| 奥田のコラム(NO165) -中村勘三郎さんの急逝を悼みますー | ( 2012/12/09 ) | | 中村勘三郎さん死去!!。突然のこのニュースには本当にびっくりで、暫くは言葉がありませんでした。。 第1報を知ったのは12月5日の朝、仕事に向かう車の中でした。享年57歳という若さには無念を覚えずにはいられません。 私は歌舞伎の世界に特別の思い入れがある訳ではありませんが、中村勘三郎さんだけには忘れがたい想い出があるのです。
今からもう44〜5年前にもなる昔の事ですが,1968年から1976年まで8年間、私はご縁をいただいて、東京東銀座にあった「歌舞伎座」の中に¨海彦¨という小さなお店を出させていただいておりました。 そのお店では、私の出身地,土佐の高知の名産品である¨珊瑚¨や¨鰹の塩辛¨などを販売していたのですが、そうなったいきさつについてはコラムのNO86,87に詳しく書かせていただいております。
さて、歌舞伎座の中にあったお店は、殆んどが一階のロビーの一角に並んでおりました。 そのロビーの店先に歌舞伎役者さんが姿を見せる事などめったになかったのですが、何故か一人、ひんぱんにロビーに出没して、あちらこちらのお店にも立ち寄り、まさかの予期せぬ質問を投げかけ、店員さんを大いに困らせていた小さな大役者がいたのです。その人物こそは若き日の中村勘三郎(当時の勘九郎)さんだったのです。
その後の私は、東京から沖縄に仕事の場を移し、いつしか40数年もの時が流れてしまいましたが,勘九郎さんのその後の躍進ぶりには目を見張るものがありました。 平成の中村座を立ち上げた後のニューヨーク公演や、四国の讃岐歌舞伎の復活などはその最たるものでしょうが、歌舞伎界の革命児の名を欲しいままに生きた生涯であったと思います。
今から思えば、勘九郎さんをあれだけ飛躍させた最大の要因は、子供の頃の溢れるほどの好奇心と、はじけるような行動力と、ずば抜けた才能(想像力)にあったのではないかと、私は今になってそう思うのです。
新聞、TV報道から知る知識でしかありませんが、彼の交友関係の広さと深さには驚かされるものがあります。 彼が語った言葉の中に、「類は人を呼び、その類人達が僕にエネルギーをくれるのです」という言葉があるそうですが、彼は人生の全ての出会いを成長への糧として育んでいたに違いありません。
勘三郎さんの座右の銘は¨型破り¨だったそうです。彼が目指した役者人生は¨伝統に培われた型破り人生¨であったのかも知れません。誠にあっぱれな型破り人生であったと、私は彼の生き方に感銘を覚えます。
57歳という早すぎる死は残念、無念の一言に尽きる感もありますが、人の死はすべからく天なる神のなされる事と考える以外に、私には辿り着ける言葉が見つかりません。ただ静かにご冥福をお祈りして合掌するばかりです。 ( 2012・12・8日の記) 写真上:勘三郎さんの写真 写真下:旧歌舞伎座の写真 | | |