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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO236) 2015年:NAHAマラソン&福岡国際マラソン ( 2015/12/13 )

 
 第31回那覇マラソンスタート風景(沖縄タイムスより)

 
 第69回福岡マラソンスタート風景

 
 川内選手35キロ地点の力走

 
 ロンドンマラソン・ロンドン塔の前にて
1989年4月

 
 さくら駅伝東京千鳥ヶ淵で仲間たちと

 
 聖火ランナー・ラスベガス街道にて1996年5月

 2015年12月6日は、¨太陽と海とジョガーの祭典¨のキャッチフレーズで、すっかり全国に知られるようになったNAHAマラソン(第31回大会)が、今年も華々しく開催されました。今年の参加者数は2万6679人、しかも抽選で選ばれた人達だそうです。

 今から31年前のNAHAマラソン(第1回大会)の時などは、マラソンに関心を持つ人は限られていて、目標の3,000人を集めるのに大変な苦労があったと聞いております。私などは、その当時、観光関連の仕事に従事していたと言うだけで、無理矢理この大会に駆り出され、必死の思いで半分の20キロ地点までを、地面を這うが如くに辿り着いた苦い想い出が、今も鮮明に記憶の中に残っております。

 人生は本当に不思議なものだと思います。天の神様はその時から3年後に、そんな私(マラソンとは無縁と思われた)を、まさかのマラソン一筋の世界に没入させて下さる事になっていたのですから不思議でなりません。その時の私は51歳でした。
 NAHAマラソン第4回大会を目前にしていた或る日、或るパーティーの席で、私は或る知人から¨来年(1989年)のロンドンマラソンを一緒に走りませんか?¨、とのお誘いを受けたのです。まさかと思いながらも、何故かその瞬間の私は、マラソンの苦しさなどすっかり忘れ、¨ロンドンマラソン¨という夢の様な言葉に酔いしれていたのです。
パーティーのあった翌日からの私は、朝に昼に夜に、只ひたすらロンドンマラソンの夢の中を走り続ける日々が始まっておりました。

 努力の甲斐あってか、NAHAマラソン第4回大会を無事初完走(5時間2分48秒)、翌年4月23日のロンドンマラソンも完走して(4時間43分24秒)、ロンドンマラソンの夢は現実のものとなっておりました。私はこのロンドンマラソンで、大きな大きな人生の勉強をさせていただいたと思っております。そしてこの時から私の本当のマラソン人生が始まる事となりました。
 NAHAマラソン第4回大会から14回大会までの10年間は連続してNAHAマラソンを完走、そればかりか、その間に、私はロンドン、メルボルン、ベルリン、ボストン等の、海外マラソンを含めると19回のマラソンを完走しておりました。明けても暮れてもマラソン人生の日々でした。

 更には1996年3月から5月にかけて、今度は¨さくらの開花¨に沿って、沖縄最南端の波照間島から北海道最北端の宗谷岬までの¨さくら駅伝日本縦断3,000キロ¨を走破しようという計画が持ち上がり、これにも加わっておりました。この計画は雨の日も、風の日も雪の日も、一日たりとも休むことなく続けられたのですから、今から思えばとても信じられない出来事であったと思います。人生のまさかの不思議はこの後にもう一つ続く事となりました。これこそは私の人生で最も貴重な体験であったと思います。

 沖縄から北海道宗谷岬を目指してひたすら走り続けていたその最中に、今度はこの私が¨アトランタオリンピック聖火ランナー日本代表の一人に選ばれた¨、という知らせが舞い込んで来たのですから、私の人生でこれ以上の¨まさか¨はありません。私は「さくら駅伝日本縦断走」を一週間ほどリタイア―をさせて頂き、急遽アメリカ西海岸に飛び、灼熱のラスベガス街道を一キロに渡って¨聖火¨と魂を共にさせてただきました。
 あの時からやがて20年が経ちますが、私は今でもあの時のあの数分間こそが、私の人生で最も神聖な瞬間であったと思っています。聖火の道はまさに¨神の道¨でありました。

 私はその頃に、何故こんなにもまさかの偶然が重なるのであろうかと自問自答した事があります。答えは、それら全ては天なる神様の導きによるものと思う他はありませんでした。¨人は無心で何かに没頭していれば、運命の神様はその人の姿を応援して下さる¨、という格言の様なものを今でも自分の人生の教訓にしております。

 NAHAマラソンのお陰で、私は本当にたくさんの¨まさか¨を体験させていただきました。NAHAマラソンの時期がやって来る度に、それらの遠い日の想い出が蘇ってきて、NAHAマラソンに手をあわせるのです。
(私のマラソン人生に関する記事についてはコラムNO119、120、121、122に記させていただいております)

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 2015年12月6日、この日はNAHAマラソンと時を同じくして、第69回福岡国際マラソが開催されておりました。私はNAHAマラソンの事を気にしながらも、心の殆どは福岡マラソンの方に奪われておりました。その理由は、この福岡大会に、あの川内優輝選手が、来年のリオディジャネイロ五輪マラソンの代表をかけて参加していたからです。

 川内選手は、昨年のNAHAマラソン30回大会に出場して下さり、2時間13分43秒の大会新記録で30回大会に大きな花を添えてくれました。
 私事になりますが、川内選手は私とは半世紀以上も違う大学の後輩にあたるとの事で、その日の懇親会にお声をかけて下さり、本当に素晴らしいひと時を過ごさせていただきました。その時の川内選手の印象が、余りに素晴らしく、私はその時から生涯をかけて、川内選手の大ファンの一人にさせていただこうと思う様になりました。

 川内選手の福岡マラソンの結果は、残念ながら全体の8位、日本選手の4位と言う事で、リオ五輪代表にはなれませんでしたが、まだ来年の東京マラソンと琵琶湖マラソンが残っておりますから、必ずや、このどちらかの大会で、有終の美を飾ってくれるであろう事を確信し、心からの応援をさせていただきたいと念ずるばかりです。(川内選手との事についてはコラムNO217にも書かせていただきました)
                  (2015・12・12の記)
 


奥田のコラム(NO235 ) 東京4泊5日の旅(その2) ダイアビック15周年記念大会に出席 ( 2015/11/27 )

 
 ダイアビック15周年記念大会出席者

 
 ダイアビック研修会風景

 
 第1回研修会から親しい小川さんと

 
 懇親会風景・りーガロイヤルホテルにて

 
 ひばり会歴代会長さん達と

 
 ダイアビック創立者・蜂谷さんと

 東京の旅・二つ目の目的は、2000年からスタートしている財団公益法人:ダイア高齢社会研究所主催による、シニアの為のリズム体操「ダイアビック15周年記念大会」に出席する事でした。

 ダイアビック財団が発足した今から15年前の私は、太極拳に夢中の日々を送っておりましたが、太極拳の¨静¨に対して、シニアの人達が楽しくリズムに乗って動ける¨動¨の世界にも関心を寄せておりました。
 偶然にも或る日の新聞で¨シニアの為のエアロビック(ダイアビック)発足¨の記事を見て、これだ!!!と思い付き、家内を誘って、第一回のダイアビックインストラクター研修会に参加したのでした。場所は茅ヶ崎であったと記憶しております。

 以来何回か研修会に参加を重ねておりましたが、その後は太極拳教室の方が忙しくなり、ダイアビックは暫くお休みしておりました。「ダイアビック15周年記念大会」へのお誘いをいただいたのを機に、もう一度その後のダイアビックを体験してみたいと思い、再び家内と参加したのです。

 好運な事に、この日(11月13日)は、前回のコラムNO234にも書きました様に、敬愛して止まない帯津良一先生の会が予定されていた一日前の事で、タイミングとしてはドンピシャリ、私は何かしら今回の東京の旅は、神様からのお誘いの様な気がしてなりませんでした。

 ダイアビック15周年記念大会に参加して、本当に良かったと思う点を今日のコラムに書き留めておこうと思います。

@ ダイアビック研修会で出会っていた方々が、15年を経た今でも私達夫婦を覚えて下さっている事を知って、感激を新たにしました。この人達との交流がまた再会するのでは・・・という直感が湧いてきました。

A 現在、ダイアビックインストラクターは全国に200人余りも誕生しているのだそうですが、私達夫婦は何んとそのNO12とNO13番目に登録されている事を知らされ、まさかの驚きでありました。にもかかわらず、私達夫婦は沖縄で何もダイアビック普及活動をしていない事を深く反省させられました。

B ダイアビック財団は東京に拠点を置く「ダイアビックひばり会」が中心となって、全国との交流会もされているとの事ですが、沖縄在住の私達夫婦は、この度、その東京ひばり会の県外会員になるお誘いを受ける事となり、大変名誉な事と思い、受けさせていただく事に同意いたしました。
東京ひばり会の会員には、90歳を越える元気いっぱいの方々も多くおられる事を 知り、大変嬉しく、沢山の元気をいただきました。

C 2016年、私はいよいよ80歳代に突入です。家内は70歳になるそうです。80歳を機に、私は太極拳の¨静¨と、ダイアビックの¨動¨を融合させて、必ずや¨元気な100歳人生¨の見本になろうと、改めてその決意を胸に秘めているところです。

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* 東京は、80歳を前にした私には、あまりにスピードが速すぎて、東京のリズムについて行くのは至難の業である事を知らされました。反面、東京はまた、ささやかな年金暮らしの私の様な者であっても、元気でさえあれば、安くて美味しいレストラン巡りや、安くておしゃれなショッピングを楽しめる、本当に魅力的な大都会である事も再発見しました。これからも健康維持に気を配り、年に一回ぐらいは行ってみたい大東京でありました。東京案内を見事につとめてくれたお母さん(家内の事ですが)には最大の感謝です。

* 今回の旅は、旅の合間を縫って、気になっていた八王子にある家内の両親のお墓参りと、横浜保土ヶ谷にある私の両親のお墓参りにも行かれて、本当に良かったと思っております。東京4泊5日の旅が出来た事に心から感謝いたします。
              (2015・11・27日の記)


奥田のコラム(NO234) 東京4泊5日の旅(その一) 帯津良一先生との再会in「久保田」亭 ( 2015/11/25 )

 
 うなぎの「久保田」亭で帯津先生とご一緒に

 
 同上

 
 美人の誉れ高い「久保田」のおかみさんと

 
 

 
 

 
 

 2015年11月12日から16日までの4泊5日、私達夫婦は久し振り(2〜3年振り)に東京に出る旅に恵まれました。恵まれたと言うよりは、そうならざるを得ない旅でもあったのですが、終わってみれば、とても素晴らしい旅であったような気がしております。

 今回の旅のメインテーマは、帯津三敬病院名誉院長・帯津良一先生が主催する「21世紀養生塾」の全国支部長会議に出席する事でありましたが、その会が急遽、諸事情の為に中止となり、私達は早々に早割の格安航空券を購入しておりましたので、取り消しも変更も出来ない状況下にあったのでした。

 さてどうしたものかと家内と思案を巡らせていたところへ、帯津先生からのまさかの直筆のお手紙をいただき、会議を予定していた11月14日(土)は、一日中時間が空く事になったので、夕食をご一緒にしませんか・・・のお誘いです。帯津先生のお心遣いである事は申すまでもないのですが、それにしても天から舞い降りてきたようなこのハプニングに、私達夫婦は天にも昇る程の嬉しさに、心をときめかせながら東京に向かったのです。

 11月14日(土)、いよいよ帯津先生と再会の日です。再会の場所は有名なうなぎ料理の「久保田」亭。約束の時間は夕方の6時です。私達夫婦はこの日は朝から何も手につかず、頭の中は約束の時間に一分一秒でも遅れてはならないとの一念で、この日は午後から「久保田」亭に一番近いJR御徒町駅近辺を2〜3時間かけて散策しておりました。

 午後5時、近くの喫茶店「ドトール」に入り、静かにコーヒーを飲みながら、6時の約束に供えて、ゆっくりと身を休めておりました。
5時15分、家内の携帯にメールが入り、開いてみると何と帯津先生の代理(山田婦長)から、¨只今「久保田」に到着しました。お待ちしております¨の一報でした。

 私達夫婦は、コーヒーどころではありませんでした。あわてふためいてすぐさま喫茶店を出て、約束の場所を目指しました。小雨が降っていた筈ですが、傘をさすのも忘れて、一目散に¨久保田¨亭に向かって突進しました。私はこの日は腰痛気味の筈でしたが、何もかも忘れてまるでマラソンを走っている様でした。5時30分、やっとの事で目的地に到着し、安堵の胸をなでおろしたのです。

 この日の帯津先生は、これまで出会った中で最もおしゃれな赤い縦じまのYシャツを着て、この日が初めてと言う素敵なスーツを召されておりました。おしゃれの理由は、どうやら帯津先生の心をとらえて離さない超美人と噂の高い「久保田」亭のおかみの為のおしゃれではなかったか・・・??と私の目には映らないでもありませんでした。この日の帯津先生は始終、まるで子供の様な恥じらいの笑顔に溢れていて、こんな可愛らしい帯津先生を見られたのは望外の喜びでありました。

 私にとってこの度の再会での最大の収穫は、帯津先生の¨96歳宣言¨でありました。
帯津先生は常々、¨人間の死に時は83歳前後が一番いい¨と申しておられて、100歳人生を目指している私にとっては、83歳説だけは何とかしてもらいたい唯一の不満点でしたが、この日の夕食会で、¨96歳宣言¨が飛び出したのですから、私にとってこれ以上の喜びはありません。

 帯津先生の考え方が変わったのは、数日前の「週刊朝日」で対談された相澤さん(司葉子さんのご主人)の影響によるものらしいのです。相澤さんは大蔵政務次官まで昇り詰められた方ですが、若い頃は戦場に行き、捕虜にもなり、苦汁を嘗め尽くして終戦を迎え、その後も大病と闘いながらも、96歳の人生をカクシャクとして生きておられる姿を見て、83歳はまだ小僧でしかないと悟られたのだそうです。
¨96歳宣言¨をされた帯津先生にに乾杯!!!。2015年11月14日は本当に、素晴らしい大収穫の、帯津先生とのまさかの再会でありました。
              (2015・11・25日の記)


奥田のコラム(NO233)「 ツール・ド・おきなわ2015」と 孫の応援 ( 2015/11/10 )

 
 沖縄タイムス「ツール・ド・おきなわ2015」当日号外記事

 
 完走記念ボード前にて

 
 表彰式会場にて

 
 大会前夜、父親との作戦会議

 
 希望2歳も応援団に加わって

 
 いざ、出発。ペンション前にて

 気温30度、快晴。2015年11月8日、自転車競技の祭典「ツール・ド・おきなわ2015」が沖縄やんばる路(沖縄北部の地)で開催されました。この大会はすでに27年の歴史があるそうですが、年々規模が大きくなり、今年の参加者は4593人、県外・海外からも沢山の人達が参加するビッグなイベントに成長しております。

 私は自転車競技には殆ど無縁だったのですが、石垣島に住む長男孫(奥田拓夢12歳 小学6年生)が、昨年に続いて、今年もまた参加するとの事で、今年は早くからこの日の来るのを楽しみに待っておりました。今年は小学校最後のエントリーと言う事もあって、私達家族は出来るだけの応援をしてあげたいとの気持ちから、大会前日から大会会場の近くにある¨希望ヶ丘ペンション¨に宿をとり、家族全員(私達老夫婦、娘夫婦と孫2人(希望(のぞみ)2歳、音羽(おとは)2か月)それに石垣からの参加者とその父親)の8名がペンションに集合し、当日に向けてのスタンバイをしておりました。
 久しぶりに、いや、もしかしたら初顔合わせの8人家族で過ごしたペンションでの前夜祭は、とても楽しい想い出に残る一夜となりました。

 一年ぶりに再会した6年生になった孫のたくましい成長ぶりには目を見張るものがありました。身長1メートル50センチ、体重40キロ、体脂肪は何んと10パーセントを切ると言うのですから、体脂肪25パーセントの私にとっては、信じられない孫の姿でありました。

 さて、大会当日、朝6時頃には全員起床。朝食をとった後は3台の車に分乗して、それぞれ大会会場に向けて車を走らせました。選手親子は出発地点へ、娘家族は中間地点へ、私達はゴール地点でそれぞれ待ち構えてカメラをセットしてスタートを持ちました。小学生の部は10Kの距離でしたが、それでも十分迫力のあるレースでした。
 私は孫の雄姿をカメラに収めるべく、ゴール近くに身構えて、シャッターチャンスを待ち続けておりました。待つ事約15分、アッ見えた!!とばかりシャッターを押し続けた筈でしたが、カメラに写っていた孫の姿は、ゴールを通り過ぎたはるか先の後ろ姿でしかありませんでした。残念ながら私のカメラは昨年の失敗に続いて、今年もまたまた大失敗に終わってしまいました。

 それでも孫の拓夢は頑張って6位入賞を果たしてくれましたが、かなりの上位を目指していた当の本人は、相当の悔しさであったように見受けられました。孫の名誉の為に一言言葉を付け加えてあげたいのですが、この孫は勉強大好き人間で、勉強の合間に野球とトライアスロンの練習にも励んでいたのだそうです。
 来年は中学生です。何処のどんな学校に進学するのか、これから受験に絞って頑張るとの事です。私としては彼がどんな人生の道を進むにしても、いつまでも心からの応援をしてあげたい、本当に可愛く礼儀正しい自慢の孫であります。
 孫、拓夢君のお陰で、私達じいじ・ばあばにも大きな楽しい想い出をつくらせてくれた「ツール・ド・おきなわ2015」に心より感謝いたします。
                2015年11月10日の記


奥田のコラム(NO232) 日野原先生104歳の記念講演会in沖縄 ( 2015/11/02 )

 
 日野原先生104歳記念講演会in沖縄のチラシ


 
 結婚46年目記念ピザハウスの前にて


 
 お祝いの乾杯


 
 お祝いの乾杯


 
 バラの花


 
 

 日野原先生104歳の記念講演会は、「新老人の会」沖縄支部創立7周年の記念事業として行われたものでした。午後1時開場、2時開演との事で、私は1時半に会場に行ったのですが、会場はすでにほぼ満席にちかい状況、104歳を元気に生きる事への関心度の高さに驚きました。

 日野原先生は今回は車椅子でのお話でしたが、時々立ち上がって、手に持った杖を高々と振り上げ、ぐるぐると回しながらチャップリンの真似をして会場を沸かせておりました。
 以下、日野原先生のお話を要約して今日のコラムに書き留めますが、十分なメモではない事をお詫びいたします。

・ ボストン美術館に、命の事を考えさせてくれるゴーギャンの巨大な絵画があります。この絵の中には我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はこれから何処へ行くのかが描かれております。

・ 人間の命は必ずいつか終わります。人間の死は逃れる事は出来ないが、しかし、どう死ぬかについては工夫する事が出来るのです。死に方上手は生き方上手と言う事になるのです。

・ 人生をどう輝いて生きるかについての私の結論は、人間与えられた命をどれだけ誰かの為に捧げられるかにかかっているのだと思います。
 半世紀程も前の事ですが、私は日本赤軍による「よど号」ハイジャック事件に遭遇し、その時はこれで人生の終わりを覚悟したのでしたが、その時の石田機長と当時の山村新治郎運輸政務次官のお陰で命を救われました。私はこの時から残された人生を人様の為に尽くそうと思う様になりました。

・ 人間はいろんな人や、いろんな事から人生を学ぶ事が出来るのです。私が生涯を医者として生きようと決心したのは、一人の16歳の少女の死に出会った時からでした。私はその当時担当医としてその少女を救えなかったのです。
 自分の体験を通して、よりよく生きる為の4つの提言をいたします。

(1)出会いから学ぶ
人間はある人との出会いによって新しい運命が始まる事があります。新しい出会いにはいろんな場合があると思いますが、直観力と決断力が求められる事になるでしょう。日々を真剣に生きておれば、きっといい運命の人生に導かれるに違いありません。

(2)生き方を変えてみる
動物は走り方を変える事は出来ません。鳥も飛び方を変える事は出来ません。しかし人間は生き方を変える事が出来るのです。私達は人間として生まれたのですから、時には人生の歩みを変えてみる勇気を持つ事も、大事な人生の条件かも知れません。

(3)老いを創める
人間が年を重ねる事は仕方の無い事ですが、何歳になっても創める事を忘れなければ、老いる事は無いのです。幾つになっても創める事の素晴らしさに挑戦して人生を輝かせて下さい。私は2〜3年前から俳句と墨絵を始めて、更なる人生の喜びを感じております。

(4)自分の人生をデザインする
これはベルクソンの言葉ですが、自分の運命は自分で変える事が出来るのです。
ですから時には自分の新しい運命に、勇気を持って挑戦してもらいたいものです。自分の新しい運命が開けた時の喜びには格別なものがあります。

・ 104歳の私の希望は、今日この会場にお見えになっておられる皆さんが率先して、次世代に平和の尊さを伝えられる大人になってもらいたいのです。平和の原点は優しさにあるのですから、子供たちに他人を思いやる事、いじめを無くする事を伝えて欲しいのです。
         
・ 104歳の私のもう一つの希望と提言は、人は命がある限りは、何かのお役に立てる事です。一番大事な事は、命を平和と人々の幸せの為に使う事だと思います。

・ 沖縄から世界に平和を発信して下さい。
沖縄は先の戦争で、20万人もの命が失われたところです。世界に向けて平和を発信するのに最もふさわしい所です。世の中から戦争をなくして、沖縄が日本一のパラダイスアイランドになってくれる事こそが、104歳の私の最大の願いであります。皆さんくれぐれもよろしくお願いします。
         (以上講演会からの抜粋です)
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* 今日11月1日は、私達夫婦(奥田清志・泰子)にとっては結婚46年目に当たる日だそうです。昨夜家内からその事を告げられ、さてどうしたものかと一瞬とまどいを覚えたのですが、どうにもなりませんでした。近くのスーパーにバラの花でもあれば・・・と思い出向いたのですが気に入ったものがなく、この件については後日改めてと言う事にしてもらいました。

 私はこの日の午後は、日野原先生の104歳記念講演会に行くことにしておりました。
家内は生後二か月になる孫を夜遅くまで預からねばならない事になっていて、この日はとうとう夫婦一緒に食事に出かける余裕もないまま一日を終える事になりました。
 後日、日を改めて二人で豪華な夕食会でも・・・と私は思っているところですが、幸か不幸か、家内は只今断食直後の事なので、食事はなるだけ控えめの方が良いのだそうです。2015年の11月1日、今年の神様は実にお見事な結婚記念日を私達に授けてくださったものだと、私は心中深く手を合せて感謝をしているところであります。  合掌

                  2015・11・1日の記

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