21世紀養生塾沖縄
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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


(NO83) 特別に嬉しい出来事・二題 ( 2010/03/30 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 つい最近の事ですが、私は特別に嬉しい2つの出来事に恵まれました。あまりに嬉しくて、何度思い出しても幸せになりますので、今回のコラムに紹介しようと思います。

(T)宮古島で出会ったフランス人のマリーさん

 私は3年程前から宮古島とのご縁をいただく事になり、初めの2年間は毎月1回、3年目ぐらいからは、家内共々で2ヶ月に1回の割合で訪問させていただいております。訪問の目的は、宮古島に「21世紀養生塾」という21世紀の健康づくりを目指す会の宮古支部が誕生して、私達はその会のお手伝いをさせていただいているのです。今回の訪問は3月20日〜21日でした。

 3月20日の夕刻、いつもの宿泊先であるサザンコースト宮古島にチェックインを済ませた後、ウオーキングを兼ねてちょっと早めの夕食に出掛けた時の事でした。パイナガマビーチに沿った大通りに面して、なにやら気になるショップがオープンしていたのです。思わず足を止めて中に入ってみると、そこはフランス製の小物(アクセサリー、お菓子類、子供の衣類等々)の販売とティールームが一緒になったショップでした。これまでの宮古島には無い雰囲気のショップで、中には感じの好い外人の娘さんが忙しそうに振る舞っておりました。
 私達は、家内が小さな亀のアクセサリーを見つけ、私は美味しそうなクッキーを選び、カフェオレを注文して、しばらくカフェオレの出来上がるのを待っていたのでした。と、その時、バタン!!という大きな音がして電気が消え、一瞬小さなパニック状態となり、店員さんも戸惑いの様子を隠し切れない数分間が続きました。
原因は、コーヒーのお湯を沸かしている内に電気の容量がオーバーして、ブレーカーが落ちたのでした。

 さて、数分間のパニック状態も納まり、美味しいカフェオレもいただき、買い物とコーヒー代を支払おうとしてお金を出したところ、どうしても私達の計算と違う余分のおつりが返ってくるのです。何度念を押しても同じ答えが返ってくるので不思議に思い、彼女のカタコトの日本語と、私のカタコトの英語(私はフランス語はジュテームぐらいしか知りません)を交えた問答の末に解かった事は、私の買ったクッキーの代金が計算されていないのです。その理由は、パニックでご迷惑をかけたお詫びの気持ちだと彼女は言うのです。私達は,NO PROBLEM!!、そんな事気にしないで下さ
いと懸命に伝えたつもりですが、彼女の心意気には勝てませんでした。いまどきこんな心遣いをしてくれる人が、一体日本のどこに居るのでしょう・・・?!!。
私は何度思い出しても心が熱くなってしまうのです。

 彼女の名前はマリーさん。このショップのオーナーはフランス人で、オーナーの奥さんは私と同じ四国の出身との事。私は何かしらご縁を感じてしまいました。マリーさんは6ヶ月のビザで日本に来て、宮古島にはまだ2週間の滞在だそうです。彼女の6ヶ月のビザが切れるまでには、私はまだ2回宮古島を訪ねる事ができるので、今からマリーさんに会えるのを楽しみにしているのです。
私はこのショップとマリーさんを通して、宮古島とフランスとのご縁が大きく拡がる事を夢に描いてみたくなっているのです。

  (U)玄米2升のおにぎり物語

 心にしみるもう一つの出来事は、玄米2升分のおにぎりを作って持参してくれた櫻井洋子さんの物語です。今でも沖縄にはこんな人が居てくれるのです。
 昨年の3月から、那覇市のおもろまちにある「平田クリニック」の4階で、気功と太極拳による健康づくりの会が誕生して、櫻井さんは今年の3月からこの会に入会された生徒さんです。入会するにあたって、先輩の皆さんへの挨拶代わりにと、何と玄米2升分のお米を炊き、おにぎりにして持参してくれたのです。玄米2升のおにぎりの量と重さが、どれ程のものか、それはそれは凄いのです。しかもおにぎりの大きさたるや、2升分のご飯の量÷15個(会員の数)ですから、一個の大きさはローソンやファミマで売っているおにぎりの10倍はあるのです。15個のおにぎりは月桃の葉っぱで丁寧にくるまれておりました。誰もが感動の中でこの玄米のおにぎりを手にした事は言うまでもありません。私も櫻井さんの心意気に度肝を抜かれてしまい、すっかり櫻井さんのファンになってしまいました。
 
 玄米はいまや世界有数の健康食としてその評価が定着してきております。私も自分の体験を通してそれを確信しているのですが、私の目指している健康倶楽部の中に、櫻井さんのような生徒さんが入会してくださった事に、大きな喜びと勇気をいただいている昨今です。私の櫻井さんへのご恩返しは、私の持てる健康の知識(気功・太極拳・呼吸法)の全てを投入して、この方の元気人生のお役に立てる事と思っております。櫻井さんの玄米力と私の気功的人生の知恵を組み合わせれば、必ずや素晴らしい健康人生が実現するものと確信するのです。櫻井さん、力を合わせて頑張りましょう!。目指すは元気な百歳青春です!。櫻井さん有難う!。櫻井さんに脱帽です!。(2010・3・30の記) 
  写真上:マリーさん
  写真下:ショップオーナーとご家族一緒に                             



(NO82) ピカソの鳩とバルセロナ美術館 ( 2010/03/18 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 2010年2月から3月にかけて、沖縄県浦添市美術館では「ピカソと20世紀の巨匠たち」という絵画展が開催されていて、かなりの賑わいを見せているようです。先日、私も心をときめかせながら訪ねてみたのですが、お目当てのピカソの作品は大小10点ほどで、あまりなじみが無いものばかりだったせいか、私のときめきは半分程に縮まっておりました。
 ところがです。その会場に流れていたWピカソの風Wに身を任せている内に、私は殆ど忘れかけていた30数年も昔の出来事を思い出していたのでした。あまりにも懐かしい想い出故に、今日はその想い出をもう一度辿りながら、今回のコラムに書き残しておこうと思うのです。

 それは正確には今から32年も昔の事です。当時は、まだバリバリの元気で世界中を駆け巡っていた感のある、私よりは9歳年上の兄(コラムNO44に記載)に連れられて、私は南欧の旅に出掛けました。旅の最初に立ち寄ったのはスペインのバルセロナでした。絵画が大好きだったその兄の影響によるものかも知れませんが、私も絵が大好きで、バルセロナでの一番の目的は、その地にあるピカソの美術館とミロの美術館を見て回る事でした。残念ながらミロの美術館は閉館日に当たっていて、ご縁をいただけなかったのですが、ピカソ美術館では目を見張るばかりのピカソの絵画に囲まれ、今思い出しても、まるで夢の中を彷徨っていたような記憶が残っているのです。
 そんな中、私の心の中にすんなりと入ってきてくれて、私を大いに喜ばせてくれたのは、何気ないピカソのスケッチ画や、色彩豊かなクレヨンの絵で、中でもピカソの描く鳩の絵に、私はすっかり心を奪われていた事を、いま懐かしく想いだしているところです。

 バルセロナ美術館の売店には、それはそれは魅力いっぱいの、ピカソに関するお土産物が売られておりました。書物類、複製画、絵葉書、陶芸類、私は旅の後先の事などすっかり忘れて買い物に夢中になり、気がついたら、お小遣いの大半をこの売店につぎ込んでいたのでした。そんな中、身体が震えるほど気に入ったW一枚の鳩の絵Wに目が留まり、勇んで買い求め、この絵だけは肌身離さずその後の旅を続けたのでした。

 兄との二人旅は、その後イタリア、フランス、スイスを経てカナリア諸島に飛び、更には一気に大西洋を飛び越えて、カリブ海に浮かぶバハマ諸島にまで足を伸ばしたのでした。 立ち寄ったそれぞれの国、それぞれの地に、それぞれの想い出が浮かんでくるのですが、何と言っても忘れられないこの旅の想い出は、バルセロナのピカソ美術館で買い求めたはずのWピカソの鳩の絵との物語Wなのです。
 あれほど大事に、あれほど一心同体の旅を続けていた筈なのに、何とした事か、私はその鳩の絵をカリブ海で泊まったホテルの部屋に置き忘れてしまったのです。どんなに振り返っても私には合点がいかないのです。どんなにくやんでもくやみきれない、私の人生で一番残念な大きな忘れ物なのです。
 そうなってしまった理由を、私は「あの絵の中の鳩は、カリブ海のあまりに美しいブルーに魅せられて、どうしてもそこから離れられなかったに違いない・・・」と結論付けて、自分を納得させる他はありませんでした。

 その時から何年が経っての事か、はっきりとした記憶では無いのですが、ある日、家内から一枚の絵を渡されたのです。カリブ海での出来事を知っての事か、それは紛れもなくピカソの鳩のスケッチ画なのです。そして、その絵はどこかカリブの海に消えたあの鳩に似ているところもあるのです。以来、この鳩はずっと私のそばに居てくれて、折に触れ私を慰めたり励ましたりしてくれるのですが、何故かいつも遥かな遠くを見つめ、物思いにふけっているのです。私は時折、この鳩が自分のような気がする事があるのです。そしてその度に思う事は、もし願いが叶うものであれば、もう一度あのバルセロナのピカソ美術館を訪ねて、あの時のあの鳩の絵に会ってみたいと思うのです。30数年も昔の想い出の記でした。
 最後に、こんな素晴らしい想い出の旅をさせてくれた今は亡き兄に、心からの感謝の手を合わさずにはいられません。「本当に有難うございました。本当に楽しい懐かしい感謝と感動の旅でした。あらためて心からのお礼を申し上げたいのです」。        (2010・3・18の記)
   写真 上 ピカソのポスター
   写真 中 ピカソの鳩の絵
   写真 下 兄とマジョリカ島にて


(NO81) バンクーバーオリンピックの聖火台 ( 2010/03/06 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 日本時間の2010年3月1日、17日間に亘って開催された第21回冬季オリンピック・バンクーバー大会が幕を下ろしました。連日の熱戦に夢中になっていただけに、終わってみると幾分の寂しさも覚えるのですが、精魂の限りを尽くした選手の労をねぎらいたいものであります。
 冬季オリンピックではありませんが、14年前のアトランタオリンピック聖火ランナーの一人に選んでいただいた事のある私にとっては、オリンピックと言えば、あの聖火に特別の関心を抱いてしまうのです(コラムNO36,37に記載)。このたびのバンクーバー聖火台のまさかのハプニングには、おそらく世界中の人達がまさかの驚きと、まさかの感動の終演に酔いしれたに違いありません。私も全くその中の一人でした。

(T)まさかのバンクーバーオリンピック開会式
4人の最終聖火ランナーが会場に姿を現し、さて一体どこの聖火台に聖火が燈されるのであろうかと、かたずを呑む思いで見ていたのですが、何と大会会場の中央部地下から4本の柱が姿を現し、その四方に聖火を掲げた4人のランナーは立っていたのでした。驚きのハプニングが起こったのはその直後の事です。
4本の柱が立ち上がり、その4本の柱に聖火が点火されるものと誰もが思った筈なのに、何故か一本の柱は大地に横たえられたままで、3本だけに聖火は点火され、点火された三つの炎は勢い良く上空に駆け上がって行ったのです。開会式を見ていた世界中の人達は、一瞬自分の目を疑ったに違いありません。これは、まさに世紀の大失態だったのです。私もこの光景には一瞬心臓が止まるほどの驚きを覚えたのです。
 しかし、と言う言葉はこんな時に使うのかも知れません。この大失態は、今度は、とてつもないまさかの大成功の閉会式に導かれていく事になるのです。一体誰がこんなに凄い演出を考えたのでしょう?。これは誰の演出でも無く、あえて理由をつけるなら、これはまさに聖なる聖火の神様がなされた、バンクーバーオリンピックへの感動の贈り物と言う事になるのでしょう。 
 
 (U)感動のバンクーバーオリンピック閉会式
 17日間に亘る熱戦が終わり、閉会式が始まると、会場中央の地下に眠っていたあの一本の柱は、一人の道化師を伴って再び静かに地上に姿を現したのです。道化師の魔術に導かれるかのように、この柱は静かに頭を持ち上げ、開会式で聖火を点火できなかった聖火ランナーの手で点火され、その火は17日間燃え続けていた3本の柱に合流し、めでたく本来のあるべき姿に辿り着いたのでした。
 この様子を見守っていた会場は、溢れるばかりの拍手喝采に包まれ、見る人の心を感動の渦に包み込んでしまったのでした。誰も予想し得ない何と言う素晴らしい光景でしょう。 この光景を再び見られる事はもう無いでしょう。私も感動の涙をこらえる事ができませんでした。バンクーバーオリンピック有難う!。バンクーバーの聖火と聖火台のまさかのハプニング有難う!!。これからオリンピックがある度に、きっと思い出さずにはいられない感動の聖火台物語でした。

 (V)オリンピックは世界の平和と友情の範であって欲し    い
 バンクーバーオリンピックには82カ国から26、000余人の選手が参加されたそうです。
オリンピックでの金・銀・銅メダルはそれなりに最高の名誉の証である事に何の異論も無いのですが、この地球上にはオリンピックとはまるで無縁の国々や人々もまだまだたくさんいるのだそうです。南米のチリでは、オリンピックの最中でも、大地震、大津波に見舞われ、人々は路頭に迷っているのです。願わくばオリンピックが、富める国々の競争の祭典に終わるのではなく、世界中の平和と世界中の人々に幸せを運ぶ最前線の祭典であって欲しいと私は願いたいのです。そして、誰もがスポーツの喜びに浸る事のできる人生であって欲しいものであります。

 (W)日本選手の大活躍にも大きな拍手を!!
 日本ではフィギアスケートの浅田真央選手、高橋大輔選手の銀メダル、銅メダルを筆頭に様々な感動に沸きました。カーリングというスポーツにも楽しませていただきました。オリンピックに参加され、ベストを尽くされた全選手に、心からのねぎらいと有難うの言葉をかけてあげたいのです。
 特筆したい事は、日本の国籍にこだわることなく、世界に飛び出して自己の道を究めようとしているロシア国籍の川口悠子選手と、若干16歳にしてアメリカ国籍となって活躍している長洲未来選手の事です。私はこのお二人に心からの拍手を贈りたいのです。何故なら私達人間は、誰もが地球という星に生を受けているのですから・・・。私はW人間、至る所に青山ありWという言葉が大好きです。                  (2010・3・5日の記)


(NO80) 青春の志・生命の躍動(14) ( 2010/02/19 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

上記のタイトルは、私が敬愛して止まない帯津良一先生が、ある月刊誌に連載しておられる記事のタイトルです。帯津三敬クリニックの山田幸子婦長さんから、「沖縄の奥田さんのことが書かれているので送ります」とのお手紙を添えて送って下さいましたので、今回のコラムはその記事をそのままに、ご紹介させていただこうと思います。(以下は帯津先生の文章です)

・ その時、歴史が動いた!
私が主宰する『養生塾(ようじょうじゅく)』も今年の5月で10周年を迎えます。最初は「楊名時太極拳(ようめいじたいきょくけん)21世紀養生塾」という名称でした。それが、楊名時先生がお亡くなりになった上に、この会の本来の目的に鑑(かんが)みて、現在では『帯津良一「場」の養生塾』と名乗っています。
 本来の目的とは、日々、内なる生命場のエネルギーを高め続けるという攻めの養生を果たしていく人を一人でも多く世に輩出させることによって、低下著しい地球の場のエネルギーを回復して、美しい地球を取り戻そうということです。
 あっという間の10年でしたが、お陰様で、今では全国14箇所の分室が生まれています。最初は長野の飯(いい)綱(つな)高原にある『水輪(すいりん)養生塾』、2番目が『沖縄養生塾』です。
 その『沖縄養生塾』が暮れも押し詰まった12月の末に那覇で開かれました。第13回だといいます。良くぞここまで、という感慨を抱きながら、そもそもの発端を想いだしていました。

 ガンの心理療法として有名なサイモントン療法を初めて日本に紹介した近藤裕先生の主宰する「ヒーリングオキナワ」という団体に招かれて出かけて行ったのです。
 近藤裕先生は、これも発足以来永い間、帯津三敬病院の心理療法チームのスーパーバイザーとして尽力して下さっていたのですが、あるとき突然、沖縄に転居するといって、戦列を離れてしまいました。
 後でわかったことですが、先生は仕事で何度か沖縄を訪れている内に、他人の痛みがわかることにおいて、沖縄の人々の右に出るものはいない!ヒーリングに携わる者はすべからく沖縄に行くべしと覚って、すぐに実行に移したと言う事なのです。
 空港に出迎えてくれた近藤先生が愛車を駆りながら、実は隣のホールでWさだまさしWのショーがあるのです。せっかく先生をお招きしながら、入りが悪かったらどうしようと心配しているところなのです。と言います。ところが蓋を開けてみると、ほぼ満席の盛況でした。ほっとして90分の講演を終わるや否や、最終列から、さっと手が挙がりました。年配の男性です。
「・・・・その養生塾の話を聞いた途端、体が震えだして止まりません。・・・・。その養生塾には沖縄からでも参加できますか?」
「・・・もちろん出来ますよ・・・でも毎週、沖縄から川越までいらっしゃるのでは大変でしょう」
「うっ・・・そうですよねえ・・・」
 この人こそ、気功の会である「天遊会(てんゆうかい)」を率い、同時に沖縄養生塾の代表を務める奧田清志さんだったのです。およそ2週間後、奥田さんは川越にやってきました。沖縄養生塾の誕生です。

 夕方5時半に沖縄空港に着くと、いつものように奧田さんご夫妻のお出迎えです。ここから副代表のSさんのお宅へ直行。Sさんのご家族に私の弟子である琉球大学医学部の学生N君も一緒に、さっそく歓迎の宴です。メインディッシュは鱈ちり鍋。オリオンビールの旨いこと!
近藤先生と同じく、私も沖縄病にかかってしまったようです。    (帯津 良一)
写真 上 帯津先生「時空」実演風景
写真 中 第13回 会場全体風景
写真 下 帯津先生の素敵な笑顔


(NO79)道元禅師と帯津良一先生 ( 2010/02/07 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

私が今年最初に入手した本は、たまたまの事ですが、近くのスーパーの書店で目に留まった『道元・禅の言葉』という文庫本と、もう一つは春秋社(出版社名)から送られてきた帯津良一先生の最新書『万物を敬う』という二冊の本でした。出版社から送っていただいた本の中には著者謹呈の栞が入っておりましたので、これは帯津先生からのご好意によるものと思い、深く感謝をしているところです。一年の初めに手にする本には何かしら特別のご縁のようなものを感じてしまうのですが、計らずもこの二冊の本には、私の心に大きく響く共通点が感じられますので、その感想を述べてみようと思います。

* 『道元・禅の言葉』(境野勝悟著、三笠書房)
 私が道元というお坊さんの名前を知ったのは、今から40年も前の1963年の事です。この年、日本人初のノーベル文学賞を受賞された作家の川端康成さんが、W美しい日本の私Wという演題で記念講演をされ、そのメインテーマに取り上げられたのが道元禅師の短歌、W春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて涼しかりけりWでありました。
 当時の私は、この歌は日本の四季の美しさを表現したものという程度にしか思っていなかったのですが、いつしかこの歌には深遠なる大自然の不思議や、大宇宙の真理が込められていると思えるようになり、今では忘れる事の出来ない感動の言葉として記憶に残っているのです。ちなみに道元禅師は鎌倉時代に曹洞宗を開山した大宗教家で、わが国最高の宗教哲学者であると紹介されております。

 『道元・禅の言葉』から学ぶ大きなテーマは、@「天地同根」、「万物一体」という言葉に代表されるように、人間と宇宙は一体であり、人間は宇宙の真っ只中に存在しているという事、A只菅打坐(しかんたざ)という言葉に代表されるように、W坐禅Wを通して大宇宙の真理を学び、且つ、W人間としての生命Wを授けて下さっている宇宙の意志に深く感謝する事、B大宇宙からいただくこのご恩に報いる為に、人間は何かのお役に立てる人生を歩む事が、人間としての一番大事な生き方である・・・・・と、道元禅師は教えてくださっているようです。
 
 コラムNO78にも書かせていただきましたが、人間の本当の喜びは感動の中にあると私は思っています。そして感動の人生を生きるためには、感謝の日々を心掛ける事が大切と考えます。道元禅師さんはW感謝と感動に生きる大切さWを宇宙的な視野で教えて下さっている、まさに大宗教哲学者であることをこの本から学ぶ事が出来て、私は大変嬉しく有難く思っているのです。

  *『万物を敬う』(帯津良一著、春秋社)。
 私はかねがね、帯津先生には本物の健康哲学を教えていただける大恩師という思いを抱いているのですが、最近はその思いに加えて、帯津先生はお医者さんの顔をされた大哲学者という思いを強くしてきているのです。
 帯津先生は講演や著書の中でW虚空Wという言葉をよく使われますが、今回の本(万物を敬う)の中では「私は虚空に手を合わせるのです」と書いておられます。最も近い存在にある両親に手を合わせ、その祖先にも手を合わせていくと、全ては虚空にまでいってしまうとも書かれておられます。確かにW万物Wは虚空と一体の中に存在しているのですから、万物を宿すその虚空に手を合わせることに勝る祈りは無いのかも知れません。

 今回上記の二冊の本を読んでいるうちに、ふと頭をよぎるものがありました。それは、帯津良一先生に道元禅師の姿が重なってくる事でした。ずっと以前に、「本物の偉人は最高にいい顔をした普通の人になる」という意味の言葉を何処かで目にしたことがあったのですが、私の好きな森信三さんという思想家のお顔に、ふとそんなものを感じたことがありました。そして今は帯津先生です。私達にいつも満面の笑顔で接してくださる帯津先生も実にいいお顔で、まるで普通の人になってくださるのです。帯津先生と出会う人達は誰もがそう言われるのですから、これは間違いないのです。

 さて、我が国最高の宗教哲学者と言われる道元禅師さんは一体どんなお顔をしておられたのであろうかと想像してみたくなるのです。もしかして道元さんは、森信三さんと、帯津良一先生を足して二で割った様なお顔であったのでは・・・・・と、私は今そんな幸せな空想の中に浸りきっているところであります。      (2010・2・1日の記)                        
 

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