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奥田のコラム

21世紀養生塾沖縄「天遊会」代表の奥田清志です。
ここでは健康に関する事を中心に、印象深い日々の出来事や、時には忘れ難い過去の思い出話なども含め、私の近況報告とさせていただきます。
( コラム中の画像はクリックで拡大します)
奥田清志


奥田のコラム(NO227) 辺野古新基地反対沖縄県民大会 ( 2015/05/24 )

 
 辺野古基地建設反対沖縄県民大会

 
 辺野古新基地建設反対の先頭に立つ翁長沖縄県知事

 
 学生代表:古堅智美さん

 
 ジャーナリストの鳥越俊一郎さん

 
 映画監督のオリバー・ストーンさん

 
 白梅同窓会会長の中山きくさん

 一週間前の沖縄(5月17日)は、雲ひとつない快晴でしたが、気温は30度を超える猛暑の一日でした。この日沖縄では、『戦後70年・止めよう辺野古新基地沖縄大会』が開催され、約40,000人もの人達が会場となった沖縄セルラースタジアムを埋め尽くし、あまりに不条理な日本政府の¨辺野古新基地建設¨に最大級のNO!!をつきつけた歴史的な一日であったと私は思います。

 私は沖縄にご縁をいただいて40年を越えました。私はなるだけ政治事には関わりたくない部類の人間ですが、この日ばかりは何としても会場に足を運ばねば、沖縄でお世話になった40数年のご恩に申し訳がたたない気がして、78歳の老体に鞭打って参加したのでした。

 会場となったセルラースタジアムは、もの凄い人の数で、私はスタジアムの外野席にわずかな自分の席を見つけるのが精一杯でした。私の身の回りには赤ちゃんを抱いた若いお母さんや、家族と思われる人達や、どうみても私よりも年上と思われるおじい、おばあの姿が至る所に溢れていて、本当に驚きました。
 この光景を見るにつけ、ウチナンチュー(沖縄県民)の真の願いは、もうこれ以上沖縄を戦争の島にしないで欲しいとの切実な願いが込められた集会であったに違いありません。沖縄には先の戦争で苦渋をなめ尽くした人達が、まだ沢山おられるのです。

 沖縄は戦後70年経った今でも、まだ日本における米軍基地の74%が置かれたままです。その一つの基地が、¨世界一危険¨と言われる普天間飛行場です。日本政府はその普天間飛行場の負担軽減を最大の理由に掲げて、その代わりに今度は天然記念魚のジュゴンの住む、かけがえのない美しい沖縄の海(辺野古)を埋め立て、巨大な新基地建設を強行しているのです。

 軍事事情に詳しい人の話によれば、日本政府(安倍首相)の本心は、この辺野古新基地に100機のオスプレイを配置し、¨抑止力¨と言う名のもとに、沖縄を更なる日米防衛の中核基地にしようとしているのだそうです。沖縄県民は今、総力を挙げてこの日本政府のもくろみに立ち上がったのです。

 昨年の選挙で、沖縄県民は圧倒的多数で、辺野古基地反対を掲げた翁長雄志さんを知事に選びました。翁長知事は『どんな事があっても、辺野古に基地は造らせない』!!と宣言して日本政府に対峙しております。沖縄県民の大多数が翁長知事と心を一つにしていると思います。私もその一人であり続けねば沖縄県民の資格はないと心に決めております。

 5月17日(日)の県民大会壇上で挨拶された方たちの中から、4人のお話を抜粋させていただき、今日のコラムに記しておこうと思います。

(その1) 学生代表:古堅智美さん(沖縄国際大学4年生)
 日本政府はもうこれ以上基地で沖縄県民を苦しめ、自然を破壊してまで基地建設をするのを止めて欲しい。この青い空、青い海はアメリカ政府や日本政府、安倍首相のものではなく、私達沖縄のものであります。

(その2) オリバー・ストーンさん(映画監督)
 5月17日の抗議行動にあたり、私は皆さんに敬意を抱き、支持を表明します。
あなた達の運動は正当なものだ。「抑止力」の名のもとに建設する巨大基地は一つのウソだ。アメリカ帝国が世界を支配する目標を進める為のもう一つのウソだ。
世界中にはあなた達のように、あらゆる分野で闘っている人達がいる。それは平和と、良識と、美しい世界を守る為の闘いなのだ。

(その3) 鳥越俊太郎さん(ジャーナリスト)
 戦後ずっと、私は沖縄の犠牲の上に私達はあるのだと感じ続けていた。その為に私は辺野古新基地建設反対共同代表にさせていただいた。この県民大会が新たな闘いになる事を皆さんと確認したい。辺野古の海に100万人の反対運動の輪を実現させようではありませんか。その位の事をしないと、日本政府の安倍ドルフ独裁政権(ドイツのアドルフ・ヒトラーになぞらえて)を倒す事は出来ないのです。

(その4) 中山きくさん(白梅同窓会会長)
 私は70年前、「お国の為」と県民総出で軍事基地づくりをした事が思い出される。その結果、それは抑止力にはならず、むしろ沖縄戦に直結し、かけがえのない多くの命を失い、大切な郷土の自然も文化遺産も全て失いました。戦争は人類にとって最も不幸な、忌むべき事だと思い知らされた。
 現日本政府は「国民の命を守る為」と称して、いま辺野古の海に新基地建設を強行に進めている。私は軍事基地は戦争に繋がるばかりか、人権侵害の最たるものである事を、戦争を知らない若い世代に伝えたい。「命どう宝」、武力を伴わない平和が一番だ。
  (以上。いずれも琉球新報より)                            (2015・5・24の記)


奥田のコラム(NO226) ¨母の日゛のまさかのサプライズ ( 2015/05/12 )

 
 母の日のバラと母の写真(27年5月10日)

 
 映画゛幕末゛で坂本竜馬役の中村錦之介さん

 
 映画゛幕末゛で芸者役の江利チエミさん

 
 映画゛幕末゛の長崎料亭での宴席風景

 
 映画゛幕末゛で酔っぱらいの演技をする私(奥田)

 
 歌舞伎座での私(左から2番目)

 昨日の5月10日は母の日でした。私の母は20年前に他界しておりますので、母の日に私がやっている事は、ささやかな花束を買ってきて、母の写真の前に飾る事位でしかありません。今年は家内がきれいなピンクと真っ赤なバラの花を見つけてきてくれたので、それを花瓶に飾ってもらいました。

 さて、今年の母の日の前日、あまりの偶然とはいえ、私には本当に不思議としか言いようの無い出来事に遭遇する事になりましたので、今日のコラムに綴る事にいたします。

 朝の気功・太極拳教室を終えて家に帰り、昼食をとった後長椅子に横たわり、うたたねをしていた私は、突然左足の痙攣による激痛に見舞われ、長椅子の上でのたうちまわっていたのでした。と、そんな時、TVを見ていた家内が『お父さん、お父さん、今TVで¨幕末¨と言う映画をやっているけど、ひょっとしてお父さんと何か関係があった映画ではないですか・・・???』と言うのです。私はもしかして¨あの幕末¨ではないかと思い、左足の激痛を必死にこらえながらも、両目をパッチリ開いて、しばしTVを見つめていたら、まさにその映画は私の知るところの¨あの幕末¨なのです。

 この映画(幕末)が世にでたのは、今から半世紀程も前の事なのですが、私はその当時のいきさつを知っておりますので、この機にお話ししておこうと思います。

 今年のNHK−TV、日曜夜8時から放映されている大河ドラマは¨花燃ゆ¨でありますが、大河ドラマの第一回の作品は1968年、坂本竜馬を主人公にして作られた¨竜馬がゆく¨(原作司馬遼太郎、主演北大路欣也)でありました。この¨竜馬がゆく¨は、NHK―TVで放映された直後か殆ど時を同じくして、今度は東京東銀座にあった旧歌舞伎座の舞台に取り上げられての長期公演となりました。この舞台での主演は今は亡き中村錦之介、舞台監督は時代劇映画監督としてあまりに著名な伊藤大輔さんでありました。
そして坂本竜馬を主人公にした第3部作こそは、当時の中村プロダクション制作による映画の¨幕末¨なのであります。この映画の中での主人公を演じたのも歌舞伎座公演と同じ中村錦之介、伊藤大輔監督のコンビによるものでした。

 坂本竜馬は今では誰もが知る土佐藩(今の高知県)の武士でした。私も土佐の高知出身ですが、そんな事がご縁で、私は偶然にも上記の3作に、土佐弁の指導役に抜擢され、それに係っていたのでした。そして気が付いてみると、方言指導役の私が、それら3部作すべての作品の片隅に、役者として出演していたのでした。
今になって思う事は、多分私の方言指導の労をねぎらって、監督さんが示してくれたご厚情によるものであったに違いありません。後日伊藤大輔さんから長文の巻き手紙が届いていた事をはっきりと記憶しているのです。

 さて、映画¨幕末¨での私の役は、とある長崎の料亭で、芸者役の江利チエミさんの歌・三味線に合せて、とことん酔っ払いを演じる土佐藩の侍の役でありました。     私はそんなシーンの役を演じさせられた覚えは50年を過ぎた今でもかすかに記憶の中に残ってはいるのですが、どんな演技をしたのかと言う記憶は殆ど忘れておりました。それが何と、今年の母の日の前日に偶然目にする事となった映像には、ものの見事に映し出されていたのです。あまりの酔っ払い振りに、(勿論その時お酒は1滴も飲んではおりませんし、私自身はお酒は飲めません)私は一瞬自分の目を疑う程の見事な酔っ払いを演じていた自分を発見して、愕然としたのです。そればかりか、まわりの侍たちに意見をするセリフの演技までしていたのですから、まさに青天の霹靂とも言える一瞬でした。

 どうしてこんな映画のシーンが50年近くも過ぎて、しかも母の日の前日に私の目に飛び込んで来たのであろうかと、私は本当に不思議でならないのですが、これは最近急激に足腰が弱って来て、元気度が半減してきている私への母からの励ましの表れではないかという気がしてならないのです。私は頑張らねばならないと決意を新たにしているところです。

 ¨幕末¨の映画の中には、今は亡き名優の小林桂樹さん(西郷隆盛役)や、三船敏郎さんや、今も活躍されている仲代達也さん(中岡慎太郎役)、当時20歳位のういういしい吉永小百合さん(お龍の役)などの姿も映っていて、感慨深いものがありました。

 今年の母の日は、本当に思いもかけない母の日となりましたが、もしかしてこれは天国の母からの貴重なプレゼントだったかも知れません。偶然とはいえ不思議な運命のいたずらに感謝をしないではいられません。合掌です。
             (2015・5・11日の記)


追伸:NHK−TVの『竜馬がゆく』と歌舞伎座公演の『竜馬がゆく』については私のコラムNO86、87に幾分書き綴っておりますが、映画¨幕末¨についてはどこにも書き残してはおりません。理由は殆ど忘れかけていたからです。
 昨年の暮れに荷物を整理していた際、家内が¨幕末¨と書かれた台本を見つけてくれたのですが、現在どこにしまったかの記憶がないと言う事なので、探し当てればその当時の事が、もっと詳しく思い出せる事と思っています。


奥田のコラム(NO225) ¨イチキロヘラス運動¨と私の太極拳人生 ( 2015/04/19 )

 
 ¨イチキロヘラス運動¨番組の司会者とタイトル

 
 太極拳練習風景その1

 
 太極拳練習風景その2

 
 太極拳練習風景その3

 
 70代・80代の両新垣さん

 
 元気で熱心な女性の生徒さん達

 つい先日(4月9日)の事ですが、OTV(沖縄テレビ局)からの依頼で、私達の太極拳教室(県立奥武山武道館)が取材を受ける事となりました。突然の出来事でしたので、
生徒さん達はいささか戸惑い気味でしたが、とにかく1時間半ほどの取材を無事に終える事が出来ました。その時の様子は翌日の夕方のTVニュースで3分ぐらいに集約されて放映されました。思い出に残る楽しい出来事でした。

 今回のTV取材を通して、私は今あらためて¨健康長寿¨について考えているところです。やがて79歳になる私ですが、79年間の人生経験を通して、健康長寿人生への思いをお伝えしようと思います。

・¨イチキロヘラス運動¨が始まったのは、つい最近の事だと思います。長い間、長寿県日本一を誇っていた沖縄県が、この10数年のうちに、女性が全国の第3位に、男性に至っては何と33位迄に急転落し、その原因が肥満(メタボ)にあるとの結論から、急遽沖縄県が腰を上げてこの運動が開始された・・・と私は理解しております。

・ 健康長寿を損なう原因の全てが肥満にあるとは私は思いませんが、かなりの要素である事は確かな事かも知れません。詳しく調べていく内に解ってきた事は、沖縄の若年層の生活習慣、ことに食生活の急激な欧米化、ファーストフード化、それに日本一多い居酒屋の数等がその最大の要因になっているらしいのです。

・ 沖縄県からの海外移住者が最も多いブラジルの沖縄社会でも、現在の沖縄と同じ様な現象が現れているとの事です。しかし、今でも70〜80歳を過ぎたおじい、おばあ(沖縄ではさんはつけません)の健康長寿度は格段に素晴らしく、沖縄でもブラジルでも元気一杯の百寿者がたくさんおられるとの事です。私達は昔を生きた大先輩達の生活の知恵に深く学ばねばならないのではないでしょうか。

・上記のような現状も含め、現在の私が日々に実行している健康人生への心掛けは以下の様な事です。

(1) 食べ過ぎない事。食の中味を考える事。感謝をしていただく事。飲み過ぎない事。(私はお酒が飲めないのでこの心配はありませんが、本当は少しお酒が飲めるといいなーと思っています)。

(2) 夕食は楽しく、なるだけ早めに終えるようにしています。(夜遅く食べる事が一番肥満に繋がる様な気がしております)。

(3) 日々、適度の運動(体を動かす事)を習慣づけております。特に私は@柔軟な体づくりと、A足腰の強化と、B深い呼吸を心掛けています。

(4) 人間は一日に約20.000回の呼吸をしているそうですが、そのうち100回でいいから吐く息、吸う息に真心を込めた深い呼吸をすれば、病気はその人から逃げていくのだそうです。(これは私の健康人生の恩師でもある帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)とお釈迦様が残された言葉の合作です)。

(5) 目先の小さな出来事にくよくよしないで、出来るだけ大きな心でいられるように努めています。病気になる原因の70%位は心の病と関連しているのだそうです。心の病にかからない為にも、私は大自然、大宇宙と心を一つにした深い呼吸をお勧めします。

(6)シニア―からの人生は、¨ゆっくり¨、¨ゆったり¨がいいのではないかと思う様になりました。何事にも¨丁度いい¨というところに気付く事が健康人生へのキーポイントではないかという気がしております。

(7) 80年近く生きての私の結論は、『どんなに世の中が変わろうが、人間は大自然、大宇宙の摂理の中に生かされて生きている。従って、大自然、大宇宙の摂理から外れた生き方をすればする程、健康人生はその人から遠ざかっていく』という事です。

(8) 私は今から20年程前、家内の突然の事故入院がきっかけで、気功・太極拳とのご縁をいただき、以来その世界に深く魅せられ続けております。気功・太極拳に出会えたお蔭で、今では、¨100歳人生を生きよう¨と思う様になりました。元気でさえいれば、100歳には100歳の深い人生の意味と喜びがあるに違いないと思っています。

(9) 私の目指す太極拳は武術としての太極拳ではなく、大自然、大宇宙と身心を共にする太極拳です。とても気持ちが良くなる楽しい太極拳です。
今私が一番幸せを感じるのは、気功・太極拳教室を通して、どうやら人様の健康づくりのお役に立てているらしい事であります。多くの方々から元気になっていく喜びの声を聞くにつけ、これに優る喜びの人生はありません。

(10)¨イチキロヘラス運動¨の先に、この世に生を受けた人達が、この世に命がある限り、元気な一生を過ごして欲しいと願わずにはいられません。人生の長きを生きるにあたって、¨健康こそは人生の一番大事な宝物¨と言う感がするばかりの昨今の私であります。
¨イチキロヘラス運動¨に、私達の太極拳教室を取り上げ、取材して下さったOTV関係者に感謝です。有難うございました。
               (2015・4・18日の記)


奥田のコラム(NO224) さようなら、山川のお父さん ( 2015/04/05 )

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

 つい一週間程前、¨うりずん料亭¨の土屋さん(享年73歳)を見送ったばかりなのに、今日はまた私のマラソン人生の大先輩でもあった山川文康さん(享年93歳)の死を新聞の追悼記事で知る事となり、私の沖縄人生で深く思い出に残るお二人の相次ぐお別れに、言葉を失う日が続く事となりました。

 山川文康さんとの出会いは今から30年程前に遡ります。その当時私は自分が50歳になるのを記念にしようとの思いから、その当時にスタートした那覇マラソン第一回大会
(1985年)に参加し、見事に20キロ地点で失敗し、以後第2、第3回大会は、余りのマラソンの苦しさが思い出され、マラソンは雲の上の世界と思って諦めておりました。
 そんなある日、知人から¨一年後のロンドンマラソンを走りませんか!!?¨とのお誘いを受け、私は随分迷ったのですが、ロンドンに参加される人達の名簿の中に、何と私よりも15歳も年上の68歳になられる山川文康さんの名前が記されていたのです。

 その時からの私はロンドンマラソンに参加し、完走する事を深く胸に刻み、生まれ変わった気持ちになって朝に夕に、そして月夜の夜には月に願いを込めて、走る距離を3K―5K―10Kと増やしていき、とりあえず第4回大会の那覇マラソンを完走させたのです。そしていよいよ4か月後のロンドンマラソンです。私は祈るような気持ちでロンドンマラソンに挑戦し、完走し、人生で初めて本当の本物の感動を体験させていただいた懐かしい想い出があるのです。山川文康さんの存在がその大きな原動力になってくれたことは申すまでもありません。

 その当時の想い出はコラムNO119に書いておりますが、山川さんの事には触れておりません。山川文康さんも無事に完走されましたが、ゴールインの直後に救急車で病院に運ばれたと聞いておりました。
その日のロンドンの気温は9度と言う寒さでした。沖縄人間にとって10度以下の寒さを体験する事は皆無なのですから、68歳の山川文康さんが何はともあれロンドンマラソンを完走された事は、今から思えば本当に凄い事で、今更ながら深く敬意を表さずにはいられません。
 その時以来私はすっかり山川さんのファンになり、山川さんの事を山川のお父さんと呼ばせていただき、折に触れ親しくさせていただいておりました。山川のお父さんはいつも笑顔に溢れた本当に優しいお人柄でした。

 山川文康さんは以前は沖縄県体育協会の会長の職に就いておられました。退職後は、年齢別で競い合うマスターズ競技に心血を注がれ、数々の新記録を更新された方でもあります。
 80歳をすぎた頃からは、毎朝5時には波の上ビーチに行かれ、海につかり、砂浜で逆立ち歩行をする姿が評判となり、世界的にも有名なナショナル・ジオグラフィックという雑誌の表紙を飾った事でも知られておりました。

 山川文康さんの座右の銘は『走即人生』であったとの事です。私は山川さんこそは間違いなく元気な100歳を生きて、マスターズの記録を塗り替える人と確信し、期待していた矢先でしたので本当に残念でなりません。亡くなられたのは3月24日の事でした。私は告別式でのお別れは出来ませんでしたが、今は心の中で深く両手を合わせて、山川文康さんのご冥福をお祈りしています。さようなら山川のお父さん、本当に本当に有難うございました。合掌です。                 
                (           2015・4・4日の記)


奥田のコラム(NO223) ありがとう、¨うりずん¨の土屋さん!! ( 2015/03/27 )

 
 うりずん本店

 
 土屋さんからいただいたシーサー

 
 島武己さんからいただいたぺアシーサー

 
 

 
 

 
 

 今朝の新聞で、¨うりずん¨の土屋寛幸さん(73歳)が亡くなられたとの記事に接し、無念さの中にも、沢山の想い出が頭いっぱいに浮かんできて、私はしばし茫然の時を過ごしておりました。
¨うりずん¨の土屋さんと言えば、言わずと知れたあの¨泡盛と琉球料理の店¨の創業者であります。

 私は今から43年前にご縁をいただいて沖縄の住民にさせていただいております。沖縄に足を踏み入れた直接の要因は、1975年に開催された沖縄本土復帰記念事業、「沖縄海洋博覧会」でしたが、その頃の経緯についてはコラムNO 87に書いておりますので、今回のコラムは土屋寛幸さんとの想い出に絞らせていただきます。

 私が沖縄に住みついてからの数年間は、沖縄の西も東も殆ど何も解らない年月を過ごしておりましたが、何故か¨うりずん¨の事だけは早くから知っていたのです。私はお酒や泡盛とはまるで無縁の人間ですが、¨うりずん¨の想い出はとにかく珍しい名前の付いた沢山の琉球料理が、信じられない程の安い価格で、お腹いっぱい食べられた事、そしてギターの弾き語りをするお兄さんが料理を運んできてくれて、賑やかに場を盛り上げてくれた楽しい想い出が今でも身体に染みついているのです。

 回を重ねて¨うりずん¨を訪ね、県外からの友人・知人達を連れていく内に、いつしかオーナーの土屋さんと言葉を交わすようになり、私は土屋さんの素朴で誠実なお人柄に惹かれ、増々¨うりずん¨のファンになっていきました。
 ある年の暮、土屋さんからまるまる一匹の大きな鮭が家に届けられた時の想い出も忘れられませんが、土屋さんとの一番の想い出は¨シーサーの焼き物¨とのご縁で、その時のご縁はあの時から30数年が過ぎた今でもずっと続いているのです。

 
 或る日¨うりずん¨での夜の宴会を終えて帰宅の途につく事になった時、私の目は階段の片隅に置かれていた一体のシーサー(獅子像)に釘付けになっていたのでした。と、その時土屋さんが近づいて下さり、『シーサーがお気に入りですか?』と声を掛けて下さったのです。私は『とても素晴らしいと思います』と答えたところ、土屋さんは『このシーサーは陶芸愛好家の間では絶大の人気作家である島武己さんの作品ですが、残念な事に、このシーサーは左足としっぽが壊れているのです。それでもよければ差し上げますからお持ち帰りください』と言って私にくれたのです。まるで夢のような突然の出来事でしたが、そのシーサーはその時以来私の住む処にずっと一緒についてきてくれているのです。

 この話にはまだその続きがあるのです。
そんな事のあった後の或る日、土屋さんは私をそのシーサーの生みの親である島武己さんの工房に連れて行ってくれ、島武己さんを紹介してくれました。私の目に映った初対面の島武己さんは、不思議な魅力に溢れた人物で、会った瞬間から私はこの人の虜になってしまったのです。

 島さんの工房を何度か訪ねているうちに、私は工房の周りを散策するようになっておりました。工房は見晴らしの良い高台にあり、その高台からは中城湾が一望できる素晴らしい景色が拡がっていました。そこには何体かのシーサーが無造作に置かれたままになっておりましたが、その中で一番大きな一対のシーサー像の前に、私はいつも立ち止っていたのです。島さんはそんな私の姿を何時、何処で、どうして観察していたのか解らないのですが、数日後、その一対のシーサーは車に乗せられ、私の家に運ばれ、玄関の柱の両脇に置かれていたのでした。まるで夢のような本当の話です。

 このシーサーは、ちょっとやそっとで移動できるものではなく、その後の2回に渡る私の移転先にはついては来れず、残念ながら今はあるホテルのお店の前に置かれたままになっております。

¨うりずん¨とは、沖縄で最も気持ちの良い初夏の季節をさす言葉だそうです。
沖縄にうりずんの季節がある限り、¨うりずん¨の土屋さんの事は忘れないと思います。
土屋さん、うりずんの季節にはまた何処かでお会いしましょうね。生前の不思議なご縁に感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。
土屋さん、本当に有難うございました。合掌です。
                (2015・3・26日の記)

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