21世紀養生塾沖縄
1
  HOME トップページへ戻る
1
  お知らせ・イベント情報
1
  奥田のコラム
1
  21世紀養生塾沖縄とは
養生塾沖縄の概要
奥田代表の活動基幹
帯津塾頭 楊名時先生
1
 
気功教室・太極拳教室
健康倶楽部「天遊会」
帯津良一塾頭の講演会
1
  入会案内・お問合わせ窓口


太極拳・気功教室
健康倶楽部 天遊会
帯津良一塾頭 講演会
奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奧田のコラム(NO88) 東京ー新潟ー横浜の旅 ( 2010/06/07 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 5月下旬、久しぶりに一週間の旅に出る事になりました。近頃は家内と一緒の旅が殆どです。
以前はひとり旅の方が多かったのですが、最近は旅の大まかな希望を伝えてさえおけば、後は家内のなすがままに身を任せている方がどんなに気楽で居られるか、その味を覚えてしまったのです。40年近くも一緒に暮らしていると、どうやら私の旅の好みや、旅先での行動力まで解かるようになっている様で、まあ有難いと思う他はないのです。
 旅といえば、ゆったり、のんびりが私の願いですが、いざとなってみるとなかなかそうは行かなくて、今回もまた目的を消化するのが精一杯の旅となってしまいました。ただ、旅というものはどんな旅であってもそれなりの発見や感動があるもので、今度の旅もそれなりの旅になったのです。

(T)東京訪問の旅 :今回の東京での一番の目的は、今からもう半世紀(50年)も昔に、故郷である土佐の高知を後にして東京に人生の夢を描き、その地に人生の拠点を築いている同期生達の集まり「桂会」に出席する事でした。今年はNHK−TVの大河ドラマ「龍馬伝」のお陰で、故郷が大フィーバーしている事もあって、73〜4歳という年齢ながら24名もの同期生が、元気な姿を見せてくれたのです。
 以前は、73〜4歳といえばまるでじいちゃん、ばあちゃんというイメージがあったのですが、今自分がその年になって思う事は、多少の老化現象は仕方ないにしても、これからが人生の本番という思いが私にはあるのです。W21世紀は100歳を生きる時代であるWと私は確信しているのです。東京湾一周のクルーズを楽しみながら、本当に久しぶりに(5年ぶり位)会えた同期生達と、とりあえず80歳まで元気で再会を誓い合った、楽しい楽しい会でありました。

*同期会が終わって一週間ほど経ってから、会いたくて出席できなかった故郷の友から、故郷名産のWかまぼこと天ぷらWが送られてきて、感動の中で手を合わせていただいているところです。

(U)東京びっくり物語(その一)
 東京での二つ目の目的は、昨年まで家内のお父さんが住んでいた実家に、住む人が居なくなり、わずか20坪あまりの土地に建っていた2階建ての家が、7室のワンルームマンションに生まれ変わったというその姿を見てみることでした。共同使用のリビングルームとキッチンとシャワールームとトイレの他に7室のワンルームがあるのです。しかもその部屋には男女別無く住んでいるというのですから私にはちょっとびっくりなのです。管理人の話によれば今はそれが人気で普通の事なのだそうですから、時代はどんどん変わっているのですね。7室のワンルームマンションにはWプレミアム・・・・Wという豪華な名前がついているのには恐れ入りました。

(V)東京びっくり物語(その二)
 久しぶりの東京訪問という事で、家内の弟夫婦が羽田空港にまで迎えに来てくれて、お昼をご馳走してくれるとの事、義弟は今仕事が順調にいっているらしく、言われるままについていった先は銀座のお寿司屋さんでした。のれんをくぐった瞬間から、ただならぬ雰囲気を感じたのですが、どうやら銀座で有数のお店のようでした。義弟の薦めるままに店主のお勧めコースをいただいたのですが、そのコースの中にはW日本一の食材ですWと言われて出された壽司ねたが数点ありましたので、いささか緊張せずにはいられませんでした。
 後日、銀座の事情を良く知る知人に聞いてみたところ、お昼であっても一人前¥15000は下らないでしょうと言われ、私の人生にはもう二度とあり得ない昼食という事になりました。私と家内の一致した結論は、私達には一人前¥1000ぐらいの回転寿司が一番似合っていて、気兼ねなく美味しく食べれるという事になりました。

(W)新潟訪問の旅 :東京での同期会を終えての夕方、東京駅から上越新幹線で新潟に向かいました。東京ー新潟間はなんと2時間足らずの時代になっているのです。新潟訪問の目的は、新潟にご縁をいただいてその地に居を構えた次男夫婦と二人の孫に会う事でした。ホームに出迎えてくれた二人の孫は私達の姿を見つけるや否や飛び上がっての大喜びです。孫達はその瞬間から私達にぴったりと寄り添って、ことに5歳になる尊(たける)は朝から晩まで、夜中も私達と一緒に寝てくれるのですからもうたまらないのです。沖縄と新潟ですからめったに会う事も無いのに、どうしてこの孫達はこんなに親愛の情を示してくれるのであろうか、私はいまだに不思議でならないのです。
 次男夫婦は厳しい社会状況の中で相当の苦戦を強いられている様子でしたが、こんなにも素晴らしい子宝に恵まれていることを人生の最大の幸せと思えば、どんな困難をも乗り越えられると信じます。次男孫の悠人(はると、1歳半)はお兄ちゃんに優るとも劣らない大物である事を知った事、そしてこの家族を大きく見守ってくれている新潟のご両親に心からの感謝をしながら新潟を後にしたのです。

(X)横浜訪問の旅 :横浜を訪ねたのは、この地に眠る両親のお墓参りと、20年も前に他界した母親のマリア・マサエの名前からとった「マリア会」という集まりに出席する事でした(母親の法事を兼ねた集まり)。
20年も続く「マリア会」の魅力は何といっても母親の偉大な人柄にあったと私は思っているのです。母親の素晴らしさは優しさと、強さと、正義感であろうかと思われます。母の口癖はW仲良くネ、楽しくネWでした。そしてとても腰(頭?)が低くて、小学生の子供にも深々と頭を下げる誠実な人柄でした。私も年年歳歳人生の歩を進めながら、その都度思う事は、この母親こそは私の人生の最高峰に位置する恩師と思えるのです。父は私が中学一年生の時に他界しておりますので、あまり鮮明な記憶は残っておりません。あの母が生涯ついていった人ですから、きっと素晴らしい人物であったに違いありません。
 久しぶりに再会した横浜在住の二人の兄を囲んでの食事会やおしゃべりの会は心に深く染みるひと時となりました。じいちゃん、ばあちゃん(私の両親の事)、いろいろと有難う!!!。
 これからは孫やひ孫の事もよろしくお願いします!!。  (2010・6・6日の記)
写真上:「桂会」全員の写真
写真中:新潟の家族と(新潟競馬場にて)
写真下:横浜「マリア会」兄弟集合写真



奧田のコラム(NO87)W竜馬がゆくW歌舞伎座公演1968、(私の思い出その2) ( 2010/05/18 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 先日のニュースによれば、東京東銀座にあった歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」が、2010年4月末日をもって59年の歴史に幕を下ろし、3年後には新しい歌舞伎座に生まれ変わるとの事です。コラムNO86にも書きましたが、私は郷土の大先輩である坂本龍馬さんのお陰で、今から42年も前に、この歌舞伎座とも深いご縁をいただいておりました。思い起こせば私の人生は、この歌舞伎座にたくさんの出発点をいただいていたように思えます。不思議なご縁のような気がしますので、この機にもう一度それらの記憶を辿っておこうと思います。

@ 1968のNHK大河ドラマW竜馬がゆくWは、全く同じタイトルで舞台を歌舞伎座に移しての公演となりました。歌舞伎座公演での主役(坂本龍馬)は、今は亡き名優の萬屋錦之助(旧姓中村錦之助)さんでしたが、私はNHK−TVでの方言指導がご縁で、再びこの歌舞伎座公演でも方言指導のお声をかけていただく事となりました。

A 歌舞伎座公演での主役を演じられた萬屋錦之助さんには大変親しくお声をかけていただき、何度かご自宅にも呼んでいただき、方言指導のお手伝いをさせていただきました。42年も昔の事で、方言指導の記憶は殆ど忘れかけているのですが、お家を訪ねる度にご馳走になった時の事は忘れておりません。中でも強烈に印象深いご馳走の思い出はスペアリブのステーキです。スペアリブにレモンをかけていただいたあの時の美味しさは、当時の私には、まるで別世界の夢の中のご馳走のように思えておりました。

B 歌舞伎座公演の総監督は、その当時、時代劇映画の巨匠としてあまりに高名な伊藤大輔さんでしたが、私の印象では泣く子も黙る、それはそれは恐ろしい監督というイメージが全身に染み込んでおりました。或る日或る時、この伊藤監督から突然声をかけられ、「おい君、君は今日からステージに上がりなさい」と言われたのです。私は何の事だかさっぱり解からずにうろたえるばかりでしたが、それは役者としてステージに上がり、無言のままで客席に背を向け、萬屋錦之助さん演ずる坂本龍馬のセリフに合わせて、しっかりと背中で反応しなさいという事でした。
泣く子も黙るこの恐ろしい監督の命令に、私はただハイ!!と答える他はなく、その時から約一ヶ月間、私はW無言で背中を演じる役者Wに没頭しなければなりませんでした。

C 歌舞伎座公演が無事に終わって間もない日の事でした。伊藤大輔さんから、まさかの巻紙の手紙が送られてきたのです。その中には私のW背中の演技Wを褒め称えてくださる文面が綴られていたのです。私にとって生涯最高の感動の瞬間でした。残念ながら、この手紙は今私の手元には無いのです。その頃から4回の引越し人生を送っておりますので、多分その時何処かに行ってしまったに違いありません。思い出す度に全身が熱くなる私の青春の記であります。

D 私はこの歌舞伎座でのご縁がきっかけとなり、その時期から8年間、歌舞伎座の中に小さなお店を持たせていただく事になり、その店の名前を「海彦」と名付けました。この海彦には家業であった土佐の珊瑚と酒盗(鰹の塩辛)を置いたのですが、どちらも大の人気で予想をはるかに越える売れ行きとなり、この時から私の中にW商(あきない)Wと言う人生が芽生えてきたのでした。

E 私と家内との出会いは、この時より少し前の音楽教室(エレクトーン)でしたが、彼女は時々この歌舞伎座の店に手伝いに来てくれておりました。彼女が店に立ってくれた時は何故か売上がいつもの倍ぐらいになるのが不思議でなりませんでした。どうやら歌舞伎座のこの「海彦」が私と家内との一番の縁結びの場であったのかも知れません。長男の名前はこの店の一字をとって「成彦」と名付けました。

F その当時、歌舞伎座の隣には「日東コーナー」という喫茶店があり、そこは歌舞伎座関係の人達が集う場所でもありました。私も良く利用させていただいておりましたが、或る日この場所で私の人生を決定付けるニュースを耳にしたのです。それは1975年に、沖縄で沖縄の日本返還を記念する大海洋博覧会が開かれるというニュースでした。私はこのニュースにすっかり心を奪われ、その瞬間から沖縄移住を思い立ったのでした。理由は、沖縄=珊瑚の島=珊瑚は私の天与の業という単純極まりない発想でしかありませんでした。
 1972年、私は単身で沖縄に渡り、海洋博ビジネスにとりかかったのです。家内も長男を出産して後、沖縄に来てくれていよいよ二人三脚の人生が開始されたのでした。

G 歌舞伎座時代に知り合った利根川さんという歌舞伎役者さんから、思いもよらない申し出をいただく事となりました。「沖縄に行くのであれば、今自分の手元に親から財産分与されたお金が1000万あるので、沖縄の仕事に役立ててくれませんか。自分が持っていてもお酒に変わってしまいそうなので・・・」と言われるのです。40年前の1000万がどれ程の大金であったか、当時の私にはまるで雲をつくような大金でした。私は考えて考えて考えぬいた末に、このお金をお預かりして、沖縄の銀行に定期預金として預け、銀行利息をそっくり利根川さんにお渡しする事にしました。この定期預金という信用のお陰で、私は沖縄での仕事を大きく前に進める事が出来たのでした。
 利根川さんは今は亡き人となりましたが、お元気な頃に、沖縄においでいただき、その際、お預かりしておいたお金とお礼を添えてお返ししたのです。まるで夢のような本当の話です。

H 沖縄に人生の場を移して今年で37年になるそうです。この間、暗中模索の中でたくさんの失敗と成功を繰り返す人生でありましたが、今は4人の子供達も成長してくれて、夫婦二人で何とかプラスマイナス0の人生に至っております。現在は10数年前にご縁をいただく事となったW気功・太極拳Wの魅力に引かれてW元気な100歳人生Wを目指しております。
 
I 私は伝教大師最澄さんの「一隅を照らすは是国宝なり」という言葉が大好きで、一番の心の支えとさせていただいております。健康づくりを通して人様のお役に立てる事が出来れば、これに勝る私の人生はないと思っているところです。
 大きな人生のご縁をいただいた坂本龍馬さんに感謝です。歌舞伎座さんに感謝です。そしてご縁をいただいた全てに大感謝の人生です。      (2010・5・17の記)

写真1:「竜馬がゆく」歌舞伎座公演にて
    左 ・坂本龍馬役の萬屋錦之助さん
    中央・私
    右隣・中村賀津雄さん
写真2:「竜馬がゆく」の原作者・司馬遼太郎先生(中央)
    前列右・北大路欣也さん(NHKドラマの主人公)
    左は私
写真3:歌舞伎座の写真   


奧田のコラム(NO86) 土佐の高知と坂本竜馬、私の思い出(その一) ( 2010/05/04 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 5月のゴールデンウイークが始まり、日本中の大移動が報じられています。
今年一番の人気スポットは、W土佐の高知の桂浜Wだそうですが、これは言うまでもなくNHK−TVの大河ドラマW龍馬伝Wによるものだと思われます。何故なら、この桂浜の丘にW龍馬伝Wの主人公である坂本龍馬の勇姿の像が建てられているからです。
 私はその土佐の高知に生まれ育っているのですが、実は今から42年も前に、坂本龍馬さんとはちょっとしたご縁をいただいているのです。今になって人生を振り返ってみると、何かしらその時のご縁が脈々と今に生きているように思えて、今更ながら大いなる不思議を覚えているのです。2010年の日本の主役はどうやら坂本龍馬のような気がします。この機に42年前のご縁に思いを馳せながら、坂本龍馬さんに心からの敬意を表したいと思うのです。

 思い出の記(その一):NHK大河ドラマW竜馬がゆくW            in1968
 NHK−TVの大河ドラマW龍馬伝Wが人気を呼んでいるようですが、その主人公の坂本龍馬が日本人の主役に躍り出たのは、国民的作家と云われる故、司馬遼太郎さんの小説W竜馬がゆくWにある事に異を唱える人は誰もいないと思われます。そして42年前の1968年、このW竜馬がゆくWが,NHK−TV大河ドラマ(毎週日曜夜8:00〜)の第一号作品として登場したのでした。42年の時を経て、再び坂本竜馬を主人公としたW龍馬伝Wが日本中を熱くしている事に、私も大喜びをしている者の一人です。W龍馬伝Wの主人公を演じている福山雅治さんもそれなりに素晴らしいのですが、42年前の主人公を演じた若かりし頃の北大路欣也さんもなかなかのものでした。

 40数年前の私は東京に住んでおりましたが、或る時から高知県東京事務所の推薦で,NHK−TV大河ドラマW竜馬がゆくWの方言指導のお手伝いをすることになりました。どうしてそうなったかを理解していただく為には、いったん話を大きく横道にそらさなければなりません。
 私は大学受験のため、土佐の高知から上京し、一浪してどうにか大学には入れたのですが、入るや否や、或る日、下宿のラジオから流れてきたW津軽山唄Wという日本民謡に魂を奪われる事になり、その時から大学の勉強よりも日本民謡とジャズの結びつきの世界に没頭する日々が続く事になりました。

 そうしている内、日本のジャズ界の草分けとして知られる水島早苗さんとのご縁をいただく事となり、その当時盛んであったW労音WやW民音Wのステージに立ったり,NHKの洋楽器の伴奏による日本民謡の番組などに出演している内に、運命の時は訪れたのでした。当時一番の人気番組であったNHKのWふるさとの歌まつりWというテレビ番組が、まさに私のふるさとの土佐の高知で開催され、その舞台に出演させていただいたのです。この事がきっかけとなり、ふるさとの大応援団が組織され、私は生まれて始めての、まさかのレコードを出さねばならない羽目になったのです。レコードのタイトルは、その時同時進行していたNHK大河ドラマW竜馬がゆくWそのものでした。私が大河ドラマの方言指導に推薦されたのは、どうやらこんなところに理由があっての事と思われます。

 さてさて、42年前の坂本龍馬さんとのご縁は、42年の時の流れと共に、殆ど忘却のかなたに消え去っていたのですが、今年のNHK大河ドラマW龍馬伝Wに再びその龍馬さんが甦ってくる事を知り、家内にレコードの存在を尋ねてみたところ、ダンボールの中から数枚のレコードが姿を現してくれたのです。そして、そのうちの何枚かにまだ音が残っている事が判明し、義弟がレコードからCDに音を移してくれて、この歌W竜馬がゆくWは間一髪のところで
この世からの消滅を免れたのです。私にとりましては、誠に懐かしい青春の思い出の一品であります。

 42年前のW竜馬がゆくの物語Wを振り返りながら、殆ど忘れかけていて、忘れてはならない大事な事に気付かされている昨今の私です。それらをここに書き留めて、これからの人生に生かさねばならないと心に誓っているところです。

*私が今日あるのは、まさにふるさとのお陰、そして気まま な人生を生き続けていた私を陰ながら支え続けてくれた  数々の友人・知人、そして家族のお陰である事を忘れては ならないのです。

*W竜馬がゆくWをこの世に出してくださった司馬遼太郎先 生には、特にお礼を申し上げねばなりません。歌の誕生を 喜んで下さり、励まして下さり、更には私の目の前で色紙 に書をしたためて下さり、この時の色紙の言葉W根で考え 天に伸びよWは、今の私の人生哲学として深く私の心の中 に存在してくれているのです。

*私はすっかり忘れていたのですが、このレコードの誕生に は家内が一役かってくれていたのでした。今年の2月、彼 女の実家から一枚のW竜馬がゆくWのレコードが出てきた のだそうです。そのレコードにはW森 泰子さん(家内の 旧姓)へ、ありがとうございましたWという私のサインが 入っているのです。家内に尋ねてみたら、家内はピアノ伴 奏で私の歌の練習を手伝ってくれていたとの事です。この 時の彼女はまだ音大の学生さんでした。これがきっかけで 奥さんになったのかも知れませんが、奥さんになった為に たくさんの苦労の人生をさせたような後悔も私にはあるの です。でも人生はこれからが本番という思いもまだあるの です。元気いっぱいの長生きをして恩返しをしなけれ   ば・・・と思っているところです。

・このW竜馬がゆくWのレコードの誕生は、まだ更なる龍馬 さんとのご縁に繋がっていくのですが、それは次のコラム(NO87)に書かせていただきます。(2010・5・3 の記)
写真上:桂浜に立つ坂本龍馬の勇姿
写真中:奥さんに贈った竜馬のレコード
写真下:司馬遼太郎先生から贈られた色紙


奧田のコラム(NO85) ザ・マスターズ2010とミケルソンのV−3!! ( 2010/04/23 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 ゴルフ大好き人間の私にとって、毎年4月に開催されるマスターズゴルフと7月に開催される全英オープンの数日間だけは、昼夜を逆転させながらも、どうしても見逃す事の出来ない重要な人生のイベントという気がしております。
 ザ・マスターズ2010は、アメリカのフィル・ミケルソン(39歳)が、4年振りにV-3を成し遂げ、ミケルソン大ファンの私にとっては、これ以上は望めない最高のラストシーンを目にする事が出来て、こんな嬉しい事はありませんでした。
 
 今年のマスターズは、ゴルフの怪物とまで言われるあのタイガー・ウッヅの空前絶後とも思えるW不倫大騒動Wの中で幕を開けただけに、もしかして、それでもタイガーが優勝する事になれば、紳士の最高峰スポーツと言われ続けてきたザ・マスターズの将来は、これからどんな事になってしまうのであろうか・・・?!!と、大多数のパトロン達(マスターズのファン)は、かたずを呑みながら、今年のマスターズ見ていたに違いありません。私も全くその中の一人でしたが、幸いにも結果は、タイガーとは正反対の人生観を生きているフィル・ミケルソンに凱歌が上がり、ゴルフの神様はやはり、しっかりとゴルフ界のあるべき方向を示唆して下さっていたように思えるのです。

 ザ・マスターズに対する私のささやかな知識と、2010年のVを果たしたミケルソンの人柄のほんの一部をここに記して、ゴルフというスポーツこそは、やはり紳士、淑女のスポーツであらねばならない事を、改めて自分自身にも言い聞かせておこうと思うのです。

 1934年にアメリカ・ジヨージア州のオーガスタに誕生したこの大会(この時はまだマスターズという名称ではなく、第4回大会からザ・マスターズが正式な名称となったのだそうです)は、以来74年の歴史を刻みつつ、今では名実共に世界最高峰に位置づけられる大会と成りましたが、そのマスターズをこの世に誕生させ、その発展に心血を注いだボビー・ジョーンズの事を記せずして、いかなるマスターズも語れる筈は無いのです。ボビー・ジョーンズの人柄、人間性を語るに当たっては、あまりにも有名な言葉が『スポーツよさらば』という本の中に書き残されております。この本の著者は、当時のスポーツジャーナリストとして歴史にその名前が刻まれているポール・ギャリコです。以下はその文章です。

『多年に亘るスポーツ界の有名人との接触を通じて、それこそ名士であると同時に、あらゆる点から見て紳士であり、マスコミのスターでもありながらも立派で清潔な人間性、そして私がその人物を知るようになって以来、私が掲げている評価をただの一度も裏切られた事のない人物はただの一人しか居ない。その人こそはボビー・ジョーンズである』(「ザ・マスターズ」、サイマル出版会より)。この言葉は、一個人に捧げられた賛辞としては、これをしのぐ文章は無いとされるものです。まさにボビー・ジョーンズは、ゴルフ界のW球聖Wと呼ばれるのにふさわしい人物だったのでしょう。

 さて、2010年のマスターズを制したフィル・ミケルソンですが、彼の人柄、人間性については、すでに世界中にその名声が響き渡っているようです。私のように、やや古き日本人的な考えから抜け切れない者にとっては、唯ただ心の中で最敬礼をする他ないのです。彼はどんなビッグな大会であろうが、優勝を目前にしていようが、例えば奥さんのお産の報が届くや否や、迷うことなく試合を放棄してお産に駆けつけることを優先させた人物として報じられています。昨年の全英オープンの際には、奥さんとお母さんに乳がんが発見され、それまで続いていたメジャー大会61連続出場という大記録をも中止して、お二人の闘病生活に付き添われたのだそうです。そして今年のマスターズです。
 今年のマスターズには帽子にW乳がんの早期発見と撲滅運動Wを訴えるピンクのリボンをつけて試合に臨み、遂にはマスターズ3度目のVを成し遂げたのですから、これは本人にとっても、ご家族にとっても、全ギャラリーにとってもこれ程の感動的な出来事は無かったに違いありません。

 優勝を決めた最終ホールの脇に待ち構えていた奥さんと3人の子供達を囲んで、熱く、長く抱き合ったあのシーンに涙しない人は居なかったのではないでしょうか。私も思わず涙が溢れてしまいました。私は今年のマスターズにはあのボビー・ジョーンズの魂がフィル・ミケルソンに乗り移っていたような気がしてなりませんでした。それ程奇跡的な優勝だったように思えるからです。
 やはりゴルフは紳士、淑女を代表するスポーツであって欲しいものです。いや絶対そうであらねばならないのです。それこそが、この世にマスターズという、まるで夢物語とも思える大舞台を誕生させてくれたW球聖Wボビー・ジョーンズへの恩返しであると私は思っているのです.。                    (2010・4・20・の記)


(NO84) やったぜ沖縄興南、全国制覇2010の春!! ( 2010/04/09 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2010年4月3日。第82回選抜高校野球の優勝決定戦で、沖縄興南は強豪中の強豪と言われた日大三高(東京)を10対5で破り、遂に念願の全国制覇を成し遂げたのです。この快挙に沖縄全島は燃えました。沖縄興南の我喜屋監督をして「まるで夢の中の出来事のようです」と言わしめたのですから、今回の優勝は大いなる予想外の出来事だったのかもしれません。

 振り返って見ると、昨年の沖縄興南は春、夏と連続して甲子園に出場していながら、いづれも初戦で敗退しているのですから、よほどの悔し涙が身に沁みていたに違いありません。今年の興南野球には目を見張るばかりの力強さと、自信の笑顔が満ち溢れていたのです。興南ナインは初戦から、まるで野球を楽しむかのように、時には奇跡とも思えるような信じがたい戦いを勝ち抜いて、勝利の階段を昇りつめてくれたのでした。この奇跡とも思える試合の過程をもう一度振り返りながら、私は永く自分の記憶の中に留めておきたいと思うのです。

・一回戦(3/26、金)。初戦は関西高校(岡山)を相手に、まるで昨年の事が嘘のような軽やかさで、甲子園を楽しむかのような勝利でした。(4対1)

・二回戦(3/29、月)。対戦相手は野球の名門校、智弁和歌山です。私はとりあえず初戦を突破したのだから負けてもともと、気楽に行こうぜ!!とテレビの中の興南に声をかけていたのですが、あれよあれよという間に、結果は7対2の楽勝でした。

・三回戦(3/31、水)。準々決勝の相手は、日本中にその名をとどろかせる天下の帝京(東京)。
まさかのびっくりは、この天下の帝京を相手に5対0の完封勝ちをしたのですから、この瞬間から沖縄興南への期待度は一気に舞い上がざるを得ない事になってしまったのです。

・ 四回戦(4/2、金)。いよいよ大事な大事な準決勝。しかしながらこの日の対戦相手こそは、今大会優勝候補NO1の呼び声高い大垣日大(岐阜)なのです。興南ナインも興南応援団も覚悟を決めて、誰もが運を天に祈ってこの試合に臨んだに違いありません。私も全くその一人でしたが、結果は島袋投手―砂川投手による完封と、山川捕手のホームランや、我如古主将を中心とした打線の爆発で、何と10対0の完勝です。一体誰がこんな結果を予想出来たのでしょう。日本中の誰一人としてこんな結果を予想できた人はいなかった筈です。この試合が終わるや否や、臨時便による沖縄から甲子園への大移動があったのだそうです。

・最終戦(4/3、土)。遂に天下分け目の優勝決定戦の時が訪れました。この日の沖縄は朝から異様な雰囲気に包まれておりました。私事ですが、毎週土曜日の午前中は、気功教室を主催していて、殆ど休む人はいないのに、この日は朝からおよそ半数の人達から「今日は都合でお休みします」との電話が入るのです。出席した生徒さん達も何処か気がそぞろなのです。沖縄のマブイ(魂)は完全に甲子園に注がれていたのです。
 試合は9回を終えて5対5、まさに手に汗を握る接戦です。どうして野球の神様はこんなにも凄い試合をさせるのでしょう?!!。私の家内などは殆ど興南とは無縁の人と思えるのに、それでも心配のあまり、心臓がドキドキしてテレビが観れずに、ベットにもぐりこむ有様ですから、興南選手の親戚や関係者の心中たるや、想像を絶するものがあったに違いありません。

 延長12回、この熱戦は興南、島袋投手の198球の熱投で幕が下ろされました。10対5で興南の勝利です。我喜屋監督は試合後「選手とお客さまの応援と沖縄の総力で勝たせていただきました」とコメントされました。選手たちも異口同音に「全員野球と応援のお陰で勝てました」と、誰もが感謝の言葉を忘れませんでした。素晴らしい興南球児達だと思いました。おめでとう興南!!。数々の感動を有難う!!。君達は、我喜屋名監督の下に、名実共に日本一の野球選手です。又夏に燃えてください。    (2010・4・8日の記)
   写真:琉球新報より

- Topics Board -
前ページページ移動次ページ

 


 

 

このページのトップに戻る