ナハマラソン第35回大会(2019年12月1日)スタート風景 ナハマラソン第7回大会・夫婦でめでたく完走 1989年4月23日・ロンドンマラソン完走(4:43.24秒)53歳 1991年9月29日・ベルリンマラソン完走(4:13.49秒)56歳 日本縦断「桜駅伝」3000キロ走・1996年3月〜5月・東京千鳥ヶ淵公園にて アトランラオリンピック聖火ランナー日本代表・ネバダ州ラスベガス街道にて | 2019年12月1日、今年もまた“太陽と海とジョガーの祭典”、ナハマラソンが盛大に挙行されました。当日の気温26度という快晴の中、出場者数は男子17.470人、女子5.300人の合計22.770人で、完走率は64.18%でした。
ナハマラソンがスタートしたのは今から35年前の1985年の事です。その当時、ハワイから沖縄に赴任された在る旅行社の支店長から、“沖縄にもハワイのホノルルマラソンの様なマラソンを実現させたいので、是非協力して欲しい“との言葉をかけられ、その当時の私は観光の仕事に関わっていた事もあって、マラソンの事は何一つ解らないながらも、“とにかく出来ることは何でもお手伝いします”、と答えた結果が、ナハマラソン第1回大会のスタートラインに立たねばならない羽目になってしまったのです。
ナハマラソン第1回のスタート地点は、那覇市久米にある福州園前の道路でありました。その時の出場者は2.500人あまりであったと記憶していますが、35年の時を経た今ではなんと10倍近い、日本でも有数の大マラソン大会になっているのですから、感慨もひとしおであります。
さて、人生初マラソンのスタートラインについた私の出で立ちは、今から思うと本当に恥ずかしいのですが、日頃使用していた短パンでありました。10〜15キロぐらい迄は何とか走れたのですが、15キロを過ぎた頃からは体力の限界に加えて、短パンの裾の摩擦で、太ももから血が滲むようになり、もうどうにもならない苦痛に耐えきれず、とうとう20キロ目前の地点で沈没(リタイヤー)の止むなきに至ってしまいました。初マラソン苦渋の体験でした。
その時以来、マラソンとは完全なる決別をした筈なのに、それから3年が経った第4回のナハマラソンに私はまた参加していたのです。その理由は、ナハマラソンに失敗した翌々年のあるホテルの忘年会パーティーで、突然一人の人物から声をかけられたのです。その人物とは、当時オリオンビールの副社長で、沖縄地球を走る会会長をされていた比嘉良雄さんでした。パーティーで私の顔を見るなり、“そうだ奥田さん、来年のロンドン・マラソンを一緒に走りましょう!”でありました。突然のまさかの誘いに私はびっくりしたのですが、“ロンドンマラソン”という夢の様な一言に目がくらむ程の魅力を感じ、過去の辛い出来事などすっかり忘れて、その場で参加の約束をしてしまったのでした。 約束をしたその日から、私は朝に昼に夕に、夜中までも月星の明かりを友として“ロンドンの夢”に没入する日々を積み重ねておりました。1988年のナハマラソンを5:02分で完走し、1989年4月23日のロンドンマラソンも4:43:24秒で完走いたしました。共に52歳の時の私の人生の快挙であったと思っております。
ロンドンマラソンでは目の不自由な人も足の不自由な人も、大勢の仲間達に囲まれながら嬉々として走っておりました。バケツのような入れ物を待って募金を集める人たちも沢山目につきました。私はロンドンマラソンで実に沢山の人生の学びを頂きました。ロンドンマラソンの感動を機に、その後の20年余りの人生はマラソンに育てられた人生でもあったような気がいたしております。 ナハマラソン11回連続完走、海外マラソンはロンドン、ベルリン、メルボルン、ボストン等と6ケ所を走らせていただきました。それぞれのマラソンにそれぞれの人生の感動がありました。 1996年には「地球を走る会」の人達と一緒に、沖縄最南端の波照間島から北海道宗谷岬まで、桜の開花に沿っての日本縦断3.000キロ駅伝を3ヶ月かけて走らせていただきました。この年はボストンマラソンにも出場を許され、更に加えてこの年に開催されたアトランタ・オリンピックの聖火ランナー日本代表の一人にも選出される、まさかの好運にも恵まれました。
75歳の誕生日に、総走距離50.000キロ走達成を機に、ジョギングからウオーキングに変更しましたが、数々の思い出が蘇る感謝のマラソン人生でありました。それらは全てナハマラソンのお陰であったという気がしております。
今年のナハマラソンには甥っ子、姪っ子など7人が参加してくれましたが、来年は優に10人は越えるのではないかという気がしております。ナハマラソンに心からの感謝を捧げ、ナハマラソンの限りない発展を祈るばかりです。
2019年12月5日の記
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