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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


(NO78)新年に届いた まさかのお年玉、二題 ( 2010/01/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

2010年の新年早々、我が家には思いがけない、まさかのお年玉が届けられました。お年玉の一つは、世界文化社という出版社から「家庭画報」(2月号)が送られてきたことです。もう一つのお年玉は、新年に季節はずれのクリスマスカードが舞い込んできたのですから、まさかのびっくりです。まさかの出来事にはまさかの喜びが伴うものですね。二つのまさかのお話をさせていただきます。
* まさかのお年玉(その一):「家庭画報」(2月号)
2010年早々に、大きな封筒が宅配便で届きました。てっきり家内が何かの注文をしたのであろうと思いながらも、宛先が私の名前になっていたので封を開いてみると、「家庭画報」という、それはそれは立派な雑誌が入っておりました。この雑誌を見てすぐに頭に浮かんだのは、昨年12月20日に開催された帯津良一先生の沖縄健康講演会でのお話でした。昨年一年間、この家庭画報に帯津先生の健康問答が特集され、今年もまた一年間延長される事になったと申しておられたのです。(コラムNO75に記載)

 さてさて、送られてきた家庭画報のW帯津良一特集Wの中に、まさかと思う記事を発見したのです。年間を通してのタイトルは「帯津先生に学ぶすこやか養生塾」で、2月号の特集はW帯津流気功生活のススメWです。その中で、帯津先生が推奨する太鼓判の気功教室の中の一つに、何と我が「21世紀養生塾沖縄・天遊会」を選んで下さっていたのでした。全国には何百もの気功太極拳教室が在る筈なのに、私のような無名に近い小さな気功教室を取り上げていただいた事に、万感の喜びと、大きな責任感と、大いなるときめきを覚えながら、このご好意に答えるべく、ベストを尽くしてみようと新たなる決意に燃える2010年の私であります。

 帯津先生から多くの学びをいただきながら、私の目指す健康人生(気功的人生)は次のような事であります。
・ 敬天立命(天を敬い、自らの人生を生きること)
・ 感謝感動(感謝の日々、感動の日々であること)
・ 一灯照隅(一隅を照らせる人生であること)
・ 生涯青春(夢、希望、ときめき、努力、前進)
・ 百歳人生(生き生き楽しく、思いに溢れて)

*まさかのお年玉(その二):季節はずれのクリスマスカード
2010年1月中旬、ポストの中にクリスマスカードらしい郵便物が入っておりました。送り主は,OKUDA FAMILY Lawrenceburg,IN となっておりましたので、アメリカに住む末息子からのものである事はすぐ解かったのですが、どうして今頃に・・・・?という疑問については、私達夫婦はいろいろと思いを巡らさざるを得ませんでした。家内の考えではAIR MAIL便になっていないので、船便にまわされたに違いないというのが結論で、私の考えは、末息子はいく分茶目っ気な所があるので、多分サプライズを狙ったに違いない・・・・という事で意見は分かれたのです。
後日、当の本人に確かめてみたところ、Wどうしてそうなったのかな―Wの一言で済まされ、いく分がっかりもしたのですが、何はともあれ、封筒の中から出てきた孫娘(ANIKA)の写真が何とも可愛くて、もうそれだけで私達夫婦は幸せいっぱいのお年玉をいただけたのでした。

 毎週一回、金曜日の朝8時30分には、インターネットでアメリカ孫娘の映像が送信されてくるのですが、映像に映る孫娘の姿は、相変わらずモンスターぶりを発揮しております。つい先日からは、運が良ければの事ですが、机の前に座ってインターネットに映る私達の姿を見ながら、ジジ・ババの片言を口にしつつ手を振る姿が見られるようになり、今や金曜日の朝8時30分は私達夫婦にとっては最大のゴールデンタイムとなっているのです。インターネットの文明の力に、この時ばかりは頭を下げる他はありません。インターナショナルな孫娘の誕生を通して日々に願う事は、地球上に生をいただいた全ての人間が、等しく平和な人生であって欲しいと念ずるばかりです。(ANIKAは、今一歳半です)
                  (2010・1・23日の記)  


(NO77)お正月の思い出と、私の生け花 ( 2010/01/13 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 私の家では、母がまだ健在だった20年程前までは、お正月の行事は全て母の流儀で進められておりました。お正月を迎える床の間にはW鶴の掛け軸Wが飾られ、その前には生け花が置かれ、生け花の隣には、@みかんが上に飾られた大きな鏡餅と、A三々九度のようなお酒の杯(お屠蘇器)と、B鰹の削り節と昆布と数の子のセットが用意されていて、なんともいえないお正月の雰囲気が漂っておりました。

 上記の3点セットが中心に移され、その左側には母が座り、右側には家族全員が年齢順に並んで、いよいよメインのWお年取りの行事Wが始まるのです。先頭に座ったものから順番に、先ずはうやうやしく鏡餅を三宝ごと頭上まで持ち上げ、W今年私は何歳になりましたWと誓言、次に新年の抱負を述べた後、母から注いでもらったお屠蘇を三回で飲み干し、更には手のひらにのせてもらった@削り節と、A昆布と、B数の子を、これまたうやうやしく口に運んで無事に儀式は終わるのでした。我が家での儀式の順序は、私、家内、長男、長女、次男、三男の順でしたが、この席に知人や親戚の者などが同席した場合は、当然の事ながら誰もが儀式に参加するのが常でした。

 儀式が終わった後は、この日の為に母が腕によりをかけて作ってくれたお正月料理(さわち料理)が隣の席に用意されていて、誰もが好きなものを好きなだけ食べながら、お正月談義に花を咲かせたものでした。子供たちが中学生位の頃までは、この席がお年玉の場でもあったような気がするのですが、我が家のお年玉の年齢が何歳までであったかについては確かな記憶は残っておりません。いずれにしても、とにかくその頃のお正月の情景が懐かしく、強く私の中に残っていて忘れる事はありません。

 母が他界した後も暫らくは私が母の役を務めておりましたが、子供たちが次々に成長して、県外や海外にまで人生の拠点を拡げる様になった現在では、我が家のお正月は家内と二人だけの静かなものになっております。ただ一つ今も続いているのはW鶴の掛け軸WとW生け花の習慣Wです。
この鶴の掛け軸は今から30年も前に、私が度々中国に出向いていた頃、北京に在った有名な「瑠璃庁(るりちゃん)」という書画骨董を売る通りで目に留まり買い求めたものです。そのせいか、いつの間にかお正月の掛け軸と生け花は私の役目という事になっていて、今年もまたこの役から逃れることは出来ませんでした。

 以前に住んでいた大きな家の時には、大きな生け花を生けるのに苦戦をしたものですが(無茶苦茶流)、小さな家に移り住むようになってからも生け花にはそれなりの工夫を凝らしておりました。数年前から夫婦共々、年金生活に入ってからは、今度は年金生活にみあった生け花を考えねばなりません。今年の生け花は¥3,000以下で・・・・と宣告され、やっとの思いで出来上がったのが写真の作品です。(一番気に入っているのは¥600円で買った竹です)。

今住んでいる家が今年中には都市計画で立ち退きになるらしく、次なる住まいは県営か、市営の団地になる見通しとの事ですので、来年の生け花はW花一輪Wということになるのかも知れません。最近の私は、むしろW草花一輪の世界Wが好きになっておりますので、丁度良い人生の流れになっているような気もしているのです。

 さて、2010年の元旦にかかってきたWおめでとうWの第一声は、遠くアメリカのインディアナ州に居を構えている末息子のファミリーからでした。一歳半になる孫娘の「ANIKA」が覚えている日本語はまだWジジ,ババWだけとの事で、電話の向こう側では、さかんにジジ、ババの声がしておりましたので、懸命におめでとうの気持ちを伝えてくれていたのかも知れません。二番目の電話は、石垣島に住む長男孫の「拓夢(たくむ)(6歳)」からでしたが、彼の今の頭の中には、飼う事が禁止されているマンションの部屋に子犬が住み着き、その秘密を守らねばならない一心で、とてもお正月がめでたいどころではなさそうな電話でした。新潟に新居を構えた次男の孫達、「尊(たける)(5歳)」と「悠人(はると)(1歳)」はお正月が待ちきれずに、大晦日の夜にWおめでとうWの電話をかけてきて大笑いでした。

 元旦の夜には、一番身近にすんでいる娘が彼氏を連れて訪ねて来てくれたのですが、お正月というのに何故か家内はWすきやきWを用意して娘達を待っていたのでした。私にとってはまさかの元旦のすき焼きでしたが、これも時代の流れと思い、納得する他はありませんでした。

 沖縄にご縁をいただき38年目のお正月となりましたが、人生の移り変わりに感慨深いものがあるのです。私達夫婦にとりましては、それなりに納得の、有り難い、そしていっぱいの感謝のお正月でありました。    (2010・1・7日の記)

写真上:2010年の生け花
写真中、下 :何年か前の生け花


(No.76)第13回 帯津良一健康講演会 in 沖縄 <第2部> ( 2009/12/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

<第2部> 元気な100歳を目指して〜気功・太極拳&新呼吸法「時空」〜

第13回帯津良一健康講演会の第2部は、21世紀養生塾沖縄代表の私(奧田清志)が、「元気な100歳を目指して」という演題でお話をさせていただきました。平均寿命を生きれば有難いと思っていた私が、どうして100歳人生を目指すようになったかを、気功・太極拳の実演を交えながらの講演となりました。

  <元気な100歳を目指して>の内容

・ 私が「気功」との深いご縁をいただく事になったのは、今から13年前、家内の突然の事故入院がきっかけでした。救急車で病院にはこばれ、生死の境をさまよっていたその病院の壁に、W気功で元気になりませんかW、という一枚の貼り紙を見つけ、藁をもつかむ思いで参加したその時から、私の人生はW気功人生Wという思いもかけない世界に導かれていく事になったのです。

・ 「気功」が何だか全く解からないままに、只ただ祈る思いで家内を車椅子に乗せ、その気功に回復の願いを込めていたのでした。私がこの時出合った気功は「香功(しゃんごん)」という気功で、中国の禅宗のお坊さんの間で1,000年も続けられている健康法で、しかも世界で第2番目に大勢の人達がやっていると言われる有名な気功である事を後で知りました。

・ この気功のお陰かどうか解かりませんが、家内は入院から3ヶ月で無事退院し、今ではすっかり元気になっております。この時を期して、私はこの「香功」を一年間、一日も休むことなく続けてみたのですが、私の悩みの種であった便秘、めまい、眠れない等々の症状がいつの間にかすっかり消え去っている事に気付いたのです。

・ 1997年1月2日、私は不思議な夢を見たのです。周囲一面に滝が流れ落ちる池の真ん中に大きな岩があって、その岩の上で一人の白衣に身を包んだ白髪の老人が、まるで天女のような姿で気功を舞っているのです。あまりの情景の美しさに、私は恐る恐るその老人に近づき、年齢を聞いてみたら、100歳だと言われたのです。思わずその老人の顔をのぞいてみると、その顔は私そのものでありました。私はびっくりして飛び起き、しばらくはベットの上で呆然(ぼうぜん)となっておりました。その時頭に浮かんできた言葉はW気功元年、百歳元年Wでした。(この話の後、会場の皆さんと「香功」を一緒に練功しました)。

・ 「香功」という気功の次に感動の出会いをしたのは、「内養功(ないようこう)」という気功でした。内養功という気功に出会った瞬間から、私はすっかりこの気功のとりこになり、とうとう2001年6月にはこの気功の発祥の地である中国河北省の北戴河(ほくたいが)気功村に足を運んだのでした。(この気功にご縁をつないで下さったのは沖縄出身の仲里先生です)。

・ この「内養功は、中国の気功の父と呼ばれる劉貴珍(りゅうきちん)先生が、中国全土に伝わる何百、何千という気功の粋を結集させて創作したものだそうです。この気功の動きは誠に美しく、この気功を修得すると12〜3歳も若返るとの事で、世界中の気功愛好者が、この気功の魅力にひかれて、気功村に集まってくるのです。私も一生懸命頑張ってこの気功を修得しましたので、今日は皆様の前でご披露させていただこうと思います。(内養功をご披露)

・ 次に、私の人生を根底から一変させる太極拳に出会うことになりました。それは,帯津先生を通して生涯のご縁をいただく事になったW楊名時先生の太極拳Wです。それまでにも太極拳は少しはやっていたのですが、楊名時先生の演ずる太極拳はまるで次元が違うのです。まさに芸術そのものなのです。私は楊名時先生の太極拳に出会ったその日から、私に残された人生の全てをこの楊名時太極拳の世界に生きてみようと決心したのです。私が本気で楊名時太極拳に取り組んだのは67歳の誕生日からでした。その日からの私は、朝も昼も夜も夜中も、この太極拳に没頭する日が続き、約6年間の間に、私が積み重ねた太極拳の練功回数は30,000回に達しておりました。

・ 楊名時先生が突然この世を去られてから(2007年7月3日)の私は、楊名時太極拳を基本において、37年もの長きご縁をいただいて住んでいる、この沖縄にふさわしい沖縄発の太極拳をやってみたくなり、今は沖縄の古典音楽で太極拳を舞う喜びに胸をときめかせております。本日は沖縄の有名な古典音楽の「四つ竹」の音楽で、沖縄発の太極拳をご披露させていただきます。
(太極拳教室の30名程の生徒さん達と一緒にW四つ竹Wの太極拳を披露させていただきました)。

・ 楊名時先生は、常々楊名時太極拳を身につけると、20%位は若返ると申しておられましたが、約30,000回の練功を積み重ねた私の意識の中に芽生えてきているのはW元気な100歳人生Wであります。私は必ずや100歳を生きて、100歳の太極拳を舞ってみたいのです。

・ 講演会の最後は、再び帯津先生に登場していただき、帯津先生が長年の体験から生み出された新呼吸法「時空」を実演していただき、会場の全員も加わって、それはそれは素晴らしいフィナーレとなりました。

・ 講演会終了後はピザハウスに会場を移しての懇親会です。県外から来られた25名のお客様と沖縄養生塾の塾生25名(準備委員)とが一堂に集まった50名もの懇親会は忘れられない楽しい会となりました。塾頭の帯津先生、県外から参加された25名のお客様、県内、宮古島から参加してくださった200余名のお客様、そして第13回大会の開催に多大のご協力をいただいた方々に、心からのお礼を申し上げ、第13回帯津良一健康講演会のご報告とさせていただきます。    




(No.75)第13回 帯津良一健康講演会 in 沖縄 <第1部> ( 2009/12/25 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

<第1部>人間まるごと養生〜体・心・命のときめき〜

2009年12月20日、21世紀養生塾沖縄主催による、帯津先生の第13回健康講演会が開催されました。今回はご縁があって、沖縄県立武道館錬成場2階の大広間で開催する事になりましたが、何かしら一段と身心にしみる講演会になったような気がしております。

講演会は第1部、第2部に分かれ、約3時間にも及びましたが、誰一人として席を立つ人も無く、約250名の帯津先生のファンは最後まで納得してお帰りになられたようです。帯津先生の講演内容を私なりの解釈でお伝えしようと思います。

・ 2009年の一年間、「家庭画報」という雑誌で、ホリスティック医学を中心としたお話をしてきましたが、2010年も、またもう一年続ける事となり、今度は「帯津先生の元気の基は何ですか」という質問に答える事になりました。

・ 私(帯津先生)の健康(養生)法は、何と言ってもW朝の気功と夜の酒Wであろうと自認しております。私はコレステロールも中性脂肪もやや高いのですが、少し高い位の方が私の健康には良いと思っているので、全く気にしておりません。

・ 私には脳梗塞の気配は全く見られませんが、数年前、私の尊敬する世界的な免疫学者であられる多田富雄先生が講演中に脳梗塞で倒れられたのを機に、業者の方が勧めてくださったナットウキナーゼのサプリメントを用いるようになりました。これが効を奏しているのかどうかは解かりません。また私の前立腺はまるで少年のままの状態にあるとの事で、検査に当たってくれた女医さんが、奇声を発する程の驚きを示されました。(大笑い)

・ 私の唯一の問題点は,ガンマーGTPが220もあるのです。GTPを心配して私の病院を訪ねてくださる殆どの患者さんが私の数値よりは低く、誰もが安心の笑顔で帰っていかれるのです。私のGTPは患者さん達に多大の癒しの効果を発揮して大いに役立っているので、そう簡単にこの数値を下げるわけにはいかないのです。(大笑い)

・ 次なる健康(養生)の秘訣は、W青雲の志W、を持ち続けることであろうと思います。青雲の志が立身出世を目指したものであれば、これには限界があります。本物の青雲の志とは、W聖人賢人Wを目指して、生涯命(いのち)のエネルギーを溢れ続けさせる人のことを言うのです。
青雲の志を持ち続けていれば、心はいつもときめくのです。このときめきこそが健康(養生)人生の最たる要諦なのです。

・ ときめきは突然やってくる事もあるのです。私は今年の8月、ワルシャワで講演をしなければならない事になりましたが、そのときふと思いついたのが「ホメオパシーと気功」という演題でした。西洋と東洋の丁度中間地点に位置するワルシャワで、西洋の文化であるホメオパシーと東洋の文化である気功を結合させるという思い付きには、自分ながら歴史的とも思える程のときめきを覚えた事でした。

・ 最大の癒しの一つはW祈りWです。単なる祈りではなく、祈り続けるほどの心の深さがあれば、それは最大の癒しとなり、最大級のエネルギーとなり、最大級の自然治癒力につながる事になるのでしょう。

・ 「浄土」とは阿弥陀様の心が満ち満ちたW本願の場Wなのだそうです。本願の場、つまり浄土とは特別なところにあるのではなく、ごく身近なところにもあって喜びや気持ちよさの極限も浄土なのだそうです。身近な例として、尿腺のつまった極限の苦しみから開放された喜びなども、まさに浄土の世界なのだそうです。

・ 「メメント・モリ」という有名な写真集を出された藤原信也さんの言葉が忘れられません。「私は何も願いません、願うのはただ手を合わせて、海のような私にしてくださいと祈るだけです。人の一生は様々な苦しみや悲しみに彩られていて、その彩の中にも救いと癒しはあるのです」。海のような私とは、海は様々な人の苦しみや悲しみを受け入れてくれているという意味でしょう。そして苦しみや悲しみの中にも神様は自然治癒力を宿して下さっていると言う事でしょう。

・ 2009年のアカデミーグランプリを受賞した「おくりびと」の原作者である青木新門さんの言葉にも心が揺さぶられます。「人生の最後を迎えられた人に、頑張れとか、大変だねなど、励ましの言葉は不要です。きれいな青空のような瞳と、透き通ったそよ風の様な人がそばに居てあげるだけで良いのです」。

・ 時として死を思う事は、本物の人生に気付く事になるのです。私には死後の世界があるのか無いのか、まだ良く解かりませんが、両方ともうなずけるところもあるのです。死を語るに当たっては作家の五木寛之さんの事を避けては通れないのです。五木寛之さんは、ひたすら死に方を模索しておられるのです。五木さんはインドの林の中で野垂れ死にをされた釈尊(お釈迦様)のような死を理想としておられるようですが、私(帯津先生)は、どこで死んでも良いのですが、出来る事なら東京の下町の居酒屋の前でのばったりであれば、誠に有難いと思っているのです。
(2009・12・20の講演より・・・・)


(No.74)日野原重明先生・98歳の熱弁!! ( 2009/12/08 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

−さわやかに輝いて生きる秘訣−

聖路加国際病院理事長、名誉院長で、2005年度の文化勲章受章者でもあられる日野原重明先生は、今年の10月4日で98歳になられたそうです。11月28日の沖縄コンベンションホールに集まった満席のお客様を前にして、日野原先生はあの広いステージを縦横無尽に動かれ、身振り手振り、時には舞うが如くのお姿で、一時間あまりの熱弁をふるわれ、観客を魅了されました。

今回の沖縄講演は、日野原先生が2000年9月に立ち上げられた、「新老人の会」の沖縄支部発足一周年の記念事業として講演されたものでした。私は一生懸命メモを採りながら拝聴したのですが、メモに残す事が出来た何点かを再確認しながら、人生の糧にしたいと思っております。

・65歳を「老人」としたのは今から70年以上も前のことで、当時の日本人の平均寿命は68歳位、今では男女平均で80歳以上にもなっているのですから、65歳を老人と呼ぶのは誠に不自然です。自分が考える「新老人」とは、75歳からの、心身ともに元気でやる気を持った人のことを言うのです。

・長寿人生とは、一日をどれだけ長く有効に生きていられるかであって、ベットに横たわったままでの長生きは長寿人生とは言い難いのです。つまり心身ともに元気で、価値ある長生きをする事が、まさにW輝いて生きる人生Wといえるのです。

・健康の「健」はしっかりとした丈夫な体のこと、「康」は心が康(やす)らかな事を言うのです。その両方が揃って本当の健康なのです。健康を保つには適度の運動や食への配慮が大事ですが、感謝の心や、思いやりの心や、お役に立てる心を持てる事が、"さわやかな生きがい"を感じられる人生です。

・病める人の悲しみを自分の悲しみとし、病める人の喜びを自分の喜びとして受け止められる人になりましょう。与える事は失う事ではなく、心が豊かに満たされる事なのです。

・人間には自分では変えられない運命もあるけれど、生き方は自分の意志でどうにでも選択出来るのです。大事な選択とはどういう環境に身を置くかであって、交わる人との出会いの選択です。誰と出会い、その出会いをどう生かしていくかが人生の最大のポイントになるのです。

・人間は夢を持つことが大事です。夢は語るだけではなく、行動につなげることが更に大事です。私は88歳のときに「葉っぱのフレディー」という本に出会い感銘を受けました。この本には人生の全てが語られていますが、90歳になった頃からこの本をミュージカルにして、ニューヨークのカーネギーホールでの上演を夢見るようになりました。8,000万円のお金がかかりますが、何としてもやり遂げたい夢であります。

・100歳を目前にしてのもう一つの夢は、日本とアメリカの門戸を開く事となった、あのジョン・万次郎がアメリカに連れて行かれ、そこで住んでいた家を買い取りジョン・万次郎記念館として新しい日米友好の拠点にしたいと心を燃やしているのです。約18,000万のお金が必要ですので、どうか皆さん応援してください。

「新老人の会」の目指すところは、@愛し愛される人生であること、A夢を創(はじ)めること、B耐えながらも人のお役に立てることを生き甲斐として、C21世紀に生きる子供達に愛と平和の大切さを伝える事を使命と考えております。

・「新老人の会」の人達は20世紀の戦争を体験した方々です。戦争の愚かさを反省し、21世紀を愛と平和の世紀にする為に、核兵器のない世界を訴えます。核にお金を使う必要がなくなれば、世界中の人達を幸せにする事が出来るのです。

・沖縄は戦場となった所です。この沖縄から世界平和を発信し、日本を動かし、世界を動かせる県にしようではありませんか。多くの人達に「新老人の会」の会員になっていただき、美しい地球と世界平和を後世に残す原動力にしたいものであります。

日野原先生、たくさんの学びと勇気をいただき有難うございました。


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