例そのB:山田洋二さん(80歳過ぎ)
 寅さんを始めとして、数々の名作映画を世に出された山田洋二監督は、まさに映画一筋の方で、頭の中は映画の事以外にはご自分の病気の事も老いる事も眼中になく、ひたすらに映画の世界を邁進しておられるように見受けられます。夢中になれる世界を生きている人は¨凄い¨としか言いようがありません。

実例そのC:渥美清さん(故人)
 渥美清さんが残されている言葉の中で、大好きな言葉があります。
@ 雨の日の日曜日には床の中で一日中外国の推理小説を読んでいたい。

A 役者たる者、舞台を見に来て下さったお客様が、舞台に投げかける心の手をギューと握りしめることが出来なければ役者ではない。(これは彼が 浅草のフランス座に出ていた頃の言葉ですが、役者たる者のところを、医者たる者と言う言葉に替えてみると、どこかの国の現状を見透かされている思いがしてなりませんね。)

B 役者は秘かに死んでいくのが良い。ただし自分は好きな女性にその場に居てもらいたい。

実例そのD:正岡子規(故人)
 俳人の正岡子規は、若くして結核に倒れたけれど、彼の心の中には煮えたぎる俳句への思いが渦巻いていたように思われます。煮えたぎる情熱がある限り、その人生は最上級の凛とした人生と言えるのではないでしょうか、

結論:凛として生きておられる人には共通点があるように思われます。
@ 顔つきが良い。A 歩く姿が良い。 B 全身にダイナミズムが溢れている。
                            ( 2013・7・10日の記)
写真上:第20回健康講演会・帯津先生の講演
写真中:第20回講演会・会場風景(1)
写真下:第20回講演会・会場風景(2)


奥田のコラム(NO180)21世紀養生塾沖縄・10周年記念講演会(その一) ( 2013/07/07 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

  21世紀養生塾沖縄が誕生して今年で10周年が経ちました。
その養生塾沖縄が主催する健康講演会は、年に2回の開催を目指してきましたので、今回は第20回という記念すべき節目の会でありました。

 21世紀養生塾沖縄とは:帯津三敬病院名誉院長で、21世紀養生塾の創始者であられる帯津良一先生の健康哲学に共鳴し、気功・太極拳・呼吸法など、宇宙の摂理を意識の中心に置き、生命(いのち)のエネルギーを溢れさせ、社会の一隅を照らせる事を目標とする人達の集まりです。

 どうしてそんな会が出来たかについての質問が時々ありますので、この際、おおまかな説明をさせていただきますと、今から15〜6年程前(私が60歳前後の頃です)、私は自分の身内の出来事も含めて、まさかの親しい友人・知人の死に直面する時期が続き、その事について苦悩する日々が続いておりました。

 そんなある日、2002年の事ですが、私は帯津良一先生の講演会に出席しておりました。その時まで私は帯津先生の事は何一つ知りませんでしたので、今から考えるとこれが人生のご縁と言うものかも知れません。私はこの時から帯津先生を我が人生の師と思うようになり、帯津先生をおっかけるようになっていったのです。

 その日の先生のお話は「人間の生命(いのち)は遥かな虚空を旅する永遠の旅人のようなものです」とおっしゃったのです。つまり、「私達の生命は、父母、祖父母の先祖を辿っていくと、最後の最後に辿り着く先は、果てしなく拡がる虚空の循環の中に還っていくのです。つまりは生も死も虚空の流れの中にあるのですから、死を悲しみだけのものとして捉えるべきではない」とおっしゃられた事が、鮮明に私の記憶の中に残っております。

 帯津先生のお話を、虚空から地球上の現実に戻せば:「21世紀の健康づくりは、人間一人一人が自己の責任において、天なる神様からいただいている自然治癒力を高め、生命力を溢れさせていく事、そして地球上での健康人生を全うする為の最大の要因は¨心のときめき¨にある」と帯津先生は申されたのです。

私はその瞬間から、帯津先生に夢中になり、更なる学びを頂きたく、何としてもこの帯津先生と沖縄との御縁を繋いでおかねばならないと思うようになり、一生懸命になっていたのです。そして2003年11月30日、私の願いは現実のものとなり、帯津先生を塾頭と仰ぐ「21世紀養生塾沖縄」が誕生する事となりました。

 21世紀養生塾沖縄の第1回大会は、ご縁があって、当時の東南植物楽園でしたが、あいにく当日は台風21号の襲来と重なり、誰一人としてお客さんは来れないものと思われた悪条件の中、用意した250席余りの会場は、満席の熱気に包まれ、私の生涯に残る奇跡とも思える大会となりました。(コラムNO1〜NO7に記載)

 さて、この第1回大会にはもう一つの大きな出来事が用意されていたのでした。これは帯津先生の計らいだったに違いないのですが、この日帯津先生とご一緒に、日本における太極拳の父とも言われた楊名時先生が同行して下さっていたのです。
その楊名時先生が会場のステージに上がり、80歳の太極拳を披露して下さったのですから、その瞬間は、台風も静まりかえる程の静寂と感動に包まれておりました。

 思えばこの時の楊名時先生の太極拳が、私の魂をゆさぶり動かして、21世紀養生塾沖縄の中核に、楊名時太極拳を存在させて下さり、大いなる生命のパワーを注いで下さっているのですから、帯津先生―楊名時先生―沖縄養生塾に繋がるこのご縁こそは、まさに¨天命¨によるもの以外の何物でもないと私は受け止めているのです。

 残念ながら楊名時先生は8年前に虚空に旅立たれましたが、昨年の暮れには、楊名時先生が残された「日本健康太極拳」との沖縄交流会が開催され、楊名時先生との御縁はその後も繋がっているのです。

 *今回の10周年記念(20回大会)を迎えるにあたっては、何かしらの想い出になる記念品を残したいと思い付き、帯津先生に色紙をお願いしたところ、快くお引き受け下さり、その色紙を当日の参加者全員にお配りする事が出来た事を私は喜んでおります。
 以下はその色紙に添えた私の挨拶文であります。

           ― ごあいさつ ー

 帯津良一先生を塾頭と仰ぐ21世紀養生塾沖縄が誕生して今年で10年となりました。そして帯津先生をお招きしての健康講演会も、お蔭様で20回を迎える事となりました。帯津先生のご厚意と会員各位のお力添えに深く感謝し、心よりお礼申し上げます。

 今回の講演会は、10周年記念と言う区切りの意味を込めて、帯津先生直筆による記念の色紙『今日よりも 一歩前進 良い明日』を本日の参加者全員にお配りさせていただき、感謝の気持ちにかえさせていただきます。

 さて、私は帯津先生とご縁を頂けた事を、私の生涯の喜びと捉えているのです。
今回の記念大会を機に、帯津先生から更なる生命(いのち)の学びをいただき、会員各位の健康人生のお役に立ちたいものと願っております。

 皆々様のご多幸と元気いっぱいの健康長寿を祈念して、10周年記念大会のご挨拶とさせていただきます。

  2013年6月30日

  21世紀養生塾沖縄代表  奥田 清志

*次回のコラムに10周年記念講演会の内容をお伝えいたします。

                 ( 2013・7・7の記)
 
写真上:第1回大会東南植物楽園にて楊先生と帯津先生
写真中:第1回大会での楊先生と帯津先生の太極拳演舞
写真下:記念講演会の記念品・帯津先生の色紙


奥田のコラム(NO179) 77歳の気付きと新たなる誓いの記 ( 2013/06/28 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2013年6月26日、私は77歳になりました。
 昨年までは、ただ時が流れるままに、何となく一年一年が積み重なっていくだけの誕生日という気がしないでも無かったのですが、今年に限っては、まさかの思いがけない身体の変化に気付かされ、それ故にか新たなる決意を自分に言い聞かせねばならない特別な思いの77歳となりました。

 昨年の末まで(具体的には76.5歳まで)は、私は自分の身体に何一つ不自由を感じる事はありませんでしたが、今年になってからふと気付く様になった事は、家内と一緒に歩いていて、自分の速さがかなり遅くなっているのではないかと思うようになった事です。

 そんな出来事が3〜4か月続いたある日、私は近くの運動公園に家内を誘って一周1キロのコースを、お互いがごく普通の歩き方でスタートさせたのですが、何と一周で200メートル、2週で450メートルもの差が出た事に私は愕然としたのです。
 これまでの家内との歩きの中で、家内にこんな遅れをとった事など記憶にないので、この出来事は私にかなりの衝撃を与える事となりました。

 そしてもう一つの身体の変化は、私がこの10年間、ほぼ日課としている私の太極拳に異変が起きているのです。右足立ちのポーズが思うようにならないのです。左足立ちのポーズには変化がないので、私の身体の異変は間違いなく右足のどこかにある事は間違いないのです。
 私はそんな異変に気付く様になってからは、自分なりのトレーニングに励んでいるつもりなのですが、まだ、家内との歩くスピードが縮まる気配もなく、太極拳もかつてのような満足感は戻って来てはおりません。

 先日のコラム(NO177)にも書きましたが、私の郷土の大先輩で、アンパンマンの生みの親であられる やなせたかし さんは、ご本人の著書の中で、「人間は80歳を過ぎると健康の坂は急坂を転がり落ちるように下降線を辿る」と書かれております。とはいえ、やなせたかしさんは、余程の努力のせいかと思われますが、今年94歳というお元気ぶりなのです。

 そしてもう一人、私が最も尊敬する太極拳の恩師、楊名時先生は、70歳の頃の太極拳の映像は、完璧で、映像を視ているだけで身体が震える程の感動が伝わってきますが、80歳を過ぎた頃からは、24式全部の太極拳を舞われる事はほとんど無くなり、後半は奥様やお弟子さん達が舞っておられました。
 上記のお二人の事を思い出しながら、どうやら70〜80歳は人間の健康長寿を決定づける、大きな分岐点なのかも知れないと思うようになり、私は今、まさにその真っ只中に置かれているような気がしているところです。

 私は10年程前から、自分の名刺に¨元気な100歳を目指して¨と書いているのですが、今年になってその言葉に、一点の迷いが生じてきているのです。が、その一方で、私の今の身体の異変こそは、¨天からの試練¨に違いないと思えるところもあり、私は77歳を新しい人生の旅立ちの時と捉えようとしているのです。

 さて、こうしてコラムを書いているうちに、私の耳元にお二人の先生からの声が聞こえてきている様に思えてなりません。
 そのお一人は、ホリスティック医学の世界的なリーダーであられるアメリカのアンドレ―・ワイル博士さんからの声です。『元気のリーダーたる者は、自らがその見本となるべきです。あなたには是非とも¨元気な100歳¨を実現して欲しいものです』。

 そしてもうお一人は、私が敬愛して止まない帯津良一先生からのお声です。
『奥田さん、あなたはいま天職を生きておられる人です。生涯¨青雲の志¨に燃えて迷う事無く、あなたに与えられた天職を全うして下さい』。
 帯津先生のおっしゃって下さる天職とは、具体的には¨気功・太極拳を通して、人々の健康長寿のお役にたてる人生¨と言う事であろうと私は捉えております。

 77歳、私は新たなる心意気に燃えて、楽しく元気に、私の天職を全うする事を誓う事といたします。
             2013・6・26 、77歳の誕生日の記
 写真上:アメリカ孫・ANIKAとMARIKA
 写真中:石垣 拓夢 新潟 尊・悠人
 写真下:77歳誕生日


奥田のコラム(NO178) ニューヨークのYOSHIさんと突然の再会!! ( 2013/06/12 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 それは先週の水曜日(6月5日)、午後3時ごろの出来事でした。殆ど発信専用にしか使っていない私の携帯電話が鳴り始め、なかなか鳴り止まないのです。何かの間違いであろうと思いながら電話を開いてみると、何とその電話はNEW YORKに住んでおられる筈の比嘉良治さん(通称YOSHIさん)からのものだったのには、まさかのびっくり仰天でありました。

 てっきりNEW YORKからの電話だろうと思いながら話を進めていたら、今、沖縄の屋我地に来ていると言うのです。そして、夕方6時ごろには那覇のホテルに帰れると思うので、今夜は久しぶりの再会を楽しみませんか?とのお誘いです。
 私はあまりの嬉しさに小躍りしながら、すぐさま再会にふさわしい場所探しに取り掛かりました。そして決まった所は、妹夫婦の友人が経営している小料理店の¨温石¨(おんじゃく)でした。夕方の6時30分にYOSHIさんをホテルでお迎えして、目的地に着いたのは7時頃。積もる話に3時間余りの時間が過ぎておりました。

 さて、この辺でYOSHIさんの事を少しばかり説明しておかないと、今日の私のコラムは前に進まないので、私の知る範囲での事を、ごく大雑把に紹介させていただきます。
 YOSHIさんは、50年程も前に沖縄県名護市を離れ、東京生活を経て単身ニューヨークに渡り、遂にはロングアイランド大学の名誉教授にまでなられた方です。ご専門は写真家で、その他にも画家、彫刻家、料理研究家、更にはマラソンランナーとして75歳の今でも、仲間達とニューヨークマラソンを走る健脚家であり、世界中を飛び回っておられる元気者であります。

 YOSHIさんの凄いところは、世界中に友達がいて、沖縄からニューヨークに行かれる人達の殆どがYOSHIさんのお世話になっているのです。YOSHIさんはまた、人と人を結びつける名人で、YOSHIさんとご縁をいただいた人は誰もがまさかの人生の拡がりに目覚める事になるのです。

 私とYOSHIさんの出会いは、コラムNO24、25、26、27にも書かせていただいておりますが、それは今から5年以上も前に遡るのです。
 その頃、YOSHIさんは「ニューヨークの散歩道」と言う写真集を出版され(小学館)、その出版記念会で沖縄に帰られた時、お目にかかれる好運に恵まれたのでした。
 私が「ニューヨークの散歩道」に強く心を惹かれたのは、ニューヨークの象徴とも言えるあのセントラルパークでは、あらゆる年齢層の人達が、朝に夕に、ウオーキング、ジョギングを楽しんでおられる事、そしてセントラルパークのあちこちで、大勢の人達がそれぞれの太極拳を楽しんでおられる事が紹介されていたからです。

 YOSHIさんに会ってその辺の事情を聴いているうちに、YOSHIさんは突然「奥田さん、あなたは私(YOSHIさん)と同じ位のマラソン力と思われるので、是非一緒にニューヨークマラソンを走りませんか?」!!、と言われたのです。
 そして別れ際に、差し出した私の太極拳の名刺を見るや否や、「あなたは太極拳の先生ですか、それなら今すぐニューヨークに来て下さい。世界中の人達と友達になれるばかりか、あなたなら先生にもなれます。とにかくすぐ来てください!!」と言って下さったのです。

 私はその言葉を真に受けて有頂天になり、その日からセントラルパークの夢にうなされる日々が続き、とうとう家内と一緒にYOSHIさんを訪ねる事となったのでした。今から5年程前の事です。
 YOSHIさんは大歓迎して下さり、私達夫婦をセントラルパークに案内し、太極拳にふさわしい場所探しや、私達夫婦の太極拳をバチバチとカメラに収めて下さったのです。
 有名なプロの写真家が、名もない太極拳好きの私達夫婦を、しかも天下のセントラルパークで写真に収めて下さったのですから、これは私達夫婦にとっては生涯に亘って忘れる事の出来ない大事件でありました。(後日、琉球新報社の新聞記事に、ニューヨーク特派員の記事と共に写真が掲載されたのには二度の驚きでした。実はYOSHIさんはタイムス、新報のニューヨーク特派員のお仕事もされておられるのです)。

 その日の夜、YOSHIさんのご自宅に招かれ、イギリス人の奥様(通称ミミさん)の美味しい手料理をご馳走になったのですが、その席で約束した事を、5年後の今も私はまだ実行に移していないのです。その約束とは¨必ずもう一度太極拳仲間と一緒に、セントラルパークで太極拳を舞う¨との約束でした。

 毎年送って下さるX,masカードには¨今年もまだセントラルパークはなくなっていませんからね¨と書かれてあるのです。その言葉を見るたびに心を痛めておったのですが、どうやら神様はそんな私に最終のイエローカードを提示されたのかも知れません。6月5日のYOSHIさんとの突然の再会は、もしかして神様の意志のような気がしてならないのです。
 私は再会の¨温石¨の席で、来年こそは必ず5年前の約束を実現させる事を誓ったのです。約束の要点は以下の3点です。

@ 訪問は来年の10月上旬(紅葉が始まりセントラルパークが最も美しい季節)

A 訪問人数は沖縄から15名(15名になると団体旅行扱いになり、料金が安くなる事。そしてもう一つは、受け入れ側としてもベストの人数である事)

B 現ニューヨークの沖縄県人会との交流会も兼ねて、セントラルパークで沖縄音楽による太極拳を舞う事。
  勿論このほかにも、ブロードウエイのミュージカルを見たり、ショッピングを楽しんだりの楽しい旅でもあるのです。
* 今となって心配になるのは、すでにこのニューヨークの旅に参加したいと手を挙げて下さった人が7〜8人もいて、果たして15人で収まるかどうかの心配であります。

¨歓喜のよろこびは突然にやってくる¨との諺がありますが、まさに今の私はその歓喜のよろこびの真っただ中に足を踏み入れたところです。一年半後のセントラルパークに向けて、心身を整え、生命のエネルギーを溢れさせねばならないと、私はしっかりと自分に言い聞かせているところであります。

                     2013.6.12日の記

写真上:セントラルパークでYOSHIさんが撮ってくれた写真
写真中:YOSHIさんの自宅にて(2007年10月)
写真下:温石の前でYOSHIさんと(2013年6月5日)

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